第一章 吸血鬼は朝帰りできない 6

 吸血鬼。

 洋の東西を問わず、様々な形の伝承が残る怪物、魔物、妖怪、或いは、人。

 概ねの共通項として、死者からづる存在であり、吸血対象を己のけんぞくと化し、日の光の下では生きられない。

 そして、その伝承は真実であり、とらは紛うことなき吸血鬼であった。

『財布の中にビニール袋が入っています。もし可能であれば灰を集めて、東京都しまぞう×丁目〇〇のマンション、ブルーローズシャトーぞう一〇四号室まで届けてください。とら 電話番号……』

 そんなメモ書きをゴミ袋と一緒に持ち歩き、たった今カップ麺の残り汁に昨日炊いたご飯の残り物をブッ込んで食べた、吸血鬼であった。

「こんなのでよく届けてもらえると思ったわね」

「こんなので届けてくれる人がいることを祈ってるんだ。実際、届けてくれたろ……はぁ」

 コンビニのカレーとカップラーメンの残り汁が漂わせるインスタントな香りの中で腹八分の倦怠感に包まれながら、アイリスはテーブルに頬杖をつく。

「こんなことするってことは、初めてじゃないんでしょ。人前で灰になるの。今まで何度、家に連れてきてもらえたの」

「まぁ……片手で数えられるくらい」

 実際問題、目の前で人間が灰になる現象を見て、その灰を集めようと考える人間はいないだろう。

 恐怖以前に、何が起こったか理解できないからだ。

「で、そんな『特別』らしいアイリスは、一体何者なんだ。話しぶりじゃ、吸血鬼を見たこと自体初めてじゃなさそうだ」

「警戒してるのね」

「当たり前だろ。俺のこと怖がる様子も、不気味がる様子もない。警戒するに決まってる」

「自分でおかしなこと言ってるって分かってる?」

 アイリスはいーっと口を開けて、自らの歯を指さして悪戯っぽく笑った。

 この世で歯科医の次に他人の歯並びが気になる生物であるとらは、唐突に見せつけられたアイリスの口の中の犬歯につい注目してしまう。

「血を吸って超常的な力を使って、日光浴びて灰になるような、一人暮らしの男の部屋にいる女の子の方がよっぽど怖いわ」

「その吸血鬼の服借りたとか言ってる奴に言われて、俺はどう答えりゃいいんだ」

 状況とセリフの本末転倒ぶりに、とらは混乱する。

「吸血鬼のこと知ってるなら分かるだろ。そんな生き物、一般には認知されてない。そういう存在だって周囲にバレたら、居場所がなくなる」

「確かに、随分長いこと人間社会に溶け込めてるみたいね。この部屋に住んで長いの?」

 アイリスが室内を見回す。

 東京副都心の一角、池袋から、東京メトロ副都心線で一駅。

 さつじん堂のお膝元であるぞうの住宅街の隅に鉄筋コンクリート造の三階建て単身世帯用マンション、ブルーローズシャトーぞうはあった。

 住宅街の中でもひときわ密集しているエリアの、一方通行道路の途中にある更に小路の奥。ブルーローズシャトーぞうは坂の途中にあり、とらの住む一〇四号室は半地下になっている。

 車も通れない道の坂の途中のマンションの、半地下状態の一階角部屋2DK。

 そんな『日当たり』という概念から完全に見捨てられた部屋が、とらの『家』だ。

「もうすぐ十年になる」

 とらは少しだけためらってから、そう答えると、アイリスはその年数に驚いて頬杖から身を起こした。

「嘘でしょ?」

「嘘ついてどうすんだ」

 疑われるのが心外、という気持ちと、当然、という気持ちがとらの中でせめぎ合った。

「俺のことはもういいだろう。一体あんた何者なん……」

 そのとき、テーブルの上に置かれたとらの手の僅か一センチ横に、アメリカ映画の裁判官がそうするように、白銀のハンマーが突然打ち付けられた。

 とらは飛び上がって手を引っ込める。

 単純に驚いたからではない。ハンマーがテーブルを打ち付けた途端、テーブル全てが熱された鉄板のように熱くなったからだ。

「あなたがもし私の『標的』に指定されてたら、手首から先が灰になって吹き飛んでいたでしょうね」

「は? はあ!?」

「今朝あなたが倒した男は、聖十字教会秘密会派、やみじゆう騎士団の国際指名手配ファンだったのよ」

「国際指名手配、何?」

「国際指名手配ファントムの略よ。吸血鬼やヴェアウルフなんかに代表される、闇の生き物達の中でも、特に人間社会に害を及ぼす者達のこと」

「なんでそう略したよ」

「ケチな吸血鬼だったんだけど、ここ数年、吸血鬼の能力を悪用して特殊詐欺や強制わいせつ、飲酒運転なんかを繰り返してたの。名前はカジロウ・オコノギ」

 吸血鬼でなくてもできそうな犯罪ばかりだったが、問題はそんなことではない。

「……お前、一体……」

「私は……んー、ちょっと待ってて」

 アイリスは一瞬言葉を切ると、何かに気付いたように自分の姿を見下ろす。

 そしてハンマーを手に、奥の部屋へと入ってゆく。

 とらのブルーローズシャトーぞう一〇四号室にはふすまで仕切られた和室が二つあるが、片方は主にとらの私物が僅かにあるだけで、もう片方は全く何もない空きスペースだ。

 アイリスは空きスペースに入っていくと、何かをがちゃがちゃといじっている。

 音からして、大型の旅行鞄か何かだ。

 しばしごそごそと音がしてから三分ほど。

 ふすまの向こうから現れたのは、口元にカツカレーをこびり付かせた修道女だった。

「私はやみじゆう騎士団の修道騎士。あなたみたいな闇に生きるファントムを滅ぼす存在よ。このせいつい“リベラシオン”でね」

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