第35話 化鳥、奮闘記4

 しかしすぐに慣れたのか、きょろきょろしながら二人は廊下を歩く。その際、ぎしぎしと大きな音が鳴るのはうぐいす張りでも泥棒避けでも何でもなく、親分が重たいからに他ならない。

「これはもともとは、大坂の太物問屋が江戸に出した店でな、店を畳む際にわしが買い取った」

「あれかい、大坂から修行も兼ねて江戸に出された若旦那が悪い仲間にひっかかって、吉原通いの上に博打三昧でお店があっという間に傾いて、大番頭からの連絡で驚いた両親が籠を飛ばしてやってきて、三日のうちに店を畳んで大坂へ連れ戻されたってはなしの店かい?」

 大工の熊八が一息に喋る。詳しいねぇ、と思わず親分と英次郎の声が重なる。

「そりゃあ江戸っ子だもの、と言いてえところだが、あっしはちょうどそのころ、この裏手で大きな仕事してたのさ。屋根に上ってりゃいろいろ見えるし聞こえちまうってぇ寸法で」

 五郎蔵もうんうんと頷く。江戸の熊さん八つぁんの間では相当有名な話であったらしい。

「しかし、熊さんよ、この建物も悪い連中にとられたって佐兵衛どんから聞いたがよ……」

「そうだったな……大家のじいさんが嘆いてたっけ。質の悪い連中が出入りするから危なくって道を通れやしないとかなんとか……」

 ああ、それは、と、英次郎が話に割って入った。

「悪い連中がこの建物に目をつけていたのは間違いない。買い叩かれそうになったところをこの親分が助けたのだ」

 ほーう、と町人が二人そろって親分を見た。

「……いやなに、せっかくお江戸で商売を始めたのに悪い連中のせいで盛大にしくじった。若旦那の遊び仲間がよくない連中だと知っていながら取り締まらなかった南町や我らにも少しは責があると思うてな」

 ぼそぼそと親分がつぶやく。

「せめて店と屋敷を正規の金額で買ってやれば、少しは損失の補填になるだろう、と親分は考えたわけだ」

 と、英次郎が後を引き継いだ。

「……お武家さん、こちらの親分さんは噂に聞く以上にお人よしのようで……」

「まったくその通りです。親分は、やくざで金貸しで縦にも横にも大きい巨体の持ち主であるが、それと同じくらい心が広くて、ひょっとしたら江戸で一番のお人よしかもしれん」

 よせやい英次郎、と、太一郎親分がひとしきり照れた。

「勘違いしては困る。わしはそんな善人ではない。どうあがいても、やくざものなのだ」

 だが、朝顔長屋の二人はすっかり親分に親近感を覚えたらしい。

「親分、あんたいいお人だな」

「親分がいるなら、あっしらの暮らしも安泰だ」

 ぽん、と二人がそれぞれ親しみを込めて親分の肩を叩いた。


 奥の間へ通された二人の前に、大きなお湯のみと山のような菓子が運ばれてきた。

 ――串団子、葛餅、けさいな餅、ちまき、落雁などがびっしりと置かれ、最後に運び込まれた小皿には焼きたてのぼうろ、そして見事な飴細工が置かれてあった。

「親分、これが全部です」

 ごゆっくり、と人相の悪い男たちが下がっていき、一人の痩せた男が残った。

 ちなみに残った彼は、衣笠組専属の菓子職人喜一である。職人としての腕はいいのだが博打で借財を重ね、ついにお店にいられなくなった彼を、腕前に惚れ込んだ親分が雇い入れたのだ。

 このところ、英次郎の母お絹と交流を重ね、南蛮菓子作りにも取り組んでいるらしい。

「……喜一、腕をあげたなぁ……」

 と、親分が喜ぶ傍らで英次郎が指先でそっと、有平糖をねじって作られた棒と、小さな鞠を摘まむ。

「これは見事です、喜一さん」

「恐れ入りやす。お絹さまにはまだまだ……」

 そんなことはないぞ、と、英次郎が喜一を見る。

「母上がこれを作るのは難しいといつも零している。飴の温度調節が難しいうえ、冷め始めた瞬間から手早く細工をはじめ、冷めきった時には形にしていなければ話にならぬゆえ熟練の職人でも難儀であるとか。それをこの短期間で、さすがだな」

 武骨な職人が、心底嬉しそうに笑った。

「でかした喜一、しっかり励め!」

 と、太一郎も誇らしそうである。

「へぇ、ではあっしはこれにて」

 さっと喜一と英次郎が目配せをした。

 喜一の腕前があがり、美味い菓子がたらふく食える――と思っているのは太一郎だけである。

 親分が肥え過ぎないよう工夫に工夫を重ね甘みを抑え、しかし親分が満足する量と質を提供し続けている、と、見抜いたのはお絹である。喜一は間違いなく江戸で一番の職人であろう。

 そして英次郎は、太一郎が甘味を食べすぎないよう見張っているのである。


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