第一章 吸血鬼は朝帰りできない 7

 腰のツールバッグから、まるで西部劇の保安官の如く白銀のハンマーをフィンガーローリングするアイリスに、とらは冷たく言い放った。

「いい加減口にこびり付いてるカレー拭けよ」

「えっ、あっ、嘘、シャツのどこかに付いちゃったりしてない!?」

 美しい女性の驚くべき正体も、カレーは全て台無しにできるのである。

 差し出されたティッシュボックスから一枚取って、顔を赤くして口元を拭うアイリスを見ながら、とらは唸る。

「あと、さっきからテーブルがめちゃくちゃ熱いんだけど」

「リベラシオンで『聖別』したからよ。吸血鬼を殺すのに一番いい方法は心臓に白木の杭を打ち込むってことくらいは知ってるでしょ」

「それやられて死なない生き物いないだろって常々思ってるけどな」

「リベラシオンは白木で作られた物に打ち付けると、聖なる力を吹き込むの。だからさっきテーブルを叩いたとき、そのテーブルはあなたにとって白木の杭も同然のものになったのよ」

「何てことしてくれたんだ。これから俺どうやってメシ食えばいいんだ」

「効果は丸一日で切れるから明後日まで我慢して」

 何もかもめちゃくちゃだ。

「でも今のであなたが、日常的にテーブルでご飯食べてることは分かったわ。夜な夜な町に出て人を襲って血を吸ってるわけじゃないのね」

「馬鹿にすんな。吸血鬼は別に血を吸わなくても死にはしないし、これでも自炊は得意だ」

 朝の出来事と今の出来事で、この女が『自分のような存在』に敵対する組織に身を置き、そうするだけの力があることは分かっている。

 だからこそ今のわずかな会話の中で、少なくともアイリスは今すぐ自分をどうこうするつもりが無いことは分かり、とらはほっと胸を撫でおろした。

「あー……それで、アイリスはどこの国の人なんだ」

やみじゆう騎士団の発祥はイタリアとオーストリアに跨るチロル地方だけど、今の本部はロンドンにあるわ。私はイングランド人よ」

「イギリスから、日本の吸血鬼の動向を掴めるのか」

「イングランド、ね。日本にも支部があるから」

「そうなのか!?」

 そんな組織が日本に根を張っているなどという話は初耳だった。

「私は最近日本への赴任が決まったんだけど、日本での初仕事がカジロウの処分だったのよ」

 行動はいちいち間抜けだが、聖十字教会の修道女が吸血鬼を評して『処分』という言葉を使った意味は重い。

 ついでに言えば、三十秒前に『あなたみたいなファントムを滅ぼす存在』と自己紹介しているわけで、そこも本来は警戒すべきだ。

「じゃあ。何か、俺は藪蛇したってことか。お前まさか、俺を滅ぼすために俺の家に……」

「それならあなたが灰から再生するまで待ってるわけないでしょ。人をシリアルキラーみたいに言わないでくれる?」

 それもそうか。

やみじゆう騎士団は確かにファントムを滅ぼす存在。でも、今のやみじゆうの主要教派は、ファントムの全てが『悪』でないことは知ってるわ。昔は吸血鬼に限らず、ファントムは即殺してた時代もあったらしいけど」

「勘弁してくれよ」

「とにかく、こっちだって命を賭けて戦わなきゃいけないのよ。もちろん現行犯逮捕しなきゃいけないケースもあるけど、大抵は対象の行動を把握して確実に確保できるタイミングか、最悪処分する結果になっても大きな影響を周囲に与えないよう慎重に行動する必要があるの。だから、何もしていない吸血鬼を攻撃するようなことは、私達はしないわ」

「いきなり人の家のテーブルを使えなくしてくれたことについては、俺はどこに訴え出ればいいんだろうな」

 一応突っ込んでから、とらはふと深刻な顔になる。

「でもそれなら俺が駆けつけたとき、かなり長く戦った後だったのか?」

「え?」

「だって、そこまで慎重に内偵進めて接触したんだろ。でも、俺が駆けつけたとき、大分劣勢に見えたから」

「えっと……その……」

「俺も不意を突かれたから偉そうなことは言えないが、カジロウなんとかってあいつ、そこまで強い吸血鬼じゃなかった。血を選り好みしてたし、日の出のことも考えずにあんな時間に人間操って人を襲わせてるくらいだったからな」

「ま、まぁ、それはいいじゃない。今は関係な……」

「よくない。俺にとっては重要な問題だ」

 自分から振ってきたくせに、なぜか吸血鬼カジロウの話題からは逃げようとするアイリス。

「俺は長いこと、ある吸血鬼を探してるんだ。でも、吸血鬼同士は外から見てもなかなかそうと分からない。あのカジロウって奴が強い吸血鬼なら、その背後を探る必要がある」

「そ、そうなの、ふ、ふーん」

「あの後、奴の灰はどうなったんだ? いや、そもそもそういうタイプの吸血鬼なのか? アイリスが回収したのか? まさか今手元に持ってるとか?」

 テーブルに触れないよう気をつけて身を乗り出すとらから、アイリスは顔をそらした。

「……あの吸血鬼のことは、よく分からないの」

「分からないってどういうことだ。アイリスはずっと奴を追っていたんだろう?」

「私がずっと追ってたわけじゃ……たまたま赴任のタイミングで、担当になっただけで……」

 先ほどまでとは打って変わって、色々とはっきりしなくなるアイリス。

「なぁ、あいつはそんなに強かったのか? お前、どうしてやられちまってたんだ?」

「…………くて」

「え?」

 そして観念したように、だが恥ずかしそうに、蚊の鳴くような声で、白状した。

「……一緒にいた、男の人が……怖くて、足、震えちゃって」

 しばし、二人は固まった。

「それで、動けなくなったところを、つかま……っちゃって……」

 そして。

「はあああああ?」

 とらは心の底からその文字列を吐いた。

「だ、だって、声大きいし、お酒とかタバコの臭いヒドかったし、それに……」

「いや、はああ? お前それ、はあああああ!?」

 吸血鬼カジロウは決して強力な吸血鬼ではなかったが、それは吸血鬼目線での話だ。

 人間が対峙すればまず膂力ではかなわないだろうし、あの血の糸の技から逃げられるとは思えない。

 だがアイリスは超人的な動きであの糸を見切り弾き飛ばし、吸血鬼を追い詰めていたではないか。

 しかも初対面の吸血鬼の灰を集めて再生して、その吸血鬼の家でカツカレーを食べて、あまつさえその吸血鬼を聖なるハンマーで脅した女が『男の人が怖くて』?

「う、うるさいわね! 仕方ないじゃない! 男の人嫌いなの! 怖いの!」

「お前自分がどれだけめちゃくちゃ言ってるか分かってるか?」

 とらはここぞとばかりに先ほどのお返しをする。

「あなたは人じゃなくて吸血鬼だからいいのよ!」

「どういう基準だよ!」

「吸血鬼なら最悪殺せばいいけど、人間はそういうわけにいかないでしょ!」

「お前何分か前に、全てのファントムが悪じゃないとか言ってたよな!?」

 とらは思わず立ち上がる。

「え? じゃあ何だ? お前は操られてた取り巻きの男にビビって、あんな雑魚吸血鬼に苦戦してたってことか!?」

 アイリスは顔を真っ赤にしながらとらを睨むが、反論はできないようだ。

 とらはしばし真っ直ぐその羞恥の涙で潤んだ目を見ていたが、やがて小さく息を吐いてまた腰かける。

 そして、据わった目で問いかけた。

やみじゆう騎士団の修道騎士、だっけ?」

「うるさいわねっ!!!!」

 侮られたアイリスは、膨らました頬から怒気を爆発させた。

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