115節から116節
115 井戸本組、絵幡蛍子
私が夢現(ゆめうつつ)の状態から気が付くと、既に三半規管が悲鳴を上げていた。どうやら身を激しく揺さぶられているらしく、私はそれをとても不快に感じたわけだが、しかし、身動ぎも出来なかったので仕方がなくなすがままになった。しばし後ようやく元気が戻ってきて、身を捩る。抵抗を感じたらしいその下手人はようやく手を休めてくれて、
「ああ、絵幡、気が付いたのね!」
私は瞼を開け、目前に綱島の嬉しそうな顔を見つけた。そして、今の状況を思い出そうとして、……思わず、激しく顔を顰める。
「大丈夫? 絵幡、どこか悪いの?」
私は力なく首を振った。
「私は大丈夫、怪我一つもないわ。」
そう言いつつ、近過ぎるがために視界を埋め尽くさんとしている綱島の姿に苦労しながら、あたりを見渡すと、どうやら私はこれまでに見たことのない部屋の中に居るようであった。少なくとも、先程の忌まわしい部屋、彼方組が塒とする――あるいはしていた――部屋ではない。
私の心の動きに気が付いたらしい綱島が、とても言い難そうに語り出す。
「ああ、ええっと、……そう。襲われているあなたを見つけて、無事助けたはいいけれども――色々な意味で疲れていたのでしょうね――あなたが気を失ってしまったから、緩鹿と一緒に運び出したのよ。あの場所に居たままでは、目が醒めても、その、……また、あの光景によってあなたが深く動揺してしまうかもしれないと思って。」
私は素直に感謝した。
「有り難う、綱島さん。そして、緩鹿君。そう、そうなのよ、私は、誰も守れずに、」
目の前の綱島が人さし指をピンと立てる。(盲人と過ごしていても、こういう所作の鋭さを損なわれないのだなと私はぼんやり思った。)
「
「でも、」私は抗った。「私は、また、同志を、いや、それだけでなく、井戸本様すらも、ああ、ああ、」
「黙りなさいって言っているでしょ!」
その声に、伏せてしまっていた私の視線が吊り上げられる。いつの間にか立ち上がっていた彼女は、厳しい表情で、
「弱音を吐いていても仕方ないわ。あなたの代わりに私が言いましょう。井戸本様、続橋、縄手、以上の三名があなたの至らなさとやらで彼方組に殺されてしまった。
で、あなたのすべきことは何? ここで泣きべそをかくこと? 違うでしょ、生き残った私達で、彼方組を討ち、同志や井戸本様の仇を取り、そして、このサバイバルを生き抜くことで井戸本様への大恩に報いることでしょう。違う?」
私は、しかし首を振った。これを見て眉を顰めた綱島に向かって、私は立ち上がりつつ、出来る限りのしっかりとした口調で、
「ええ、違うわ。確かに井戸本様に報いたい気持ちもある。しかしまずは、綾戸、綾戸さんを守りたい。彼女は、無事?」
奥のほうに居た緩鹿が喋り出す。
「恐らく無事だよ。少なくとも、端末から名前は消えていないらしい。」
「そう、それは本当によかった。でも、それだけ?」
「どういう意味だい?」
「単に生存反応がある、というだけでなく、綾戸さんが本当の意味で無事で、そして戦闘をしているのならば、時折、彼女のトライアングルのもたらす轟音が漏れ聞こえてくる筈なのだけれども、あなた達、それを聞いた? 特に、緩鹿君。」
綱島班の二人の顔が、まるでコーヒーと称して墨汁でも飲まされたかのようにさっと渋くなり、その顰め面はすぐ私へと伝播した。自分で招いたくせに、それを打ち消そうと、綱島は敏く気丈な表情をでっち上げる。
「早とちりしないでよ。私達やあなたが綾戸の戦闘の気配を感じ取れないからといって、すなわち綾戸が戦闘不能であるという訳ではないのだから。寧ろ、誰とも出会していない為に一度も戦闘を行っていないと考えるのが自然よ。でないと、綾戸を戦闘不能に追い詰めておいて彼女を殺さない――つまりはポイントをみすみす見逃す――という、不可解な真似をする敵を想定しないといけなくなるもの。」
私は励まされた。
「そうね、有り難う。」
「元気になったかしら。なら、同志達の仇を討ちに行きましょう。」
そう言った綱島の笑顔は、しかし、すぐ濁った。私が、あからさまに表情で渋ったからだ。
「綱島さん。やっぱり私は賛同出来ないわ。」
覚悟はしていたが、やはり、気持ちのいいものではなかった、綱島の面(おもて)に、不機嫌に歪む相好を呼び起こすことは。
「何を言っているの? ここで私達が退いたら、縄手は、続橋は、そして井戸本様は、何の為に死んだことになるのよ。いえ寧ろ、彼方組に殺されたのべ十五人の同志は、どうなるのよ。私達が、いま彼方組を斃さなければ、彼らの死は、犠牲は、どうなるのよ!」
「綱島さん、どうか、感情論というか、泣き落としはやめて。彼らの為に命を懸けることが、命を抛つことが、彼らへ報いることになるの? 私はそうは思わない。」
「じゃあどうしろと言うつもり? 墓でも造って拝めとでも言うの?」
銅座を散々に叩きのめした時の綱島の迫力が、悪意が、ここに甦っていた。彼女の言うことに肯えばまたその素晴らしい笑顔が見られると思うと、すなわちこの、対峙するだけで身に鉋をかけられているような気持ちにさせられる表情を引っ込めてもらえると思うと、つい、誘惑に負けそうになるが、しかし、私は懸命に自分を奮い立たせた。綱島も言っていたではないか。私達は、死に逝った彼らに報いねばならないのだ。ならば、何としてでも私は、私の思う最も確からしい行動へ私達を導く必要があった。その為ならば、綱島に抗うくらい、
「馬鹿なことを言わないで。私はこう言いたいだけよ。綾戸さんも含めて撤退しましょう。」
「何を言っているの、何度も皆で言っていたでしょう、こんな機会もう二度と、」
「でも、那賀島と周が死亡している以上、最初の狙いであった大多数での襲撃というのは反故になりつつあるわ。」
「しかし鉄穴の首許にここまで躙り寄れたのは、この作戦と、そして多くの犠牲があったからよ。」
「だからと言ってこれ以上深追いしたら、全滅するだけだわ。もう、退きましょうよ。私を助けてくれたということは、あなた達も見たのでしょう? あの、光景を。」
綱島の顔が〝激情〟から〝動揺〟に向かって僅かに歪んだ隙に、私が畳みかける。出来る限りの勢いをもって話し始めないと、吃ってしまいそうだったのだ。
「井戸本様と続橋を押し潰したあの机や椅子の数はどう考えても異常、不自然だった。つまり明らかに、彼方組はあの上の階にわざわざ大量の机を運び込んで、あのような攻撃の準備をしていたのよ。いえ、仮に奴ら自身がそうしたのでないにせよ、とにかく、彼方組はどこの天井を射ぬいたら有効な攻撃となり得るかを知り尽くしているに違いないわ。そう、間違いだったのよ、奴らのホームに踏み込むのは、大変に愚かな行為だった。これは、こちらからの二度の襲撃と、そしてそれぞれに伴った多くの犠牲とをもってようやく得られた知見なの。ならば、それこそ活かさないと、私達は彼らの、」
ここまでで私は言葉に詰まってしまった。だって、綱島の表情が、まるでそこから業火でも放っているかのように、
「そうよ、アンタが馬鹿なことをしなければ、余計なことを考えなければ、誠一は死なずに済んで、」
手が伸びてきた。絶対不可侵の強烈な閃光をもってこれまで無数の瞳から輝きを奪ってきた無慈悲の手、今それが、さっき懸命に助けてくれた筈の私の首を絞め上げ始めている。堪らず声にならぬ声を漏らす私は、幸い、すぐに助けられた。
「止めろ! 綱島。」
「離しなさい、緩鹿! もう二度と、こいつの言うままにして、こいつのせいで命を失う訳には、」
彼女の両手を摑み上げた緩鹿へ振り返ることで、綱島の睨みが消えたことに勇気づけられ、私は、一つ息を整えてから、
「綱島さん、我々はまたも見誤ってしまったようよ。あなたはやはりまともでないわ。だって、本来のあなたなら、そんな非道いことを言う筈がないもの。」
彼女と再び目が合った。そこにはまた動揺が混入しつつある。
「勿論、あの時に紺野君を含めて多くの命が犠牲になったことに関して、私は、この上なく大きな責任を感じている。でも、あなたはそれを詰るような、論うような人ではない筈でしょう、綱島さん、どうか、しっかりして!」
目を見開き、戦慄き出す綱島の顔。
「綱島さん、もう、はっきり言ってしまうわよ。あなたはそう、紺野君を失った個人的な怒りを、……いい? 個人的よ? そう、同志がどうとか、井戸本様がどうとか、そういう意味ではなく、極めて個人的かつ極めて特異な感情を紺野君と交わしていたあなたは、そうやって得た個人的な忿怨を、激情を、どこに振りおろすか定め兼ねているだけでしょう? だから必死に彼方組への深追いを主張し、そして、それが反対されたら、今度は私に向かってその忿怒を振りおろしたのだわ。やたらめったら、盲滅法に。
綱島さん、今のあなたは最低よ。どうか、普段通り、知的で思い遣りのあるあなたになって。」
円かだった綱島の目が、数秒の後、皆既になり損ねた月蝕のように、赤く、細くなった。そうやって面積がいきなり引き絞られたので、その目は堪らず涙を溢す。
「誠一、」
意味を為さぬその呟きを打ち払うようにして、私は、
「綱島さん。これ以上ここで戦っても、危険なだけよ。不幸中の幸い、と言う訳でもないけれどもとにかく結果として、私達の中の三人と、那賀島組、周組のほぼ全員、そして彼方組の一人が今日ここで斃れたの。述べ十二人よ? もともと銅座が勝手に死んだ時点で二十四人しかいなかったのだから、もう、残り人数は殆どない筈。
綱島さん、緩鹿君、ここは退きましょうよ。退けば、この先いくらでも機会はあるわ。いえ、最早機会すら必要ないかもしれない。じっとしていれば、最後の七人に残れる可能性すらある。たった、後五人が消えればいいだけだもの。」
綱島は、今も私の首に走っている痛みをもたらした負い目もあってか、大人しく首肯した。
しかし今度は緩鹿が黙っていない。
「絵幡、概ねのところは僕もそれで賛成だ。無用な危険を冒して死ぬことは、これまでの犠牲を冒瀆することになるのだと、僕も思う。しかし、ここで退くには問題があるだろう。」
「何?」
「君は、この先じっと凌げばいいと言ったけれども、しかし、そうすることは不可能ではないだろうか。だって、井戸本様を殺されてしまったということは、我々は、明日から何を食べれば良いのだろう。」
綱島が、はっと面を上げた。
「そうか、そうだ、私達のポイントは全部あの方にお預けしていたのだから、もう一点残らず、」
「違うわ! 二人とも、これを、」(ここで失態を悟った私は、気不味く吃ってから、)「
私は彼女に自分の端末を差し向けた。厖大な、三桁のポイントがそこに表示されている筈だ。
「なによ、これ、どうしたの?」
「私は、あなた達に助けられるまでずっとあそこで潰れていた訳ではないのよ。その前に、大きな仕事を果たしていたの。それから改めて座り込んでしまった訳だけれども。」
綱島と目が合う。
「まさか、あなた、」
「あまりにも畏れ多かった。しかし、井戸本様は懸命に笑って許して下さったわ。そう、私は、続橋と井戸本様にとどめを刺したの。彼方組に、ポイントを流さぬように。私達が餓えぬように。」
私は最早堂々と、
「どう、二人とも、まだ何か異論はある?」
綱島班が揃って押し黙る。私は出来る限り快活に、
「では、さっさと撤退しましょう。最終的な勝利の為に!」
二人が抵抗なく肯んじた。
まず綾戸に聯絡を入れる。耳栓をしている彼女との通話は少々手間取ったが、とにかく適当に脱出しろと伝えると、彼女は特に何も訊かずに肯った。いつかの、私や紙屋と勝手に逸れてはその度に泣きじゃくっていた彼女が嘘のような、頼もしい口調の返事だ。あれなら、きっと無事に脱出してくれるだろう。
しかし、先程私は、綱島の個人的な思い、紺野への思いを糾弾して、彼方組への追撃論を反駁し切ってしまったが、実は、私も同様に自分勝手な思いで撤退を訴えたのだった。綾戸だ。彼女を死なせたくないから、私は、どうしてもここから逃げたくなったのだ。今まで自分を支えてきてくれた綾戸をどうしても失いたくない。彼女が居なくてはどうしたらいいか分からなくなりそうだし、そしてまた、彼女にはどうしても生き延びて欲しいのだ。無事に生き延びて、治療され、この後の人生を尋常に謳歌して欲しいのだ。井戸本様に対するものに匹敵するほど、……いや、もしかしたら寧ろ凌駕するほどに私は彼女に恩を感じている。私は、綾戸彩子を絶対に死なせたくない。
つまり、先程の綱島と私の議論は、実は、死者紺野を悼む綱島と、生者綾戸を思う私との、それぞれ我が儘な感情の激突であったのだ。あそこで私が打ち勝ったのは、きっと、綱島がその感情をあまりにも露にしてしまい、そして私の方では直隠しにしたからだろう。感情的な意見はそうでない物に劣るという、誰しもが無意識に正しいと思い込む経験則を利用して私は撤退案を通したが、実際、どちらが良いのかは分からない。つまり、ただ生き残りのみを考えた時に、ここで多少の危険を冒して鉄穴を討つのと、諦めて安全に逃げるのと、どちらが本当の意味で優れているのかが分からないのだ。だって――綱島も緩鹿も気が付かないようだから黙っていたが――周が討たれた以上、周組が持っていた無尽蔵のポイントが他所に、恐らくは彼方組に渡ってしまったということなのであり、つまりは、私が井戸本様から引き継いだポイントは明らかに不足していることになる。ならば、凌ぎ切って生き残るというのはかなり困難で、きっと結局どこかで他の連中、下手をすれば彼方組を攻撃しなくてはならなくなるのだ。ならば、結局今鉄穴を叩くべきなのかもしれない。
ここまで考えて私は頭(かぶり)を振った。馬鹿者め、今更そんなことをうじうじ考えて何になる。もう決まったのだ、逃げると決めてしまったのだ。今は只管逃げるのみ。その後のことはその後で考えろ。
私がそうして、つい伏してしまっていた目を上げると、笑顔の綱島と、そして、訝しげな表情の緩鹿が佇んでいた。綱島も相棒の怪訝に気が付き、
「緩鹿?」
緩鹿は、まるで音に反応して起爆する仕掛けのダイナマイトを目の前にしたかのような、極まった潜め声で、
「綱島、廊下に一人居る。」
綱島は即座に表情を引き絞り、その真剣な顔を私に向けてから、十指の中でそれらだけを伸ばした中指を両の眉に宛てがい、かくんと、頬骨の辺りまで折り下ろした。心得た私は、両目をこれ見よがしにぎゅっと閉じる。綱島が頷いたかのような間があって、その彼女の幽かな跫音が扉の方まで遠のいていった。
その後様々な音が、間に髪を容れずに、まるで意志を持つ一人の奏者によってかき鳴らされたかのように止めどなく響いてくる。扉が引き開けられた音、綱島が踏み出でた重い跫音、誰かの呻く声、瞼を貫いてくるシャッター音、より痛ましい呻き声、そして、銹びついた打擲音、情けない断末魔。最後に綱島の声。
「二人とも、来て。」
緩鹿と違い、私がそちらに行くには目を開けないと酷く煩う。故に、もう、そうしても良いのだろうと勝手に判断し、視界を得た私は緩鹿と共に綱島の待つ廊下へ進んだ。
廊下には死体が転がっていた。頭が打ち砕かれており、そのから覗ける様々な生体組織は、今綱島が右手で巻きつけるように提げている紐の先にぶら下がる一眼レフが帯びている化粧と、同じ色をしているように思える。多く赤、時々線のような黒や軟らかい桃、そして、稀に硬い白。そのカメラは一応ぷらぷらと揺れていて、いやいやをしているように見えなくもないが、しかしその割には、それら付着物を振り払おうとする気概が感じられなかった。きっと、まんざらでもないのだろう。
私の注目に気が付いたらしい綱島が、
「もともと、私は緩鹿と組む前はこういう戦い方をしていたのよ、別に頭一つ打(ぶ)ち割ったくらいで私の聖具は壊れやしないし、私も何とも思わないわ。それよりもほら、見なさいな。この男、銃を持っているわよ。」
そう、この男は、明らかに彼方組の者だった。と言うよりは、この高くない背丈、ずんぐりとした体躯、シカゴタイプライターを模したと思しきエアガン、そのいずれもが、縄手、続橋、そして井戸本様の命を奪ったあの男のものであった。
私がそれを伝えると、
「成る程、つまりこれで、あなた、というか我々の遭遇した彼方組の連中は全滅させた訳ね。ああ。これで一安心。もう、ここに彼方組連中は残っていないことすら考えられるわ。」
「いや、」緩鹿は冷たく言った。「そうはいかなさそうだ、綱島。この男、廊下で長いことうじうじしていたように思えたから、きっと、どこかへ通信をしていたのではないだろうか。つまり、まだ誰かがここに来るかもしれない。」
「本当?」
私の呻くようなこの言葉は、綱島に抑えられた。
「絵幡、緩鹿の耳を疑っては罰が当たるわよ。彼がそう言うからには、そうなのでしょう。とにかく、私達もすぐに外に出ましょう。」
私は頷き、盾役らしく三人の中で先頭に立って先を進んだ。一つ目の角まで辿り着き、そこを曲がる。そして数歩進むと、向こうの陰から飛び出てきたのは、……人影!
私は目を閉じつつ、急いで画板を構えた。後ろでも綱島が慌ててカメラを構えている気配がする。よし、これで大丈夫。もしも向こうの人影が彼方組のもので、もしも向こうの銃撃の方が綱島の一撃よりも早くとも、十中八九、向こうの攻撃は私の画板を打ち据えるに留まる、何も心配も問題もない。だって、これまでずっとそうやって上手くいってきたのだから。
以上の安堵を一瞬の内に組み立てた私の心は、次の一瞬で焦熱に染まった。大きな音と大きな衝撃がそれぞれ二度した後、精神がいきなり焦熱に呑まれて、そして、体がふわりとしたのだ。訝る私を、続く閃光の気配、勢いのいい跫音、背中への衝撃、緩鹿の怒声とが、次々に襲う。別に、閃光は問題ない、心得た私は目を閉じていたのだから。しかし、何だこれは、何故、私は床に転がっているのだ?
「絵幡!」
血が滲んでいるのかと思わせる程に、その綱島の声は痛ましく掠れていた、と私は思ったが、どうやら違うようだ。この血の香りは、気のせいではない、どうにも近いところから実際に香ってくるような気もする。しかしそんなことはどうでもいい。そうだ、綱島、なぜ敵前で私の顔を覗くというような暢気な真似を、
「綱島さん、何をしているのよ、敵がすぐそこに、」
「あんな奴はとっくに緩鹿が斬り殺したわよ、そんなことよりも、ああ、どうしよう、ああ、……あぁああ!」
やかましいな、と私は思ったが、思考は先程からの謎の焦熱にいくらか妨害されていた。それでもどうにか私は訝る。綱島はどう見ても無事だ、緩鹿だって、攻撃したのだから無事なのだろう。私も、聖具をきちんと掲げたのだから無事に決まっている。しかし、では、何故綱島はこうも泣き叫んでいるのだ? やはりまだ彼女の精神は紺野の死の衝撃から恢復し切っていなかったか。ならば、宥めなければなるまい。
病床ならまだしも、只の床に寝転がっている人間が他人に言葉を垂れようというのはあまりにも滑稽だ。まずは立ち上がろう。私は四肢に力を込めて立ち上がろうとしたが、しかし、両腕が上体を持ち上げたところで終わってしまった。うん? 私の脚は何をやっている?
私は脚を見ようとした。見えなかった。そこに何もなかった。焦熱の正体に気が付いた。私は絶叫した。
ああ、そうか、自分の顔や胴、あるいは同志を守るべく、画板を
「絵幡、大丈夫? ねえ、絵幡!」
私は身を捩るのと叫ぶのに必死で、綱島の言葉に応えることが出来なかった。痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い! 脚があった場所が鎔鉱炉のように赤熱するように思われ、そこから血と生命が止めどなく流れ去っていくのを感じる。苦悶。とても、耐えられない。
緩鹿がやってきた。
「ああ、緩鹿、そっちを支えて。」
綱島が私の肩の辺りを摑み、持ち上げようとしたことで私はようやく事態を察し、焦熱に犯された頭の中に僅か残る有効部分を総動員することで、その手を撥ね退けることが出来た。
「馬鹿言ってないで逃げなさいよ! 私を連れていってどうなるというの。」
「あなたこそ馬鹿言わないで。おいていける訳はないでしょう!」
「ふざけないで、私はもう死ぬのみよ。そうよ、そもそも、緑川だってそうなったじゃない。みな、緑川を見捨てて、私に殺させたじゃない。なのに何故、私だけが、」
「あの時とは状況が違うわ。今は、もしかすれば今日にでもこのサバイバルが終わるかもしれないという日。ならば、あなたを助けることに大きな意味がある。もしかすれば、あなたは最後の七人となって治療が受けられるのかもしれない。」
「与太話はいいからさっさと行きなさいよ! そんな、向こう十数分の内に私が生き残りとなるという僅かな希望の為に、また私に仲間を殺させるつもりなの?」
私は自分でも少し驚いていた。〝仲間〟という慣れぬ言い回しが自然に飛び出たことに驚いたのだ。とにかく――恐らく全く別の原因で――綱島が絶句したので、私は彼女を緩鹿とを交互に見やりながら言う。
「これまで私の為に何人が死んだと思っているの? 私の愚かな献策の為に、私の伎倆が至らぬばかりに、私が直接手に掛けたばかりに、少なくとも十人以上の仲間が死に逝ったのよ?」
「別に、君が殺した訳では、」
私は緩鹿の言葉を完全に無視して、
「お願いだから、これ以上私に仲間殺しの汚名を被せないで。綱島さん、緩鹿君、どうか、逃げ延びて。そして願わくは、綾戸さんのことを守って。彼女は、あまりにも頼もしいけれども、あまりにも頼りないから、きっと、あなた達と一緒にいれば生き延びられるし、いなければ死んでしまう。聖具の相性とか、色々あるだろうけれども、どうか、」
私の言葉はここで止まってしまった。熔銅を垂らされたかのような、より強烈な痛みが、突如存在しない脚を襲ったからである。先程から私の心を満たす激痛の海に、夜空から月が落ちてきたような、凄まじい衝撃。
思わず呻き声を発しながら振り回される私の頭部は、辛うじて、緩鹿の暗い表情を認めることが出来た。
「綱島、逃げよう。」
「でも、」
「じゃあ言って見てくれ。絵幡さんの脚はどういう状態なんだ? 彼女曰く、とても生き延びられるようなものではないらしいが。」
眉根を寄せた綱島が口を噤んだので、私が言葉を挟む。
「両腿の半ばから下が吹き飛んだわ。」
私はこれだけ言うと、綱島の批難の視線と、それによって思い起こされた焦熱に苛まれ始め、二の句を継ぐことが出来なかった。
しかし恐らく、緩鹿には十分であっただろう。彼は力強くなった。
「綱島、絵幡さんの言う通りだ。僕達は逃げて、自分たちの命と綾戸さんを守るべきだろう。さもなくば、本当に全滅してしまう。」
綱島の表情がゆっくりと歪んでいき、あの素晴らしい笑顔の面影を全て失った。まるで濡れ雑巾のように情けなく、汚らしく、そしてびしょ濡れになったのだ。
「何で、何で皆死んでしまうのよ。井戸本様は何度も、私に、君が居てくれれば百人力だと、君がいれば怖いものはないと、言って下すったけれども、でも、全然、私は皆を守れなかった。多少は、喰い扶持を入れるのに役に立ったけど、所詮それだけで、結局皆死んでいった。そしてついには誠一までも。だから私は、もう、二度と同志を殺させまいと、仲間を害されまいと誓ったのに、しかし、井戸本様は、私がD棟に行くことを許して下さらなかった。そしてその結果、また、守れなかった。だから私は、私は、もう、誰も! 死なせられないのよ!」
「綱島さん。」私が、勝手に顰められる顔から何とか言葉を発した。「私のあの愚かな作戦に参加しなかったからこそ、恐らくあなたと緩鹿君はここに生きているのだわ。だからお願い、その命で、今度こそ仲間を、綾戸を守って。私の代わりに彼女に恩を返して。お願い。」
しばらくの嗚咽の後、ようやく綱島が頷いてくれたので、私は心より安心して、ああ、綱島綾戸の双璧が揃えば、たとえ多少相性が悪くとも敵はないだろうと思い、ふと前を眺め、全ての安堵を一瞬にして失った。
私の指がそちらを指し示すが早いか、それとも、その身動ぎから察した綱島がそちらを見やるのが早いか、分からなかったが、少なくとも、我々の対処が遅過ぎたことだけは確かだ。遠く小さいその人影は、しかし見紛いようもなく、鏑木であったし、またその姿勢は、これまた見紛いようもなく射撃体勢であった。しかも、あとは引き金を引くだけという質(たち)の悪いもの。
まず緩鹿の体が四散し、そして、綱島の絶叫。鏑木の、銃身のコックを捻る動作。綱島がカメラを構える様。鏑木が、こちらに銃口を向けなおそうとする動き。綱島の指がシャッターボタンに掛かる。鏑木の指が引き金に掛かる。轟音。呻き声。私の顔に飛び散る、暖かく鉄臭い液体。
116 葦原組、躑躅森馨之助
俺は唖然としていた。近くにあった棟に入り、早速食料を買おうとしたのだが、なんだこりゃ?
ふと気が付いた俺は、自動販売機から端末を引き剥がして、通知の一覧画面を呼び出す。まだ読んでいなかった通知がいくつか来ていた。
一番上の、つまり、一番新しい通知を選び、開き、そして読んだことで、俺の唖然は破られて情けない呻き声と化した。おいおい、なんだよこれは、
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