第2話 夜の魔女の学園

 最古の魔女の中で最も弟子の育成に熱心だったのは夜の魔女だった。夜の魔女は後に『常夜の谷』と呼ばれる深い谷を自らの住処とし、そこに学園を創った。

 夜の魔女は学ぶ意思をもつ者を全て受け入れ、彼らに最古の創造魔法を教えた。夜の魔女の弟子たちの一部は教師になり、他のものに魔法を教えた。また一部は研究者となり、新しい魔法をつくった。夜の魔女が谷間の上空にピンと張った夜の帳によって、常夜の谷に昼がくることはなかったが、勉強や研究に没頭するには夜の静けさはうってつけだった。

 そうして、弟子が弟子をつくり、その者たちが集まって、常夜の谷には学園都市がつくられた。


 常夜の谷に学園都市がつくられてから、いくつもの国が興こり、そして滅びて行ったが、常夜の谷にあまり変化はなかった。外界のことなど気にせず、弟子たちは魔法を学び、研究した。


 学園都市に聳える研究塔のなかでもひときわ高い塔がある。学園長であり、常夜の谷の主、夜の魔女が住む『夜の塔』である。その塔は夜の帳で出来ていた。外壁は夜の闇のように真っ黒で、夜空の星々のまたたきが、妖精のいたずらのようにきらめいて、たいそう美しかった。


 夜の塔の最上階には学園長室があり、そこに夜の魔女は住んで居た。ある日、その学園長室へいつものように九番目の娘が訪ねてきた。


 夜の魔女が書類仕事に勤しんでいると、コンコンとノックが聞こえた。

「入ってもよろしいですか。お姉さま」

 その声の主が、愛すべき末妹のものであると気が付いた夜の魔女は、手を止めて事務机に張り付いていた顔を上げた。

「どうぞ、ウラニア。お入りなさい」

 扉が開けられ、九番目の娘が入ってきた。時を経て、九番目の娘はウラニアと名乗るようになっていた。ウラニアは右手に琥珀色の液体が入ったガラス瓶、左手に二つのグラスを持っていた。

「おすそ分けに参りました」

 ウラニアははにかんで、客人用のソファに座った。

「また、第十三研究塔の学生がつくった新しい酒かしら」

「ええ、命の水オドヴィと言うそうです。素晴らしい芳香ですよ。彼らは中々やります。研究費を上げてみては」

 ウラニアは二つのグラスをテーブルに置き、オドヴィを注いだ。グラスの中で揺れる琥珀色の液体は美しかった。

 世界を一通り見てめぐったウラニアは、最終的に夜の魔女を頼り、学園の指導員として働いていた。研究塔を見て回り、きちんと魔法の研究が行われているか、適切な指導が行われているかを調べ、夜の魔女に報告することが彼女の仕事だった。

「ダメ。無用に研究費を上げてしまうとそれこそ酒好きの教授たちの酒代に消えてしまうもの。自分たちで美味しいお酒をつくってやろうって思うギリギリの予算じゃないとあそこは上手く行かないのよ」

 夜の魔女はウラニアの対面のソファに座った。

「つまみはあるの」

「もちろん」

 ウラニアはポケットから蝋紙の包みを取り出して、テーブルに広げた。蝋紙の上には色とりどりの飴が転がっていた。

「これは前に第十五研究塔で貰ったやつの残りです。ちょっと湿気ってますけど、美味しいですよ」

「毎度のことだけど、あなた随分といろんなものを貰うのね。私が研究塔を見に行っても、なにももらえないのに」

「お姉さまはなんというか、近寄りがたい雰囲気がありますからね」

 ウラニアは嫌われ役を演じながら、それでも学園内では人気があった。彼女の穏やかな物腰に見え隠れする冷たい程の知性は、研究者こそを虜にした。故に、ウラニアは無償で魔法研究の副産物を手に入れることができるのだった。

「不公平でしょう」

「だからこうしておすそ分けに来てるんでしょう」

 ウラニアはグラスを持った。それに続いて夜の魔女はグラスを持った。

「私の姉たちに乾杯」

「私の姉たちと妹たちに乾杯」

 二人はぐいとグラスを傾けた。

「おいしい」

 力強い香りとまろやかな口当たりに驚いた夜の魔女はつぶやくように言った。

「いけるでしょう。甘いものが合いますよ」

 ウラニアは飴を蝋紙の上から一つ取って口に運び、もう一口オドヴィを飲んだ。

 夜の魔女もウラニアも、尋常ならざるうわばみであり、学園中で有名だった。

 特に、ウラニアに懸想した新入生が彼女に飲み比べで挑み、前後不覚になって学園の中庭にある噴水に突っ込むのは春の風物詩である。


「それで、あなたはいつ自分の創りたいものを見つけるのかしら」

 夜の魔女は茶化すように言った。

「それがですね、まだ見つからないんですよ。お姉さま」

 ウラニアは恥ずかしそうに言った。

「もう十分世界は見て回ったでしょう」

 夜の魔女はくつくつと笑った。

「お姉さまもいけないんですよ。『私たちの中で一番賢いあなたですから、きっと一番いいものを創れるでしょう』なんていうから、私も一番いいものを創らないといけないと思って、気ばかりが……」

 二人が会話とオドヴィを楽しんでいると、急に鐘の音が響いた。耳障りな鐘の音は学園都市中に響き渡っていた。この鐘の音は敵襲を知らせるものだった。

「ああ、もうこんな時に」

 夜の魔女は怒りに顔を歪めた。

「私が対処しましょうか」

 ウラニアは言った。

「いいえ、私が出るわ。ちゃっちゃと片付けて、また飲み直す」

 夜の魔女が立ち上がり、学園長室の窓を開け放った。

「お気を付けて、お姉さま。少し酔っていらっしゃるようですし」

「ありがとう。でも心配しないで。だって私は『夜の魔女』なのよ」

 夜の魔女は夜の帳でつくった帽子とマントを素早く身につけ、窓から飛んだ。


 常夜の谷に入ろうとしていたのは、新興のパヘリオン王国の兵士たちだった。その数二万五千。内、魔術師もしくは魔女が五千という精鋭だった。

 彼らは常夜の谷を征服し、その神秘のベールに包まれた魔法を手に入れようとしていた。学園都市の卒業生たちから彼らはその魔法の凄さを聞き及んでいた。

 敵を老化させる魔法、千の巨石を降らせる魔法、錫を金に変える魔法、水を酒に変える魔法……それら奇跡のような魔法を手に入れたいと考えるのは当然のことだろう。だが。彼らは知らなかった。それらの魔法ですら、最古の魔女の振るう魔法には到底及ばないことを。


 最初に気が付いたのは『鷹の目の魔女』だった。彼女は視力を強化する魔法が得意だったので、斥候を任されていたのだ。常夜の谷に向かう白樺の森を先行していた彼女は、隣に居る相棒の『遠話の魔女』に言った。「夜が来る」と。

 遠話の魔女は鷹の目の魔女が言っていることがよくわからなかった。しかし、きっと夜の魔女が来るのを見たのだろうと思い、将軍に遠話の魔法で「夜の魔女が来ます」と伝えた。

 次いで、鷹の目の魔女は遠話の魔女のローブを掴み、引っ張って「早く逃げよう」と言った。遠話の魔女は百の戦場を共にした相棒がそんな風にうろたえるのを初めて見たが、敵前逃亡は重罪であることを思い出し、「なにをバカなことを言ってるの」と言って叱責した。

 常夜の谷の方を振り向いた鷹の目の魔女は「もうおわりだ」と叫んで、泣き出した。途方に暮れた遠話の魔女は、一応の警戒の為に常夜の谷の方を向いた。今度は彼女にも夜が来るのが見えた。


 それは闇だった。それは無謬の星だった。幾く億千万の星々が輝く夜だった。白樺の森が夜に変わっていった。地面が消え、空が消え、夜になった。その先頭には夜の魔女が居た。

 まるで絵筆のように、夜の魔女が通り過ぎた後の空間は夜に変わっていった。

 それを二万五千のパヘリオン王国の兵士たちは見た。

 逃げ出そうとした者は、間に合わなかった。彼らは矢より早く駆ける夜に飲まれた。戦おうとした者は、無意味だった。火の球を生み出す魔法も、矢も、槍も、剣も、夜には通用しなかった。

 もはや、二万五千のパヘリオン王国の兵士たち全員が夜の中にあった、上も下も右も左もなく、あるのは夜だけだった。あるのは星々の輝きと闇だけだった。

 やがてパヘリオン王国の兵士たちは自らも夜に変わっていくことに気が付いた。

 最後の瞬間まで、正気を保てたものは、誰一人としていなかった。


「ただいま」

 夜の魔女が学園長室に戻ってきた。

「おかえりなさい。お姉さま」

 ソファに座って待っていたウラニアは手をひらひらとさせて言った。もう彼女はすっかり出来上がっているようだった。

「殺しましたか」

「いいえ、死ぬ前に夜から逃がしてやりました。まあ、いたずらに命まで取ることはないでしょう」

 夜の魔女はソファに座った。

「丸くなりましたね。お姉さま」

 ウラニアはそう言って笑った。ここまで酔っていても彼女の瞳から知性の光が消えることはない。いつもそうだった。無邪気に九姉妹で遊んでいた頃でもそうだったと、夜の魔女は思い返した。

 夜の魔女には、ウラニアが唯の尊大な臆病さや怠惰で、創造の力を使わないのだとはとても思えなかった。ウラニアは九姉妹の中で最も思慮深く、幼いころでさえ、全能だと思えた父をも超える知性を持っていた。彼女が創造をしないのにはきっと理由があるのだと夜の魔女は考えていた。その理由を、夜の魔女は思いきって聞くことにした。

「ウラニア。なぜあなたは創造の力を使おうとしないのですか。あなたはなにを恐れているのです」

 夜の魔女がそう言うと、酔ったウラニアの顔が引き締まった。ウラニアはオドヴィを一口飲んだ。

「私はこの世界が好きです」

 ウラニアはどこか観念したような、悲しそうな顔でそう言った。

「いきなり何を」

 急になにを言い出すのかと、夜の魔女は困惑した。

「私はお姉さまがたが創ったこの世界が好きです。学園も、王国も、天も、地も、海も、昼も、夜も、お酒も、なにもかもが。この世界に満ちる生きとし生けるものが大好きです。ずっと、永遠にこうして生きていけたらどんなに良いかと思います」

「なにを言ってるの。私たちは不死でしょう」

 夜の魔女は言った。九姉妹は基本的に不老不死である。死の魔女にしか九姉妹は殺せないが、その死の魔女は世界の底に潜ったまま戻って来ない。姉妹が死ぬことはもうないはずだった。

「お父様は私たち九姉妹とベッドと天蓋を創り、それを良しとしました。自分が完全だと思う世界を創り、創造を終えたのです。その結果どうなったでしょう。死んだのです」

 ウラニアはオドヴィを一口飲んだ。

「創造が完了したその後、なにが起こるかわかりますか。破壊です。創造が終われば、次は破壊」

 ウラニアはグラスの中を飲み干した。

「その後はまた創造です。これはずっと繰り返されてきたことなのです」

 ウラニアはガラス瓶を傾け、オドヴィをグラスに並々と注いだ。

「つまり、末妹であるあなたがなにか創れば、それがこの世界の破壊の引き金になると」

「そうです。世界の創造期が終わり、破壊期が訪れます。登った坂を下らねばならないように、波が寄せては返すように」

 ここで、ウラニアは息を一瞬止めた。彼女は次の言葉を紡ぐか悩んでいるようだった。

「私が創るものは、世界を滅ぼすでしょう」

 ウラニアは確信を持ってそう言った。夜の魔女は言葉を失った。ウラニアの言葉は夜の魔女の胸に、絶対の予言めいて響いた。

 ウラニアは一息にグラスの中身を飲み干した。それを見た夜の魔女は同じく一息にグラスの中身を飲み干した。

 しばしの沈黙の後、静寂を破ったのは夜の魔女だった。

「でも、今はなにも創ろうとは思わないのでしょう」

「ええ、もちろん」

 ウラニアは空になったグラスを見つめた。

「なら、別に良いじゃない」

「えっ」

 ウラニアは顔を上げた。

「開けない夜はないし、暮れない日はない、というだけのことでしょう。なら良いじゃない」

 夜の魔女はオドヴィを二つのグラスに注いだ。

「今を楽しみましょう」

 夜の魔女はグラスを捧げた。ウラニアはそれにグラスを当て、乾杯した。

「私の姉たちが創った世界に乾杯」

「私の妹が壊す世界に乾杯」

 二人はオドヴィを一口飲んだ。

「ここでは夜は開けないですけどね」

 ウラニアははにかんだ。夜の魔女はその時初めて、世界中を巡った末妹が、なぜ他の姉妹でなく、自分を頼ってきたのか理解した。

「それも良いのでしょう」

 夜の魔女は笑った。ウラニアも笑った。


 開けない常夜の谷の夜が、ゆっくりと更けていった。

 

 

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