第32話 怪鳥、奮闘記1

 今年、江戸の町は暑さが長引いている。

 例年なら朝晩は幾らか冷え込みはじめる頃合いになっても日差しは強く、道行く人は「いつまでもお暑うございますな」と、うんざりした顔を突き合わせている。季節の売り物である氷水や金魚はいつまでも売れ、夕涼みに団扇片手に大川端をそぞろ歩く人の姿も少しも減らない。


「暑い……暑いぞ……」

 江戸の町に暑気が籠りっぱなしの中、誰よりも首を長くして秋の到来を待っている人物がいた。

 本所・深川界隈を縄張りとしているやくざ『衣笠組』の親分、太一郎である。

 なにせ、でっぷりと肥えた体は、力士と並んでも遜色ないほどに大きい。ただ座っているだけなのにひっきりなしに汗が玉の如く流れ、見るからに暑い。

 子分たちが入れ替わり立ち代わり親分を大団扇で仰ぎ、盥に張った水に足をつけてやり、金魚を置き朝顔を置き風鈴を大量に吊るし――至れり尽くせりであるが、親分の汗はちっともひかない。

「それみたことか。肥え過ぎると暑さが堪えるゆえ、少し痩せてはどうかと提案いたしたのに……」

 みっともなく縁側で寝そべる親分の横では、稽古着姿の若い武家があきれ顔をして座っている。道場の帰りであるのか、脇には使い込まれた竹刀と木刀がある。

「英次郎、そなたの助言に従ってな、毎朝素振りを行い、この暑い最中も十日に一度は道場に通っておるぞ」

「で、親分の目方は減ったか」

「……いや」

 際限なく肥えていきそうな太一郎を案じる周囲の人々の強いすすめもあって、太一郎は二、三月ほど前から英次郎の通う道場の、正式な門弟となっていた。

 そこは、流派こそ一刀流の傍流であるが、師範の人柄がよいため道場自体はとても大きく、江戸でも指折りといえる。そしてそこには、良家の子息も大勢通っている。

 やくざものと彼らが一緒に剣をふるうのはいかがなものかと、親分は遠慮して道場の外での稽古を希望したのだが、門弟たちの中に文句を言うものはおらず、親分は門弟たちに交じって竹刀を振っている。


 となれば当然、打ち合い稽古もあるわけで――。


「聞いたぞ親分、先日も年端も行かぬ子どもらに、ぽんぽんとうちこまれたらしいな」

「うむ……俊敏な動きについていけぬが、何よりあの澄んだ目をひたりと向けられると、尻がむず痒くなってな……」

 ぽりぽり、と、太一郎が頬を掻いた。

「悪党の向ける刃はいくらでもかわせるし、容赦なく怪力で斬り捨てるのに、幼気な子どもはだめか」

「そこよ、英次郎。あの可愛らしい声で、親分、などと呼ばれてみよ。わしをいくらでも打て打って糧とせよ、といいたくなるわ」

 きっと子どもたちを愛おしそうに見ているのであろう太一郎の姿が容易に想像できて、英次郎は小さく笑った。

 どこか憎めないのだ、この親分は。

「そうして動きが鈍った親分は、対戦相手の武家の嫡男にびしりと胴を抜かれたか」

「そうなのだ。幼子と雖も腰が入っておったようでな。びいいん、と衝撃が腕から背筋から脳天へ走ってな、気が付いたら道場の床に伸びておったわ」

 ちなみにそのときの対戦相手は太一郎よりもわずか数日前に正式に入門した兄弟子――飯倉若狭守の嫡男で名を千代丸という。

 御年五つ。

 まさか五つの幼子の打ち込みで大の男、しかも縦にも横にも立派な巨体がふっとんで白目をむくとは思わなかった門弟たちが大慌てで介抱した。ほどなくして気を取り戻した太一郎は、起き上がるなり心配そうな子に向かって、

「見事な腕前じゃ! 師の教えを守りその腕をとくと磨いて、飯倉家を守られよ。さすが、武芸に秀でた飯倉さまのお子じゃ。あっぱれ、あっぱれ!」

 と、述べたらしい。

 その一言のおかげで千代丸は瞬く間にやる気を取り戻し、それまで以上に熱心に剣術に打ち込んでいるらしい。さすが親分であると、道場ではその話題でもちきりであった。


「英次郎」

 なにかな、と、気のいい御家人の次男坊は楽しそうに言う。

「わしは剣術に向かぬのではないかのう……」

「なんの。師範代が、親分はなかなかに筋がよろしい、と言っていたぞ」

「うーむ……英次郎、そなたはわしの剣をどう見る」

「度胸は言うまでもなく、相手の太刀筋を見る目がいいな」

 太一郎は、当人まったく自覚していないが相手の動きをよく読んでいる。近頃では、読まれるとわかっているため、道場で立ち会う相手がなかなか踏み込むことが出来ずにいることすら、ある。

「ならば、なにゆえ勝てぬのか……」

 太一郎は、はああ、と、大げさなほどのため息を吐いて見せた。

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