第三話 まぼろしの女

 静寂に沈んだ深い山の中。浜崎雄一は、左手の上の錠剤の山を見つめた。自殺用に準備した睡眠薬である。これを胃に送り込めば間違いなく死ねる。この世に思い残すことは、もうなかった。

 右手は、水の入った紙コップを握っていた。一気に錠剤を、口の中に投げ込もうとしたとき、いきなり、後ろからその腕をつかまれた。

「やっぱりな。どうも様子がおかしいから、あとをつけてきたんだよ」

 林道からは奥まった藪の中である。まさか、そこに人がいるとは思わなかった。

「その若さで、死ぬなんて、とんでもない」

 声の主は、山歩きの服装をした初老の男だった。日焼けした顔にみなぎるたくましさは、雄一にはないものだ。

「なぜ、死ぬ気になったのか、おれに話してみな。相談相手になってやるから」

 あれほどまで固く決意した死への憧れが、なぜか急速に薄れていった。孤独に生きてきた雄一には、相談相手という言葉が、この上もなく頼もしく思われたせいだろう。



 雄一は、事情をそっくり打ち明けた。二十二歳になる雄一は、街工場で働いている。喫茶店のウェイトレスだったさゆりと恋仲になり、ふたりはアパートで同棲するようになった。

「幸せに暮らしてました。なのにさゆりは、ある日、置き手紙をして姿を消しちゃったんです。ほかに好きな男ができたからといって」

 さゆりのいない人生なんか、とても考えられなかった。必死になって行方を探したがわからない。悩み苦しんだ末に、雄一は死のうと決めたのだった。

「そうかい。事情はよくわかったよ。じゃ、死なないでも生きてゆけるいい考えを教えてやるよ。君は彼女がいないと生きられない。それなら、今後も彼女と一緒に暮らしているつもりになって、毎日を過ごすんだ」

「えっ、つもりになるといっても、彼女はいないんですよ」

「だから、彼女の姿を想像するわけさ。真剣になって空想をしていると、まるでそこに現実にいるような気持ちになる。君の寂しさは、それでまぎれる。人間の想像力というのは、すごいパワーを持っているものだよ。理屈を言う前にやってみることだ」

 初老の男は、穏やかな微笑を浮かべ、自信たっぷりに言い切った。



 授かった知恵を、雄一は実行してみた。帰宅すると、「ただいま」と以前のように明るい声を出す。食事中もさゆりがそこにいるかのように、さゆりの食器を並べ、彼女の幻影に向かって、楽しい話を語りかける。不思議なもので、やがて雄一の目には、生き生きしたさゆりの幻影が、次第にはっきりと目の前に像を結びはじめた。さゆりと仲良く暮らしているような幻想が、現実のように思われてきた。



 雄一は、悪い風邪を引いてしまった。高熱が出た。アパートの一人暮らしだから、こんなときは心細くて気が滅入ってしまうところだ。しかし寝込んだ雄一のそばには、まぼろしのさゆりがいた。熱にうなされながらも、雄一は彼女と話し合うことで挫けないで過ごせた。

 夜中に目がさめた。さゆりが心配そうな顔でのぞき込んでいる。

「悪いね、寝ないで看病なんかしてもらって。でも君がそうしてぼくのそばにいるだけで、ぼくは幸せなんだよ」

 さゆりは、じっと雄一を見つめたままで、問い返した。

「ほんとうに、そう思っているの」

「当たり前じゃないか。だって君は、ぼくの命よりも大切な人なんだからね。君といっしょに暮らせるぼくは、この上もなく幸せさ」

 熱のせいもあったし、眠気のせいもあって、それ以上の言葉をしゃべらないまま、雄一はまた深い夢路に入ってしまった。

 翌朝、明るい光の中で雄一が目を覚ましたとき、彼はすっかり元気になっていた。そばにさゆりがいた。いつもとはけた違いに、しごく現実感のある幻影だった。そのさゆりが、目に涙をためて言った。

「男に捨てられて、きのうの夜中、ここに帰ってきたの。あなたに叱られたら、また出てゆくしかないと思ってた。そしたらあなた、ちっとも態度を変えないで、優しい言葉をかけてくれたわね。あなたって、最高の男性だわ。今度のことで、それがとてもよくわかった」

 けさのさゆりは、まぼろしではなかったのだ。

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