第二章 吸血鬼はネット通販がお好き 5
吐く息が少しずつ白くなくなってゆくことに、彼は気付かなかった。
雪の中を、膝が砕けるほど走ったのに。
汗と涙で目が霞むほど暴れたのに。
包丁を握りしめた手を、記憶にないほど振り回したのに。
血まみれの左手で首筋を押さえながら、少しずつ、己が変わってゆくことを実感した。
月も星も無い雪の夜。
恐怖と緊張で歯の根も合わない。
そのはずなのに、少しずつ、少しずつ、『それ』が目の前に迫ってくるのが見えるようになった。
目が慣れる、などという当たり前の事象ではない。
雪の夜を、昼間のように見通せる。
そして深々と降る雪の上を音もなく現れたのは、自分と同じ、この雪の夜を昼間のように見通せる赤い双眸であった。
「来るな……来るなあああっ!!」
刃も切っ先も欠け、ただの薄い鉄板に成り下がった包丁をそれでもがむしゃらに振り回して、彼は叫んだ。
不思議とその声は、吹雪の中、よく通った。
「あらあら大丈夫? 転んじゃったのね。お膝、怪我してない?」
血のような相貌を持つそれは、まるで暖かな囲炉裏の火の傍で膝の上でまどろむ幼子に語りかけるように甘やかに言った。
「遅くまで夜更かしして遊んでるからよ? ほら、いい子ね、こっちにいらっしゃい。もう、おねんねの時間よ」
「来るな! 来るな来るなあああっ!!」
もはや白い息の立たなくなった青い唇をわななかせながら、彼は刃こぼれした包丁を右手で振り回しながら、左手は必死で背後をかばった。
「あ……あ……あ……」
彼の背後には、彼よりも一回りも小さい影が、全身をがたがたと震わせ、口から恐怖が形となった白い息を零す。
「ほら、お兄ちゃんなら弟のお手本にならないと。早くおうちに帰って休みましょう?」
それは、彼と弟の二歩前で立ち止まり、玩ぶように二人を見下ろした。
雪の夜に、赤い星が灯った。
彼は確信した。
まもなく自分と、弟の命は尽きると。
はっきりと見えるようになった彼の目に映ったのは、恐ろしく人間離れして端正な容貌をしながら、その相貌と夜の黒を溶かしたように赤黒い血に染まる、着物。
父の、血の、臭い。
「来るな……弟に近づくなああああっ!!」
彼は、その臭いを拒絶するために、刃の欠けた包丁を繰り出した。
それは、『それ』の柔らかくたおやかな掌に一筋の傷も残すことなく受け止められた。
笑った紅い双眸は、どちらのものだったか。
次の瞬間、彼の姿は夜に掻き消え、『それ』の首筋目掛けて、冷たい息を吹き出しながら、『牙』を突き立てようとした。
「っ!!」
その瞬間まで、民話に語られる雪の妖のごとき余裕を湛えていた双眸に驚愕の色が灯り、寸前で止めたものの、彼の口腔に生じた『牙』を凝視した。
「馬鹿なっ!!」
『それ』は彼を恐るべき怪力で引きはがすと、足元の雪に叩きつける。
降り積もった粉雪が吹き上がり、『それ』は僅かに息を荒らげた。
「に、兄ちゃん……兄ちゃあああんっ!!」
叩きつけられ意識を失った兄に、弟がぎくしゃくと縋りつく。
『それ』は、その様子をしばし無表情に眺めていたが、やがて最初の余裕とは別種の笑みを浮かべ、言った。
幼く取り乱す小さな子供に分かるように。
しっかりと、呪いをかけるように。
「……私を追いなさい」
「兄ちゃん! 兄ちゃあああん! やだ、やだよおお!!」
泣き叫ぶ弟の耳に、それは確かに届いた。
もしかしたら気を失った兄の耳にも。
そして、時間にしてわずか数分。彼が目を覚ましたとき。
『それ』の姿は掻き消え、雪の上には『それ』がいた痕跡さえなく。
その日から、彼は二度と、陽の光を見ることは、できなくなったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます