第2話 異国の風2

 お絹がすぐさま立ち上がり、台所へと向かった。その、凛と背筋の伸びた後ろ姿が、太一郎は好きだった。たとえ貧乏と頭についてはいても、確かに武家の女房の矜持を感じさせるからだ。


 そも、お絹は少女のころから料理が好きであったらしい。

 どこで手に入れたのか「かすていら」の作り方が載った「製菓書」を持っていて、家に尋ねてくる客や近隣で催される茶会でふるまい、非常に好評だった。

 佐々木家に嫁いだ後もさらに改良を加えながら「かすていら」を作り続け、それはいつの間にか「お絹かすていら」と呼ばれるようになり、今では本所界隈の名物となっている。


 ちなみに、この屋敷に鶏がやたらと多いのは、 「かすていら」に卵をたっぷりと使うためである。


 ありがたい、と太一郎が顔を輝かせたところに、冷ややかな声がかけられた。

「親分、それ以上肥えてどうするのだ」

「む?」

「この、たぷんたぷんに弛んだ腹! これでは体が重たくていざというときに動けまい」

 ふっふっふ、と太一郎が低く笑った。

「案ずるな、英次郎。いざというときには手下どもだけが動くのよ」

「なんだって?」

「わしは、安全なところからもっともらしいことを喚くだけでな。あとは血気盛んな若い衆が勝手に動く。やくざの親分が積極的に動くなどみっともないと考える者も、まだまだ多いゆえ、致し方あるまい」

 ふっふっふ、と再び笑った太一郎の横に佐々木家の次男坊・英次郎がすっと腰を下ろした。

 やわらかな顔立ちは近所でも美男子と評判だが、今日はその顎にはうっすらと無精髭がはえ、目の下もこころなしか黒ずんでいる。

「なんじゃ英次郎、疲労が色濃くまとわりついておるぞ。折角の美男子が台無しではないか。何かあったか」

 あった、と、英次郎が頷く。

「それが、南町の旦那の手伝いに駆り出されて、満足に寝ておらんのだ」

「どこぞの大店の寮が賭場になっていたという件か」

「それそれ。決着が着くまでに十日も要した。が……骨折り損のくたびれもうけであった」

「なに? あれの手入れに十日もかかったのか」

 太一郎が驚く傍ら、うむ、と、英次郎がため息をついた。

「賭場が開かれておる建物を確認するのに二日。確かに賭場であると確かめるのに二日。出張って行ったらあちらに気付かれて逆襲されておめおめと引き下がる……これを三度ほど繰り返した」

「なんと!」

「胴元らしき男はおれたち助っ人衆が取り押さえたが、これは金で雇われた替え玉であろう。その上、客は想定以上に少なく、肝心の金もほとんどなくてな……押っ取り刀が過ぎたというか、すっかり手の内を読まれていたというか……相手の方が上手うわてであった」

「……近年稀に見る愚鈍というかなんというか……。いやはや、ご苦労であったな。しかしうちでざっと勘定しただけでも数千両はあると思うたが……」

 うむ、とみたび頷きかけた英次郎だが、ちらりと横目で太一郎を見た。

「やはり親分の仕業か」

「なんじゃ?」

 太一郎は呑気に茶をすすりながら何も知らぬ顔をしている。その様子で、英次郎は自分の勘が的中したことを悟った。

「あの寮が怪しからぬ者どものたまり場になって賭場になっていると、南町の耳に入れたのは親分だな。あの腰抜けで、私腹を肥やすことのみに長けた連中が、賭場の情報を自力で掴むとは思えぬ。おかしいと思ったのだ」

「これ、英次郎、ちと声が大きいぞ」

「構うものか。あの馬鹿面連中にどうこうされるほどおれは落ちぶれちゃいねえ」

 と英次郎が江戸っ子らしく吐き捨てる。日頃は大人しい英次郎がこのような物言いをするのは珍しい。

「……それほどに南町の連中は使えぬか」

「あれでは盗人の一人も辻斬りの一人も捕まえられぬ」

 はぁ、と、太一郎は気の抜けた声をだした。

「親分、親分はどうしてあの賭場を南町に教えたのだ。親分が自ら乗り込んだ方が、早かっただろう」

「あそこは厄介な寮でな。先代の御隠居が健在であったころは風流風雅な寮であったが、先代が亡くなったのちいつの間にか荒くれ者のたまり場になっている。道行く者が男であれば喧嘩をふっかけ、娘であれば引っ張り込んで悪さをする。しかし持ち主は見て見ぬふり。どうにかしてくれと、近所の衆が我が組に泣きついてきた。我らが乗り込めばあっさり片もついたろうが、店の者にお上の目が光っているぞと知らしめた方が良いと思ったのだ。それに……近頃の南町はちと緊張感が足らぬ。大きな仕事をして手柄を上げ、大金が転がり込めば気も引き締まるかと思うたが……」

 ないない、と、英次郎が苦笑した。

「仏心を出さずに親分が行けばよかったのだ。そうすれば数千両も怪しげな男たちも逃さずにすんだ」

 憤慨する英次郎に、太一郎が茶を差し出した。それを一気に飲み干した英次郎は、すでにすっきりした顔をしている。気の置けない相手に胸の内を洗いざらい話したことで溜飲が下がったらしい。なんとも気のいい次男坊である。

「ところで親分、おれにどんな用件だ?」

「英次郎、そなたの剣の腕前をかりたい」

「なんだ、いつもと同じではないか。わざわざ親分が早朝から出てくるゆえ、難儀な事件が出来しゅったいしたのかと思ったぞ」

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