翠雨の呪い

朱藤

第1話

雨の降る朝。折りたたみの青い傘を差して家を出たところで、よく見慣れたピンクの円が鼻先を横切る。それは一年前仲違いした美里だった。みっともなく背をすぼめていそいそと歩く彼女は、本当に、本当に、腹立たしかった。駅に着いてホームに降りる。いつもより一本遅い電車を待つ。彼女は向かいにいて、携帯を覗き込んでいる。私の方を気にしているのは明白で、そわそわと落ち着かないように、何度か視線をよこす。全部無視した。美里も、美里を無視する私も、初めはこんなに醜悪じゃなかった。ただ愚かな子供だっただけ。たぶん、そうだと思う。私が乗る電車が先に来た。彼女から見えるように、でも背を向けて。私の鞄についたぬいぐるみが彼女と目を合わせる位置に、ころん、と動いた。電車が動き出す。美里から離れれば離れるほど、彼女と過ごした中学生の頃の記憶を、思い出してきた。

どうでもいいような話だった。美里と二人、日の暮れる中、教室で話をした。社会の資料集に載っていた、恋愛についてのこと。先生はできれば結婚して、子をもうけて欲しいと言ったけれど、私たちふたりとも、結婚する気はなかった。もちろん、中二病の見栄だとか、もともと根暗な私たちの卑屈さのせいだ。恋をしても眺めるだけ、かなったためしなんてない。ほとんど傷の舐め合い。共依存にも近いものだった気がする。恋愛観だとか偉そうなことを言って、現実から目を背けているだけだった。彼女はいつもどこか投げやりで、私も投げやりなつもりだった。それでも私はなんとなく、勉強だとか部活だとかから逃げきれずに、中途半端に力を注いでいた。自分の的外れなところ、演技力や、歌声だとかに自信を持っていた美里に対して、私は自分の学力や容姿がそれなりだと思っていたし、美里が誇っているものすべて私の方が上と、客観的な意見さえ密かに受け取っていた。彼女のなけなしの自信を全て砕いて、あるいは奪ってやれるほど、私は才能に満ちた人間だと──ほとんど思い込まされているようなものだった。

ある時美里は塾に行き始めた。他の同級生も毎日何人か部活を早退するようになって、私は苛々するばかり。塾へ行って、講師のいいなりで勉強ごっこ繰り広げてるだけなのに、どうして真っ当に勉強したい私は早退が認められないのだろう。慢心からでた不平等意識が膨れ上がった。塾を建前に私が向き合わないといけないものから逃げ続ける美里はもう皆から嫌われていて、私にとっても重荷だった。それでも私たちは離れられなくて、身から出たのは罪だった。故意に、部活へ向かうのを遅らせて、うろうろと歩きまわる。当然追いかけてきた副部長を振り払って、また美里は塾を盾に振りかざして校門の外へ逃げていく。諦めた副部長は私に、

「私は美里ちゃんを責めてるの。あなたは悪くない、あなたのことは責めてないよ」

泣き笑いのような黄色い空の下。それを信じようとも思っていなかった。美里の肩を持つ気にもならなかった。ただ共依存の輪を断ち切りたくて、半ば感情的に、全てのSNSで美里のアカウントをブロックした。他にも趣味が合う友達はいて、彼女らと話すことは心の底から楽しかったけれど、どことなく疎外感がして息は詰まるよう。そんな中で私は恋を得た。まったく滑稽だ。呪縛が解けた途端に私は人前でよく笑うようになった。美里はいつも、惨めな目で私を見る。

一日中美里のことを考えていた。考えすぎて執着もなくなったくらい。気がつくと帰りの電車の中で、もうすぐ最寄りに着く。小雨だった。傘を出すのも面倒でそのまま歩き出す。三つ目の信号を待っているところで、斜め前に朝と同じピンクの傘を見つける。これまで美里と登下校の時間が同じだったことはなかったから、単純に驚いた。雨が強まる。彼女を切り捨てた自分を正当化するように、開き直った私は背筋を伸ばして歩く。びちびちと頰に当たる雨粒はむしろ誇らしい。同じペースで胸を張って歩き続けた。湿った早い足音がして横を見ると、美里はいつのまにか傘を閉じて走り抜けていく。相変わらず曲がった背中を小さく嘲るのが、最高の呪いかもしれない。こうやって私は彼女のことを忘れ、彼女は私に怯えるんだ。傘と鞄を抱えた醜い後ろ姿をもう気にもとめずに鷹揚に歩くのは、本当に気分がよかった。しっとり濡れたぬいぐるみを丁寧に拭いて、毎日欠かさず鞄につけていくことにする。私がこのぬいぐるみを大事にしている限り、美里に呪いがかかり続けるだとか、馬鹿であさましい考えも、許しておいた。

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翠雨の呪い 朱藤 @sutou_shiwasu

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