第21話 曰く付き長屋につき8
朝方に曲者の襲撃などなかったかのように、長屋の人々は驚くほどあっさりと普段の暮らしに戻っていく。
「ここの人々は皆、仔細あってここに住まいしておるでな。騒動には慣れておるゆえ、案ずることはない」
わざわざ顔を出した太一郎親分が金平糖を浮羽の手にどっさりと出しながら言った。
浮羽は初めて目にする色鮮やかな菓子にすっかり釘付けだ。親分に促されて一粒口に入れ、甘い、と嬉しそうな顔になった。
「日常に戻るのは、早ければ早いほど良いでな」
「はい、確かに」
長屋の人々が忙しなく動き回る。それを、青葉と浮羽は長屋の戸を少し開けたまま、ぼんやりと眺めた。疾うに朝日は昇って江戸の町はめざめている。自分たちも動かねばならない。それはわかってはいるが、動き出せずにいたのだ。
なにせこれまでは、夜明けと共に野山を走り回って鍛錬を開始し、薬草や暗器の手入れや前日の首尾報告などを終えてからようやく朝餉であった里の暮らしとはかなり異なる。
「浮羽の朝餉を用意せねばな……」
青葉がつぶやくものの、江戸では――というか、普通はどのような朝餉を用意するものか。知識では知っているが実物を見たことがない。
ふいに、
「お侍さん。起きてるかい」
と、外から声がかけられた。
「は、はい」
「おらぁ、隣に住んでる浅蜊売りの清次ってんだ」
「きよじ、さん」
「おうよ」
青葉が慌てて清次を招き入れる。日に焼けた、人懐こい笑顔の細身の男だ。青葉とさほど年は変わらないと思われたが、愛嬌がありこざっぱりとした身なりである。
「余計なお世話だとは思ったんだけどよ、ここいらじゃ、飯は朝に1日分を炊いて夜までそれを食べるんだが、米や味噌の買い置きはあるかい?」
浮羽が、ぷるぷると首を横にふった。
「あっはっは、浮羽ちゃんも青葉さんも、いい食べっぷりだね」
清次の妻、お涼が追加の味噌汁を二人によそいながら笑う。清次もニコニコ笑いながら、浮羽の食べこぼしを綺麗にしてやる。
「お涼どの、実に美味にて……ああ、たまらぬ」
「……おいしい」
二人はせっせと箸を動かす。
「お涼、なんてことはねぇ普通の朝飯だよなぁ……」
「そうだよぅ……。さっき買ってきた豆腐と納豆を入れた味噌汁と、炊きたてのご飯と、貰い物の菜葉を刻んでそれにお醤油垂らしただけのものだよ」
それを、この父娘は美味しい美味しいとご馳走のように食べる。
浮羽にいたっては、味噌汁をはじめて飲んだらしい。目を白黒させていたが、すぐに馴染んだ。どんな暮らしをしていたのか、と、聞かれた時のための無難な答えは用意してあったが、清次もお涼もそれを聞くことはなかった。
むろん、夜中の父娘を狙った襲撃者といい、世間知らずな様子といいいったいこの親子がどこでどんな暮らしだったのか清次たちも気にかかる。だが、この長屋に転がり込んでくるのだから『訳あり』に違いない。だから尋ねない。
「そういやお涼、大家さんの隣の説教部屋な、あそこに人が住むそうだよ」
説教部屋? と、青葉が手を止めた。
「ああ、大家の家に一番近いあの部屋はね、長らく空き家でさ。店賃滞納したり長屋に迷惑をかけたりしたら、大家さんがあそこに引っ張って行って店子を延々とお説教するのさ」
「なんと!」
「弁が立つ、って言うのかねぇ。怒鳴るわけじゃないんだけどさ、何がどう悪くて、どう振舞うべきか滾々と諭されるようだよ」
あの強面の大家がねぇ、と青葉は清兵衛の顔を思い浮かべる。
「で、あんた、今度は誰が清兵衛さん怒らせたんだい?」
「それがどうも違うらしいぞ。ゆうべ曲者を追い払ったあの若いお侍が住むらしい」
「そうそう、さっき豆腐売りに聞いたんだけどね、あんた。あのお侍、衣笠組の親分のお友だちらしいね」
「友だちぃ? じゃあやくざか」
「いやそれがね、貧乏御家人の次男らしいよ。まあ大方、親か本人が親分に金を借りて返せなくなってんだろうね……」
「あり得るな」
夫婦の会話が不意に途切れた。表が俄かに騒がしくなったのだ。
「……あんた、藩からの追っ手かな」
お涼が、亭主の腕にしがみつく。その手を、清次が優しくたたく。
「いや、それなら大家さんが知らせてくれるはずだぜ、お涼」
「でもあんた、あたしらこのところ、お勤めの手伝いをしてないよ」
「大丈夫さ、大家さんはそんなことで店子を見捨てることはない」
夫婦の怯えた様子を見た浮羽が、不意に立ち上がった。目を閉じて耳を澄ませる。
「人が駆けてくる……一人、と、追いかける大勢の人たち」
「浮羽ちゃん、そんな音が聞こえるのかい?」
こくん。
「ごよう? かとうあらため、いわくつきへおいこめ、ってさけんでる」
清次とお涼が明らかにほっとした。
「浮羽ちゃん、すぐにここで捕物がはじまるよ」
それはどういう……と、青葉がついに聞く。なぜ長屋で捕物をするのか大いなる謎である。青葉でなくとも聞くであろう。
「南のお奉行は、江戸の町を逃げ回る悪党を大家さんと一緒にこの長屋へ追い込んで捕らえるのさ」
お涼が楽しそうに言うそばで、清次が戸を開ける。
どたばたと町人が必死の形相でかけてくるのが見えた。まだ若い男だ。目元の涼しげな色男だが、髷が乱れ、着物も胸元どころか帯が緩み、足元は裸足である。何をしたのか、べったりと血糊が顔や胸元についている。が、長屋のどん詰まりで愕然とした顔になる。
「ち、ちくしょ……」
「堪忍しねぇ。ここは通常の長屋とは異なり、反対の通りには抜けられない袋小路なんだよ」
と、いつのまにか姿を見せた大家の清兵衛が言う。なるほど、と、青葉は頷いた。これなら、悪党を捕らえるのも容易である。
「う、う、うるせぇ!」
かっ! と血走った目をこれ以上ないほどに見開いた男は、懐から脇差を取り出し清兵衛に飛びかかると、そのままの勢いで大家の家の隣、つまり説教部屋へ一飛びに飛び込んだ。
「あ!」
ぴしゃりと戸が閉まり、がたがたと封鎖する音がする。
「やいっ! 住民ども、よく聞け! おれは盗りはしたが殺してなんかいないんだ。おれを奉行に突き出してみろ、このじじいの命はない」
喚く男の声を聞いて住民は唖然とした。
「大変だぁっ! 大家さんが人質になってしまったよ!」
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