第6話 異国の風6

 ふうっ、とため息をついたのは、誰だったか。小さな音だったが室内によく響き、それをきっかけに緊張がゆるんだ。

 蒼ざめながらもフリシウスがすっくと立ちあがり、敵味方問わず治療を始める。幸いなことに大怪我の者はいないらしかった。

 それを横目で見ながら、太一郎がえっちらおっちらといった様相でクルチウスに近寄る。

 二人は、

「商館長!」

「タイチロウ! ヨクキテクレマシタ!」

 と、がっちりと握手をした。

「いやいや、無事でなにより!」

 そして英次郎は、きょろきょろと室内を見渡した。刺客や間諜などが潜んでいないとも限らないし、次の襲撃がないとも限らない。

 気を緩めるわけにはいかない。だが、英次郎の気はどうしても散ってしまう。見るものすべてが、珍しいのだ。無作法だとは思うが、あれこれ見たくて仕方がない。

「あれは短筒の一種であろうか。これは……どのように使うものか、皆目見当がつかぬな……色使いも見たためしもないぞ」

 横に、ライターがやってきた。英次郎の隣に立つ彼は、頭一つ分も大きいだろうか。英次郎とて決して小柄ではなく、むしろ背は高い方なのだが。

 ライターは手に、無色透明の器と、色のついた瓶を持っている。その器を英次郎に持たせ、瓶から液体を注いだ。

 赤い、芳醇な香りの液体だ。

「これは……?」

 くん、と英次郎が鼻を動かした。酒の匂いがする。

「ワイン……葡萄酒デス。これはワイングラス……ワインを飲むためのグラスです」

「ほう!」

 先にライターが酒を飲んで見せた。

 お城では殿様や奥方様に供するものはすべてお毒見が済んでからだと聞く。

 異国には殿様以外でも毒見する習慣があるのだろうか、と、英次郎はぼんやりと思った。が、手にした酒を飲んでみたいという気がむくむくと沸き起こる。

 好奇心に勝てずゆっくりと口に含んだ途端、英次郎の瞳が輝いた。先ほどまで見せていた剣士としての気迫は消え失せている。

「美味い……!」

「そうでしょう?」

「異国にはかように美味な酒があるのか……!」

「ハイ」

 母に教えればきっと喜ぶだろうと、英次郎は嬉しくなる。

 グラスに注がれたワインを飲み緊張がほぐれた英次郎は、再び室内を見る。もはや好奇心剥き出しである。部屋の隅に積まれた品物や書物を見つけ、とことこと近寄り、あれこれ手に取ってはほほう、だの、おお、と驚きの声を漏らす。

 そのうち、ライターの顔を見た。

「あれを見てもよろしいか?」

 ワインの瓶をテーブルに置いたライターは、自ら品物をとってきて英次郎に持たせた。

「おお、やはり輪っか……鍔でもなし、鉄の輪……? にしては……」

 ライターは、それを取り上げて自分の指に嵌めて見せた。

「なんと! 指にはめて、どうするのだ? 武具にしては小さいし防具であろうか」

「英次郎、それは硝子でできた指輪じゃ」

 太一郎が傍に来て説明を加えてくれた。

「がらす? がらすとは、江戸切子、薩摩切子のあれであったな」

「うむ。異国では、夫婦になる約束として指輪を贈る風習があるそうな」

「ほほう、夫婦の証として指を飾る装飾具か。それがし、てっきり武具か何かかと思い申した」

 無風流で面目ないと、英次郎が頬を掻けば、その場にいた人々が思わず笑いだす。

 ライターはにこやかに笑うと、それを英次郎に手渡した。

「なに、それがしに嵌めてみよと申されるのか?」

「エイジロウさんの、オクサンにあげます」

 ううむ、と、英次郎が困った顔をした。

「それがし、未だ独り身でな……正直、嫁のあてもない」

「ヒトリ? オクサン、いないの?」

「おらぬ。貧乏御家人の次男坊ゆえ、嫁など望めぬよ」

 さすがにきょとんとしたライターが、太一郎を見る。

 太一郎は、英次郎が裕福でない武家の次男であること、母とともに家計を支えている好青年であること、剣術の達人であることなどを、わかりやすく説明していく。

 その説明を聞いて少し考えるそぶりをみせたライターは一度クルチウスの元へ行き何事か相談した後、部屋の隅に置いてあった紙を手に取り戻ってきて、不思議な筆記具を英次郎に持たせた。

「はい、コレ。羽根ペンとイイマス」

「かわった筆であるな……」

 一見するとただの鳥の羽根である。

 にっ、と人なつっこい笑みを浮かべたライターは、英次郎の目の前に帳面を広げた。

「ハイ。名前、年齢、住んでるトコロ、書いて。良い子がいたら、見せる」

「おう、なるほど。釣書きじゃ、英次郎! しっかり書くのじゃ!」

「釣り書!? お、おれが斯様なものを書くのか」

 太一郎にあれこれ指図されながら、なんとか羽ペンで氏名や年齢、住んでいるところや家族構成を書く。

「お、親分、こんな羽で、釣書きを書くとは思いもよらなかったぞ」

「何事も経験じゃ、英次郎」

「し、しかり……」

 羽ペンをしげしげと眺めながら、英次郎が本日何度目とも知れぬため息をついた。

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