第30話 道場破り5
数日後の夕暮れ時、親分が佐々木家へとやってきた。壊れかけている枝折戸が危なっかしく揺れる。
「まさか壊れたか……?」
太一郎は思わず息を詰めるが、それは哀れな声を残して大人しく元の場所へ戻ってくれた。
「やれやれ……」
いつものように裏庭へ回って声を掛けると、すぐに英次郎とお絹が姿を見せた。
「親分、さぁさぁ、こちらへ」
夕餉の支度をしていたのであろう。前掛けをしたままのお絹が、親分を屋敷の中へ案内した。すぐに帰るからと遠慮する親分に向かって、
「親分! もし夕餉がまだだったら、一緒にどうだ? 今宵はそれがしと母上、ふたりだけなのだ」
と、にこにこと英次郎が笑いかける。ぐぅ、と、太一郎の腹が鳴った。
「親分、今日は鮎がたくさん手に入ったのですよ」
お絹が手早く太一郎のぶんの膳を用意する。口では遠慮の言葉を述べている太一郎だが、目はもう夕餉に釘付けである。
「なんと美味そうな……! しかしこちらのご亭主やご隠居よりも先に頂いては申し訳がない」
「親分、気遣いは無用。我々が最後なのだ」
英次郎が寂しそうに言う。
つまりは、腹ごなしをしてどこぞへ――おおかた、夜開く賭場へ出かけたのだろう。お絹や英次郎が必死にやりくりしたお金が、こうやって無造作に出ていってしまうのだ。太一郎はそれがなんとも切ない。
「さぁさぁ、親分、英次郎、頂きましょう」
お絹がつとめて明るく言う。行儀よく母子が手をあわせ、親分もそれに倣う。
膳の前に座るや否や、くん、と親分の丸い鼻が動き、目が童子のように輝く。
「なんとも美味そうな」
鮎の塩焼きが置いてある。
冷ややっこに大根おろしをのせたもの、胡麻をさっとふったきんぴらごぼう、庭でとれた菜を塩漬けにした自家製漬物、白米に味噌汁。
「美味い! すばらしい味付けじゃ」
一口食べるごとに親分が絶賛するため、お絹も嬉しそうである。
親分の腹が膨れたころ、お絹が冷酒を運んできた。肴にはなんと、南蛮菓子のぼうろが添えてある。ころん、と可愛らしい。
それらを楽しげに摘まみながら、親分が上機嫌に告げた。
「英次郎、件の道場は間違いなく天然理心流の道場じゃそうな。師範が近藤何某。とにかく今どき珍しいほど剣術熱心な一派で、生粋の門弟よりも客分の方が多いそうじゃ」
「近藤というと、親分と話していたお人かな」
うむ、と、太一郎が頷く。
「次に、英次郎が手合わせした色白の青年は北辰一刀流、なんでもどこぞの大名の御落胤らしい。それの真偽は不明! そしてあの道場の台所事情は御多分に漏れず火の車、師匠と塾頭が多摩への出稽古でなんとか凌いでいるようじゃな。そして塾頭というのが、若いが滅法強いそうな」
太一郎が一気にしゃべった。お絹が労わる様に酌をすると、太一郎が心底嬉しそうな顔になった。
「多摩ですか。お上の直轄地でしたね、天領ゆえ村人たちの徳川家への忠誠はそこいらの侍よりはるかに強いと聞いていますよ」
「母上、詳しいのですね」
お絹が小さく笑う。
「さらに、門弟衆の中に薬売りがいることも判明した。『石田散薬』なる薬でな、酒と一緒に飲むと効くそうじゃ」
「聞いたことのない薬ですね、母上」
「そうですねぇ。酒で飲む薬とは珍しい気もしますね」
「それを売っている男が、どうも……いや、氏素性は知れているのだが、素行が……」
「手癖が悪いのか? それとも凶状持ちや島帰りか」
「いや、女で幾度かしくじっておる。ちょっとした色男であるらしい。女が放ってはおくまいな」
「その色男が、道場破りをしたのか」
「……ということになっておるな」
親分の不思議な言い回しに、お絹と英次郎は顔を見合わせる。親分はぼうろの味を堪能しているようで――何か思案している。
「親分?」
「英次郎、再度あの道場を訪ねてな、その色男と手合わせしてみればわかる」
ぽん、とお絹が手を打った。
「親分は、その色男が道場破りではない、何者かが色男を騙って道場破りを行った、と考えているのですね?」
「さすがお絹さま!」
お絹がころころと、楽しそうに笑った。
「色男はーーいろいろ恨みも買っているようであったな」
その翌日、英次郎と太一郎は再び試衛館を訪ねていた。
「親分、ちと、ここで待っていてくれ」
と、英次郎はそう言い残してすたすたと道場の門をくぐり、門弟に声を掛けて稽古に参加する了承をとってしまった。
鋭い気合が飛び交い、英次郎が次々と相手を変えて激しく打ち合う。
「ああ、英次郎がふっとんだ……! おお、さすが屈強な男……にしても大きな口じゃ!」
その男が、師範の近藤であるらしい。稽古にやってきた通いの門人に稽古をつけはじめた。
「お、優男……あれか。荒っぽいが、腕前はそこそこじゃな……鍛錬が足らぬ。英次郎の相手ではない。む? あちらの青年はいい太刀筋じゃ」
英次郎と同い年くらいだろうか。にこにことやたら愛想がいいが、ひとたび木太刀を構えるとがらりと雰囲気が変わる。体で切れ、と物騒なことを叫んでいるが、その意味が理解できている門人は見当たらない。
「ほう、あれは……天才というやつじゃな。将来が楽しみじゃ」
「親分は見る目が素晴らしいな」
師範が声を掛けてきた。四角い顔だがぽつんと笑窪がある。純朴な男だ、と、太一郎は思った。
「ときに……誰をお探しかな?」
「む?」
「いや、名の知れた衣笠組の親分が道場に乗り込んできたとなれば……道場破りか人探しかくらいしか思いつかぬ」
言いながら、あっはっは、と豪快に笑う。
「相済まぬ。確かに人探しであるが……連れの者、英次郎が見つけるであろう」
「なるほど」
どっかりと、ふたりは道場の端に座った。
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