第3話 異国の風3

 真面目くさった顔をした太一郎は、懐からくしゃくしゃに丸められた紙を取り出した。それを膝の上で伸ばして英次郎に手渡す。

「これじゃ」

 が、英次郎はくるくると紙を回転させた。

「む。これは……」

 これが文であるらしいことは雰囲気でわかる。だが、ことばが無秩序に並んでいるようにしか見えないのだ。

「何をしておるのだ、英次郎」

「いや、上下がわからぬでな。どうも、一文をなしておらぬような……語の意味が分からぬ」

「……ここじゃ、一文字目は」

「ふむ?」

「普通に読めば問題ない」

 英次郎が紙に目線を落とす。太一郎の太い指が文字をおさえている。

「ここは、カピタンじゃ、英次郎」

「……か、ひ、たん……? そのような語は知らぬ。なんだそれは」

 知らぬのか、と太一郎が目をまん丸にした。

「知らぬ」

「異国の言葉じゃ、英次郎」

 ほう、と、英次郎がつぶやく。

「長崎に出島というのがある。そこに暮らす阿蘭陀おらんだ人は、定期的に江戸に出てきて公方様と謁見しておる。このことは存じておるな?」

「それくらいは……」

「うむ、その阿蘭陀商館の長を、カピタンと呼ぶ」

 ほー、と、息とも声ともつかぬものを吐き出したまま、英次郎は動きを止めてしまっている。

「当代のカピタンは、ヤン・ドンケル・クルチウスと申す」

「やん……どん……?」

 太一郎は、くるちうす商館長、と地面に指で書いて見せた。

 英次郎は、はじめて触れる阿蘭陀人の名を不思議そうに見つめ、繰り返しつぶやいている。若干「る」「ち」が巻き舌なのは致し方ないであろう。

「このクルチウス商館長、現在密かに江戸に出て来ておってな。近々、幕府のお偉方と密談するそうな」

「ほほう」

「なんでも、長らく付き合いのある阿蘭陀国としては、突如押しかけて来た亜米利加あめりか国なぞと親しくされては困るらしい。その交渉がすむまでの間、そなたにも警護に加わってほしい」

 英次郎が、目を瞬かせた。

 御家人の次男坊にすぎない英次郎も、浦賀沖に黒船が来て大騒ぎになったことは知っている。

 だがそれは、我が身とは何の関係もない遠いところでの出来事だと思っていた。

「その……くるちうす商館長は、単身江戸に参ったのか?」

「いや、毎度、小規模な大名行列のようなものを仕立ててやってくるでな。先頭は朱槍のかわりに阿蘭陀国の旗が翻るのだ」

「阿蘭陀人が御駕籠にのるのか」

「うむ。彼らは我々より図体がでかいゆえ、難儀であろうな」

 言いながら太一郎が顔を顰めた。駕籠の窮屈さは縦にも横にも大きい太一郎自身、身をもって知っている。

「そのクルチウス、ただいまはフレデリック・フリシウスとヨーゼフ・ライターという部下と共に、定宿である長崎屋に滞在しておる」

 英次郎が、虚空を睨みつけながら腕を組んだ。必死に行列や彼らの行動を想像してみようとしているらしい。

「フリシウスは語学に長けた男で、通詞でもあり書記でもある。ライターは医師、狼藉者を追い払う程度の剣はつかえるとのことだが、こちらは余程でない限り剣を抜かぬ」

 太一郎の口から、ぽんぽん飛び出してくる言葉の数々に英次郎の理解が追いつかない。

「しかし、何故親分が異人の警護をせねばならんのだ。くるちうすとやらを江戸に呼んだ役人どもが手配すればよいではないか」

「然り。されどお忍びでの江戸入りであるから幕府側の警護がほとんどないのだ。しかし奇怪なことに、阿蘭陀人が長崎屋にいることが反対派の連中に筒抜けになっておる。この『長崎屋襲撃予告』の黒幕が、阿蘭陀人と幕府を交渉させたくない何者かの仕業であるのか、それとも、開国も鎖国もろくに判っておらぬ者どもの浅はかな行動なのか、単なる異人嫌いの仕業か、判然とせぬ」

 本日何度目かわからないが、英次郎の目が丸くなった。

「そ、その……何故そのようなやたら難しいことを、親分が承知しておるのだ」

「おお、それを説明しておらなんだな。我が衣笠組はこの百年以上にわたって、長崎屋にカピタン一行が滞在する際の『陰警護』をしておるのだ。ゆえに長崎屋とは付き合いが長い。それにわしは異国の事に興味があるでな、多少のことは承知しておる」

「陰警護か。そんなに物騒なのか……」

「うむ。カピタン一行が来ると、まず商人が長崎屋に押し寄せる。次いで阿蘭陀人見たさの人々が押し寄せ、カピタンに会おうとする蘭学者や蘭方医やら大名の使いやらもひっきりなしにやってきて大変な騒ぎになる。それに乗じて悪人どもも出張ってくる。無論、奉行やら役人やらも駆けつけるが、それだけでは手が足らぬし知恵も足らぬ」

「知恵も足りぬか」

「うむ。あちらの進歩は目覚ましいものがあるでな」

 しばらく太一郎を凝視していた英次郎は、肺腑が空になるほどに息を吐いた。

「いやはやなんと申せばよいのか……」

 太一郎率いる衣笠組が、やくざで金貸しもしているということは、把握している。英次郎の家も、衣笠組に曾祖父の代からの大借金がある。そのために英次郎は得意の剣術でやくざの仕事の手伝いをする羽目になっているのだが、しかし、太一郎たちがただの悪党ではないことも承知している。

 だがまさか、阿蘭陀人の警護をしているとは思いもよらなかった。

「……親分」

「なんだ」

「どうして御家人の次男坊がそこへ駆り出されねばならぬのだ」

 もっともな疑問である。


 太一郎は、さきほどの「金釘流」をもう一度、英次郎に見せた。新しい単語を知り、事情を理解したからだろうか、今度は文を読むことができた。

「長崎屋に火をかけ皆殺しにする……? 物騒な……」

「江戸でカピタンが浪士に殺害でもされてみよ、一大事である」

「長崎屋の主の首と、警備責任者の首がとぶか?」

 甘いな英次郎、と太一郎が低く笑った。

「そのようなことになればおそらく阿蘭陀国は、幕府に莫大な賠償金を要求するであろう。その上、阿蘭陀人が江戸に滞在している間は警備を補強せよと、言ってくるであろう。当然我が国はそれを受け入れねばならぬ。そして、誰か――大名か、旗本か、浪人か、この際誰でもよいわ、警備につけたとしよう。その様子をみた亜米利加国がどう思うかな。阿蘭陀国だけ特別扱いが許せぬとか、我が亜米利加国にも同様にせよとか、言うかもしれぬ」

「面倒なのだな」

「人手と金が足りぬ。責任をとる者も足らぬ」

 英次郎は思わず顔を顰めた。

 もし阿蘭陀人を守れなかったら大変なことになる。佐々木家お取り潰しどころの騒ぎではない。

「親分、そのような恐ろしき現場に、この佐々木英次郎を連れて行くのか」

 はあ、と、英次郎が思わずため息をついた。

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