第一章 吸血鬼は朝帰りできない 4

 最低限の情報だけ伝えて一方的に電話を切ると、とらはようやく女性を振り返った。

 黒ずくめの女性は、まだ血が流れる額を押さえながらも、倒れた小男ととらを何度も見比べていた。

「大丈夫か? 日本語、分かるよな」

 仕方なくそう問いかけると、女性は小さく頷いた。

 異様な黒ずくめの風体と、右手の白銀のハンマー。

 何より彼女が『打った』ことにより灰のようにボロボロと崩れた小男の額。

「お互い、今見たことは忘れよう。もうすぐ警察が来るけど、面倒なら逃げて構わない」

「……」

「一応言っておくが、俺のことは警察に言っても無駄だ。まぁあんたはそういうこと言わない種類の人間だと思うがな。どうしても俺のことを警察に通報したいってんなら、あんたを襲った連中は、人に見られて逃げて行ったってことにしてくれると助かる。あいつらは普通の人達だ。今回のことで言えば、被害者側だ」

 時間が無いので一気にまくし立てたが、女性はやはり真意の読めない表情でとらを見上げているだけだ。

「あー……なんだ。とりあえず、それ、大丈夫か? 今、こんなのしかないが」

 とらが尻のポケットに手をやる仕草を見て、女性は一瞬身を固くするが、とらが取り出したのが財布だったので、意外そうな顔をする。

「その出血じゃ、こんなんじゃ駄目か」

 財布の札入れから出てきたのは、絆創膏だった。

「俺、手荒れしやすくてな。冬はよく手がひび割れるから持ってる……って、そんなことはいい。二枚しかないけど」

 そう言って差し出された安物の絆創膏を、女性はハンマーを持った手でおずおずと受け取った。

「……ありがとう、ございます」

 ようやく落ち着いた状況で、とらは女性の声を聞くことができた。

「いやいいよ。ていうかあれだ。お互い深く関わらない方がよさそうだ。俺はもう帰る。あんたも適当に帰れよ。そろそろ警察来るぞ」

「ま、待ってください! 今、私がその男を殴ったあと、あなたの姿が……」

「こっちが無かったことにしようとしてるんだから、そっちから殴ったとか言うなよ」

 とらは食い気味に大声で返事をして、女性の質問を封じた。

「あんたも徹夜明けで眠いんだろ、夢でも見たんだと思ってくれ。そうじゃなきゃ関取かレスラーに助けられたとでも思ってればいい」

「関取かレスラー……くふっ」

 こらえようとしてこらえきれなかった様子で女性は微かに吹き出した。

「す、すいません」

「いいよ。それじゃあ」

「あ、あのっ」

「まだ何かあるのか」

 とらはちらりとスリムフォンの画面を見る。

 既に予報の時間まで五分を切っている。

「……もしかしたら、またお会いするかもしれません」

「お互い、そんなことが無いことを祈りたいな」

「いずれにせよ、これだけは今、言わせてください」

 このとき初めて、女性はとらをまっすぐに見た。

 それが彼女にとって非常な勇気を必要とする行動であったことは、赤い頬とうるんだ瞳を見れば明らかだった。

「助けてくれて、ありがとう」

 そう言って、女性は手を差し出した。

 最初は気付かなかったが、黒ずくめの服の腰に、革のツールバッグが吊られており、ハンマーは銃とホルスターの如くそこに収まっていた。

「ああ、どういたしまして」

『銀』は、とらの目にも肌にもあまり良いものではない。

 その『武器』を収めてくれて手を差し出してくれただけでも、その意思に応じる価値は十分にあった。

「手、温かいんですね」

「ああ、ん?」

 礼を述べる意味での言葉としては若干ズレている気がするが、とらは思わず彼女を立ち上がらせた右手と、かばった左手を見下ろした。

「じゃあ、きっと心が冷たいんだ。海外じゃどうか知らないが、日本じゃ心の温かい奴は手が冷たいらしいからな」

 そう言って自嘲気味に笑ったそのときだった。 


 東の空から伸ばされた金色の光が、とらの左胸を貫き砕いた。


「マジかよ」

 世界が新しい朝を迎えた瞬間、彼は自分の身に『死』が降りかかる事実をどこか他人事のように受け止めていた。

 雲間を割いて地上に降り注ぐ陽光を、エンジェルラダー、天使の梯子と名付けたのは一体どこのどいつなのだろう。

 天使の梯子は、夜と闇の住人になった自分を天国へ連れてゆくどころか、その足先で踏みつぶし粉々に砕くではないか。

「嘘っ! まだ時間は……!」

 そんな彼の様子を、砕けてゆく本人以上に悲壮な面持ちで見ている女性の顔があった。

 信じ難いものを見た顔。

 この世ならざるものを見た顔。

 もはや、肩から、顔から、陽の光に触れた端から彼の体は細かい粒子となって虚空へと散って行き、それと同時に急激に意識が闇に落ち始めた。

 視界が暗くなり、耳は聞こえなくなり、やがてひび割れた肌は何も感じなくなる。

「くそっ……」

 ああ、このまま自分は死ぬのだ。

 髪の一筋、血の一滴すら残さず死ぬのだ。

 光に砕かれた命の最後の一滴を振り絞り、彼は叫んだ。

「財布の中に……俺の免許と袋が…………に……」

 俺が遺したものを届けてくれ。

 それが声になったかどうかすらも、もう分からなかった。

 最後まで残った爪先に、取り落とした財布が落ちてきた感触を覚えたのが最後だった。

 ただ、不思議と誰かを守って死んだという実感だけは砕けたはずの胸の中に確信として残り、それ故か後悔は無かった。

 やがて朝の雲が晴れ、世界が朝に包まれたその瞬間。世界に命が満ちたのと引き換えに、とらの全身は灰となって砕けた。

 そして、女性の足元に灰がうずたかく積もり、灰の山に隠れるようにして、くすんだ赤色の十字架が鈍い音を立ててアスファルトの地面に跳ね返り、道端の植え込みの陰に消えた。

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