皐月25日

18

 今まで平気だった筈なのに、たった2日間だけでも寮と工房の往復だけだと息が詰まりそうになって、3日目にして街へ出かけることにした。

 電車に乗ってなんとなくターミナル駅へ向かってしまうのは、1週間ちょっとでついてしまった癖だろう。ひとりでいるのも人混みにいるのも、どちらもしんどい。

 だけど、何もしないというのも無理だった。

 駅の改札を抜けて、歌姫の時計台が視界に入ったときだ。


「あれはまさか」


 前にも似たようなことがあったような気がする。

 少し離れたところに笑顔のイノルさんが立っていた。女性と一緒にいる。しかも前回と違うひとのようだ。


「また連絡するね~」


 イノルさんはにこにことしながら手を振って、彼女? が駅の改札に入っていくのを見送った。

 その姿が見えなくなったところで思いきって近寄る。


「何人、彼女がいるんですか」

「うわっ! マーナちゃん! 本物?」

「偽物のあたしなんて存在しません」


 イノルさんはきょろきょろと辺りを見渡した。


「ちょっと場所を変えようか」


 公園まで歩いて行くと、子どもたちが楽しそうに遊具で遊び回っていた。

 ふたりで隅にあるベンチに腰かける。

 左に座ったイノルさんは、開いた両膝の上に腕を置いて、軽く手を組んだ。


「ニュースで見たかな。今回の件はテロ認定されて、事務所はいったん閉じている状態なんだ。ホクトさんはセンターに泊まり込んでいる。言祝ぎ姫がいつ目覚めるかは、分からないらしい。……目覚めるかどうかも」


 黙って頷く。

 否が応でもニュースで報道されていたし、学校や寮でも話題になっていた。

 インターンが中止となったあたしの存在は、元々そうだったのに、さらに腫れ物に触るような扱いになっていた。


「もし事務所が畳まれたら、ホクトさんはそのままセンターに残るだろうな。僕はどうしよう」

「そんなネガティブなこと、言わないでください」


 イノルさんらしくない気弱さ。相当、落ち込んでいるのだろう。


「新型の爆弾だったから警護でも感知できなかったみたいなんだ。言祝ぎ姫はその破壊力をすべて引き受けてしまった。威力は相当なものだったと、思う」


 つまり言祝ぎ姫が対処してくれなければ全滅だったのだけど。

 それもそれで想像したくないけれど。


「あの……」


 ようやく決意して、尋ねる。


「イノルさんのお姉さん、も」


 ははは、とイノルさんが力なく笑った。


「そうだった。ちゃんと説明をしてこなかったね。湊ヒカリ……姉さんはとても正義感の強い人間だった。快活で、何事にも公平。眩しすぎて、子どもの頃は姉さんが苦手だった」


 イノルさんは内緒だよ、と右人差し指を立ててみせる。それを話す相手が、たとえもういなくても。


「実は僕の父親も言語修復士なんだ。だから姉さんの後を追うように、僕は言語修復大学校に入学した。するといつの間にか尊敬する相手になっていたよ。僕も同じ事務所に入って、一緒に働きたいと思うようになっていた。その矢先だった。姉さんはテロリストに立ち向かった結果、ディクショナリウムの内部破壊によって昏睡状態に陥った。まさに、今の言祝ぎ姫と同じ状態に」


 相づちを打つ代わりに、膝の上に置いた拳を握りしめる。


「回復することなくそのまま……、だった」


 イノルさんが立ちあがって空を見上げる。表情は、見えない。


「それから僕とホクトさんは巨人討伐会を潰すことだけを目標に生きてきたんだ」


 だからあの事務所に、頑なに留まっていたというのか。

 ホクトさんはどれだけ言語療養センターにスカウトされても断って。

 イノルさんは実力があっても、昇級試験を受けずに。


「誰かの特別な存在になるのは、こわい」

「……こわい?」


 するとイノルさんは再びベンチに腰かけて、あたしに目線を合わせてくれた。

 笑っているのに、ひどく寂しそうに見える。


「マーナちゃんになら言ってもいいかな。実は、ホクトさんの恋人は姉さんなんだ。お互いを尊敬して愛し合うふたりが、僕には心底羨ましかった。一方で、知ってしまったんだよ。そんな【愛】でさえ途切れてしまうということを」


 まるで言葉を修復するように、イノルさんは指で宙に【愛】と描く。そしてぎゅっと拳を握りしめた。額に拳を当てて、瞳を閉じる。

 言葉を発さなくても、『だから誰の特別な存在にもならないように生きている』と言っているように聞こえてしまう。

 イノルさんが遠くを見つめる。ニムロドは何に映っているんだろう。

 同じものを見ていても同じようには見えない。

 イノルさんがどんな想いであたしに話してくれたのか、完璧に知ることは、できない。 


「僕は、姉さんの年齢に追いついてしまった」


 言葉に詰まっていると、イノルさんはあたしの方を見て、両肩に手をおいた。少しも笑っていなかった。

 菫色の瞳にあたしの困惑した表情が映っている。


「マーナちゃんは無茶しちゃだめだよ。姉さんのように命を落とすようなことがあっちゃいけない」

「……はい」


 それ以外、何も言うことができなかった。


「今日は会えてうれしかったよ。駅まで送るね」


 立ちあがったのと同じタイミングで端末から着信音が流れる。


『♪』


「ホクトさんかな?」


 イノルさんがディスプレイを宙に立ち上げた。

 きらきらと粒子が線になって、形をつくる。

 映し出されたのは歌姫ルリハの小さなホログラムだった。瑠璃色のウィッグもきちんと被っていると、かえって違和感を抱いてしまう。

 リアルタイムで本人の動きと連動しているらしく、髪の毛が緩やかに揺れている。穏やかな笑みを浮かべていて、とても激情的には見えなかった。


「あっ、エンターテインメント情報の重要通知か。なんだろう」


 掌サイズの歌姫が深々とお辞儀をしてから、口を開いた。


『皆さん、いつも応援してくれてありがとうございます。そんななか心苦しいのですが、わたしは今度の20歳の誕生日コンサートをもって引退を決意しました』

「えっ!」


 イノルさんと顔を見合わせる。


『引退後のことはまだ何も決めていませんが、ひとつだけこの場を借りて言わせてください』


 ふたりで驚いたまま、歌姫の次の言葉を待つ。


『わたしは、愛を奪う世の中には、屈さない』


 ホログラムがさらさらと瞬きながら消える。

 愛。歌姫ルリハの愛、それは……。

 あたしはイノルさんに気づかれないように、強く拳を握りしめた。

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