この物語に名前は無い。

時瀬青松

君と僕

 心地よい車体の揺れ、車窓一面に広がる斜陽の光と、遠のき始める意識と電車の走行音。僕は遠くに行く。今すぐにでも、君のいないところへ。


 ***


 僕は望まれて生まれたんじゃなかった。僕の母さんは僕の父さんに奥さんがいることを知りながら、彼を愛して、僕ができてしまった。もしかしたらきっと、僕はここから間違えていたのかもしれない。きっとそうに違いない。ただの邪魔物だった僕を当然愛してなんていなかった母さんは、それでも僕を高校まで通わせてくれた。僕は母さんが好きだ。正しくは、僕は母さんを好きなのではないかと思う。僕には好きってことが一体本当はどういうことなのかよく分かっていない。母さんは僕のことが好きじゃないけど、僕は母さんが好きだった。


 殴られることも蹴られることもあった。僕は望まれて無いのに勝手に出来てしまって、そのせいだから仕方ないし申し訳なかった。だからそれで良かった。


 僕はいじめにあっていた。物はよく失くなったし悪口も言われたし、暴力も振るわれたけれど、僕は多分どうでも良かったんだと思う。


 興味がない。


 その一言で尽きてしまう、そんな出来事だった。むしろ、そのおかげで君に出会えたならそれで良かった。放課後の教室で、いつも通りの吐き出すような暴力に飽きていたその日、君は


「やめろよ」


 って言った。僕を取り囲む驚いた顔のいじめっ子の真ん中を突っ切るみたいに歩いて近づいて来て、座り込んでいた僕の腕を掴んで立たせて、保健室に連れて行ってくれた。


「なんでイヤって言わなかったんだよ」


 僕はその質問に答えられなかった。


「ごめん、ありがとう」


「別に。ってか質問の答えになってねー」


 大丈夫かよ。僕の怪我の手当てをしてくれながら、君は僕の目を見てぶっきらぼうにそう言った。


 その途端、何かが解けたみたいに涙が急に出て止まらなくなった。君はびっくりした顔をした。僕が人から優しい言葉を貰ったのはきっと、このときが初めてだった。


「はぁ!?なんで泣いてんだよ……ったく」


 君は僕にチェック柄のおしゃれなハンカチを差し出して、泣き止むまで背中をさすってくれた。優しい茶色の虹彩が、背中に伝わる手の温度が、今でも、焼きつくみたいに記憶に残っている。


 落ち着いてから僕は、どうして助けてくれたのか聞いた。


「別に、理由なんかいる?んーじゃあ、友だちだから?」


「友だち?」


「おれとおまえが。今一緒にしゃべってんじゃん、友だちじゃねーの?」


「いいの?」


「いいの?って……変なやつ。じゃあ今からおれとおまえ友だちな。イチトって呼んでいい?」


 僕は黙って頷いた。今友だちになったなら助けてくれたそのときは友だちじゃなかったことになるけどそれはまあいいか。


 君は僕のはじめての友だちになった。


 それから君とたくさん遊んだ。ゲーセンに行ったりプールに行ったり君のうちで宿題したり。映画に行ったのも君とが初めてだったっけ。ポップコーンとコーラとチュロスも初めてだった。それを言ったら


「マジ?おまえ今までどうやって生きてきたんだよ」


 って笑われてしまったけど。

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