櫛名田比売のなごり

いすみ 静江

八乙女美々華の件

櫛名田比売クシナダヒメのなごりがあるらしいわ。この櫛、本当かしらね」


 八乙女やおとめ美々華みみかは、中学に上がった記念に母の茶羽さわから桐箱に入った櫛を手渡された。

 二人でお夕飯を片付けてお風呂に入ろうとしていた所だ。

 この家には、父親、透真とうまがいない。

 母は、娘に伝えるべきことを切り出す。


「櫛名田比売は、頭も尾も八つに裂けた恐ろしい八岐大蛇ヤマタノオロチ生贄いけにえに差し出されたのよ。でも、素戔嗚尊スサノオノミコトが退治して尾から天叢雲剣あまのむらくものつるぎを得て――」


 美々華は話を聞き流していたつもりだった。

 けれども櫛を触ると、体中に雷が走った。

 長い黒髪が静電気で吸われたように逆立つ。

 この話を聞いたこともないのに、母の話を遮り続きを語る。


「……彼に助けられた上、妻になるのね」


 美々華は、呆然としている風だった。


「あら? よくご存知で。美々華は本を読まないと思っていたから驚いたわ」


「シンデレラストーリーなのかな」


 母は、日本の神話にシンデレラとは違和感を感じたが、優しく首を縦に振った。


「不思議な中学進学祝いをありがとう。お母さん、大好き! 大事にします」


 抱きつく娘の頭を撫でていて、母は思い出した。


「ああ、気を付けて使ってね。髪が乾いたときがいいみたいよ」


 ゾクゾクした美々華は母から離れた。


「何でまたそんな面倒なこと」


「言い伝えだから、伝えることは伝えたわ。これは、私の代々母親に語り継がれている物なの」


 二人で黙り込む。


「形だけでもいいから、受け取ってね」


「分かった。気を付ければ、大丈夫だと思う」


 美々華はじっと薄い茶の櫛を見つめる。

 ふるっと肩で反応すると、ソレが光った気がした。


 ◇◇◇


 美々華は、湯上りにこの櫛を使おうと思った。

 怖いよりもこの見た目。

 とても艶があって、ご自慢の黒髪にもっと艶が出ると思ったからだ。

 バスルームに持って来ていた。


 ――パシャッパシャッ。


「ふう、四十二度はやはり適温ね。……さて、櫛名田比売の件。どうして知らない日本の神話を語れたのだろう?」


 暫く考えていたが、結論が出ないので諦めた。

 いつも湯上りは短い歌で温まってから上がることにしている。

 今日の歌を口ずさんで肩を湯から出した。

 ユニットバスの戸を開ける。


「今はお風呂も一人だわ。お父さんも小三まで生きてくれていた。一緒に入ってくれていたね」


 お父さんのことを考えると、美々華も喉に何かが詰まったようになる。


「泣かないからね」


 ぶつぶつと自分に言い聞かせて、体を拭く。

 髪はよくタオルで乾かした。

 さて、例の櫛名田比売伝説がある櫛で梳こうと、桐箱から手に取る。


「きっと、私にもお父さんみたいな素敵な男友達ができるよ。小学生の頃は男子も幼かっただけ。中学にもなれば、きっとカッコいい筈よね」


 洗面化粧台シャンプードレッサーの前に濡れた烏の自分が目に映る。


「お母さんは、天然の茶髪なんだよね。お父さんに似たのかな?」


 櫛を構える。

 右手で左手を添えながら、すっと当てる。


「綺麗になあれ……」


 毛先の方を梳いた。


「お父さんが美しい黒髪の持ち主だったように……」


 もっと上の方から梳いた。

 手元も鏡も見ていなかった。


「きっと、私は美しくなれる」


 このとき気が付かなかったが、櫛が黒ずんで来ていた。


「美しい黒髪になあれ」


 誰かがノックがした。


「美々華! お風呂が長いけれども、どうしたの?」


 母だったが、美々華は気が付かないようだ。

 構わずに櫛を運ぶ。


「私はもっと美しくなれる……」


「美々華? 開けますよ」


 バスルームの引き戸が開く。


「私は、素戔嗚尊みたいに素敵な男の人に守られたいの」


「み、美々華……!」


 母はあまりのことに言葉にならなかった。


「ああ、お父さんに会いたい」


 櫛で、バリバリ、バリバリと頭全体を梳いて行っている。


「美々華、痒いのかしら。お母さんがするから、櫛を渡してね」


「綺麗な黒髪でしょう? 一緒にお風呂に入ってくれたお父さんも、こんな感じだったよね」


 そのとき、八乙女美々華の髪は抜け落ちて殆どなかった。

 まるで落ち武者のようになってしまっている。


 ◇◇◇


 ――翌日、美々華は母のファッション用のかつらをつけて行った。

 その色は若かりし頃流行ったとされる明るい茶だ。


 これが、中学デビューとなり、悪い生徒や連絡帳を見ていない先生に目を付けられてしまった。


「あーあ……」


 窓際の席で、美々華からはため息ばかりが出た。

 風がふっと入って来て前髪を擽る。

 女の子のシンボル、美しく長い黒髪を失ってしまったのも悲しいが、初日から友人もなく、一人お弁当を広げるのが残念だ。


「あ! おか、お母さんのお弁当が――」


 中一なのにキャラ弁で驚いたのではない。

 美々華の長い黒髪姿が描かれていたから、ほろりとしてしまった。

 母を恨めなかった。



 透明な風になった声が、ありがとうと届いただろうか……。












Fin.

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櫛名田比売のなごり いすみ 静江 @uhi_cna

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