ネコの家族

まゆし

ネコの家族

 私はネコちゃんと呼ばれているわ。


 山口さんのお家に住んでいるの。

 お父さんがペットショップというところで、小さなお部屋にいる私のことを見てすぐに、連れ出してくれた。


 あの小さなお部屋とは比べ物にならない、大きなお家にいたお母さんは私のことを見てそっと撫でてくれたわ。

「空からもらったのかしら、それとも海からもらったのかしら……とっても綺麗なブルーの瞳ね」って。


 お父さんは「この子はうちの子だ!って思ったからすぐに連れて帰ってきた。勝手にごめんな」ってお母さんに頭を下げてた。


 お父さん、あの小さなお部屋から連れてきてくれて、ありがとう。

 お母さん、私のことを優しくお家に入れてくれて、ありがとう。


 私の本当の名前は、『アンナ』というみたい。

 何か紙に私のとても長い名前や家族のことが書いてあったみたいだけれど、気がついたらあの小さなお部屋にいたから、興味が無かったし。


 なによりね、人間の言葉は聞こえても、意味はよくわからないのよね。


 二人はその紙を見て、どこかへ丁寧に仕舞ってた。

 お父さんもお母さんも、私のことを『ネコちゃん』と呼ぶから「はーい」と返事をするの。


 そうすると、お父さんもお母さんも『笑顔』になるのよ。人間っていいわね。お顔で気持ちがわかるから。


 だから、どこから呼ばれても、声が聞こえたところへ、軽やかに向かうのよ。

 身のこなしには、自信があるの。


 ☆


 そうしてしばらく経った頃、お家の庭にそれはそれは大きな犬が来たのよ。名前は『むさし』っていうそう。

 白い毛がふわふわしていて、その白い毛がとっても羨ましくて。

 私は、濃い茶色と薄いクリーム色で短めの毛はふわふわもしてないし。


 お台所の大きな窓から「はじめまして、こんにちは」と彼は言ってくれたけど、「ふんっ!」って、その鼻をパシンと叩いて、畳のお部屋でお日様の当たる座布団の上にくるりと丸くなって寝ることにしたわ。


 このお家で、お父さんとお母さんの一番は私なのよ。


 むさしの元気よくはしゃぎ回る姿も、お散歩に行けるのも、元気でよく響く声も、羨ましくて。

 私はお家でしか過ごせなかったし、お散歩もお家のパトロールくらいで。

 何より私の声は、ちょっと掠れているから。


 そんなことをむさしは知らないから、彼は私を見かけては「こんにちは、お姉ちゃん」と顔を近付けてくるのだけど。

「気安く話しかけないでちょうだい!」って、パシンと叩いてしまうのよ。


 ☆


 どれぐらい経ったのかしら。

 私もむさしも、すっかり大人よ。


 なんだかね、お母さんのお腹がとっても大きくて。

『赤ちゃん』とやらが、今度お家に来るんだってお父さんもお母さんも私を撫でながら教えてくれた。

『赤ちゃん』とやらが来ても、一番は私なんだから。きちんと教えてあげなくちゃね。


 暑い日の昼間にお母さんが突然いなくなった。


 私は不安で、掠れた声で一生懸命「お母さん?お母さん?」と呼んだわ。

 空が明るい時間にお父さんがいつもお出掛けしていることは知っていたから。

 空が暗くならないと、お父さんは帰ってこないから。


 むさしが心配して、私のことが見える窓に近寄ってきたけれど、窓はピッタリ閉まっていて開かないの。

「お姉さん、お姉さん、どうしたの?」と、窓越しに、むさしの心配そうな声が聞こえた。

「お母さんがいないのよ!」

 窓の外に聞こえるように、大きく掠れた声で叫んだの。


 むさしは、何も言わずにウロウロ、ウロウロお庭を探しているみたい。でも、むさしの首にはなんか銀色に光るものとむさしの小さなお家が繋がれていたから、見えるところが少なくて、お母さんは見つからなかったみたい。

 空が暗くなって、お隣に住んでるおばちゃんが来て、ご飯をくれたのだけれど。

 お母さんはいないままで、空が暗くなったのにお父さんも帰って来なくて。


 その日は閉じたままの窓越しに、むさしと寄り添うように眠ったわ。


 空が明るくなって突然、むさしが「おかえり!おかえり!」って、大きな声で言うから私は飛び起きたの。

 窓の外を見たら、むさしがしっぽをぶんぶん振っている姿が見えた。


 お父さんとお母さんだ!

 玄関に走っていって、ガチャと扉が開くと同時に私は怒って言ったのよ。


「心配したのよ!何してたのよ!どこに行ってたのよ!」


「ネコちゃん、ただいま」と怒っている私をお父さんは優しく笑顔で撫でるけど。私怒ってるのよ!

「ネコちゃん、優子ちゃんよ」と笑顔でお母さんは、大事に抱えたものをそうっと見せてくれた。

「何かしら、これは……」覗き込んだら、時折ふにゃあと動くので。

 なるほど。『優子ちゃん』という生き物なのね。


 私は忘れっぽいから、怒ってたことも忘れてしまって、『優子ちゃん』という生き物をじいっと見つめたの。


 私とむさしは、『優子ちゃん』という生き物がずっとお家にいるから、山口家の五番目の家族だということに気がついたわ。


 ある時、お母さんがお台所にいる時、お台所から離れたお部屋で「ふぎゃあふぎゃあ」と優子が声を出したの。

 お顔が濡れていたから、ペロリとなめてあげたのよ。そしたら、もっと大きな声を出したから、仕方なくお母さんを呼びに行くことにしたわ。

「お母さん!優子がお母さんを呼んでるわ!」


 お顔が濡れていたのは、『涙』というもののせいなのね。人間は『泣く』と『涙』がでるのね。

 あとで、お母さんが教えてくれた。


「呼びに来てくれて助かったわ、ネコちゃんは、優子のお姉さんなのね。むさしはお兄さんね」


 なるほど。

 お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、弟、妹。

 しっかり覚えたわ。

 あら、そう言えば、むさしは私のことを「お姉さん」と呼んでいたわね。なんだか少し悔しいわ。


 優子は『幼稚園』というところに行くようになって、それから『小学校』というところに行くようになって。

 もう、優子は私がペロリと涙をなめてあげても、前みたいに泣かなくて、私をぎゅっと抱き締めるの。

 ちょっと苦しいけど、優子の涙が止まるなら我慢してあげるわ。


 優子がむさしとお散歩に行くのは、ちょっと面白くないのだけれど……

「むさし!優子のお兄さんなんだから、ちゃんと面倒見てあげなさいよね!」

「わかったよ、姉さん!優子のことは任せて!」

 私は窓からお見送り。


 優子は『中学校』というところに行くようになっていた。


 私のことを「ネコちゃん、ただいま!」と言って撫でるのよ、毛繕いしたばかりなのに。仕方ないわね。

 むさしのことを「むーくん」と呼んで、ふわふわの体に顔をうずめてたこともあったわ。

「優子、汚れちゃうよ?」とむさしは嬉しそうにしっぽを振りながら言ってたっけ。


 お父さんとお母さんとむさしと優子。

 私の大切な家族。


 でもたまにね「姉さん、今日も天気がいいよ!」と開いた窓から嬉しそうに、むさしが大きな顔を近付けるから。

「そんなこと見たらわかるわよ!」って、パシンと叩いてしまうのよ。


 ☆


「むさしは元気にしているかしら」もう、私は動けないわ。お外も見ることができないし、お水も飲めないの。

 けれどきっと、むさしもあと少ししたら、私と同じようになるはずね。お散歩が短くなったことを、私は知ってるわ。

 もうすっかり、おばあちゃんとおじいちゃんだもの。


 優子、なんて顔してるの。

 笑いなさいよ、私たちのかわいい優子。


 お父さん、ありがとう。

 お母さん、ありがとう。


 伝えたいことがたくさんあるのに、もう声が出ないのよ。体が動かないの。


 お願い届いて、私の言葉は通じないのよ。

 だから、届けてほしいの気持ちだけでも。


 優子、泣かないで。

 私はもう、優子の涙をなめて拭ってあげることもできないわ。


 優子……大切な私の妹。


 もうずっとずっと前にね、ベランダでむさしと一緒に聞いたことがあるのよ。


「初めから、終わりまで、優しく、それが優子」

「子って漢字は、一から了、つまり初めから終わりまでっていう願いがこめられているの」


 私もむさしも難しくてわからなかったけどね。でもね、ひとつだけはわかったのよ。小さな頃から優しかった優子。きっとこれからも優しく生きていくのね。


 それを、私は知っているからね。

 それを、むさしも知っているわ。


 私たちのかわいい妹。


 私を見つめる優子がぐいっと顔を腕でこすった。

 いつの間にか自分で涙を拭うことができるようになっていたのね、優子……


 もうきっと大丈夫ね。

 耳の先からしっぽの先まで、温かい気がするわ。


 こんな時、人間は何て言うのかしら。


 その時「ネコちゃん……またね……」と優子が何度も涙を拭って言ったから。


 なるほど。そう言うのね。


 私は声にならない声で言ってみたの。


「またね」


 そうしてゆっくり、目を閉じる。

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