皐月20日

15


 記入者:青葉マーナ


 普通に生活していたら会う機会なんてない方と対面して、挨拶させていただきました。特級言語修復士の事務所というのは特別なことが多いのだと改めて感じます。



 朝から窓の外では光と音が交互に地上へ降っていた。

 その度にイノルさんが動揺して小さな悲鳴を上げる。


「あっ、また落ちた。もうほんと怖いんだけど。ねっ、マーナちゃん!」

「いえ、慣れてるんで」

「どういうこと? 雷に慣れてるって」

「あたしは北の海側出身なんです。頻繁に雷の落ちる土地で、1年の内で晴れている日はほとんどありませんでした。首都へは言語修復士になる為に必死で勉強して上京してきました。……とにかく、養護施設から出たかったんです」


 養護施設という言葉にイノルさんの表情が曇る。


「友人はいないし、両親の顔も名前も知らないけれど、馬鹿にしてきた奴らを見返してやるっていうモチベーションでこれまで生きてきました」


 だけど、ふたりならおかしな反応にはならないだろうと思って一気にまくし立てた。


「名前もディクショナリウムもあたしにはありませんでした。施設でも名前はつけてもらいましたが、物心ついてから自分でつけ直しました。ディクショナリウムは……」


 三日月のバレッタを外す。きらきら光るあたしだけの宝物。

 ぎゅっと握りしめる。


「当時、全国のさまざまな施設を巡っていた特級言語修復士からいただきました」


 おそらく誰のことか理解したのだろうホクトさんが目を見開く。


「そっか、これまで苦労してきたんだね」


 イノルさんは神妙な面持ちで頷いて懐から何かを取り出した。


「そんなマーナちゃんに、歌姫のコンサートチケットをあげよう。特別に所長の分もつけて」

「今の話、聞いてました? というか、いくら眠ったままだからって自分の上司の扱いがひどくないですか」


 恒例となってきたイノルさんとのやり取りがなんだか楽しい。軽口を返そうとしたときだった。

 不意に何かが動いた気がして窓の方へ顔を向ける。


「……言祝ぎ、姫?」


 そこには、デスクから顔を上げた、金髪碧眼の眠たそうな少女の姿があった。すなわち、言祝ぎ姫。視線がホクトさんとイノルさん、あたしへと移っていく。


「皆さん、おはようございます」


 鈴のように凛とした、よく通る声だ。


「おはようございます、所長」


 すると表情を崩すことなく淡々と言祝ぎ姫が告げる。


戸塚とつかが来訪します」

「うわっ、マジっすか」


 イノルさんが両腕を伸ばして素っ頓狂な声を上げた。


「……誰ですか」


 こっそりイノルさんに尋ねる。


「首相だよ。ニュースかなにかで見たことあるでしょう?」

「えぇっ!」


 ニュースで目にしただけではない。大学校でも習った。

 首相は特級言語修復士のひとりでもある。

 だから言祝ぎ姫は目を覚ましたというのか。

 言祝ぎ姫が無表情のまますっと立ちあがった。歩く度にふわふわ、ひらひらとロリータワンピースの裾レースが揺れる。そして簡易キッチンの脇の棚を開けて、金色が散りばめられた深緑色の筒缶を開けた。


「戸塚用のお茶が切れています。すみませんが、買ってきてくれませんか」

「分かりました」


 ホクトさんが席を立って黒衣を脱ぐ。

 慌てて手を挙げる。


「あたしもついていきます」

「では、イノルはわたしと共に掃除をしましょう」


 言祝ぎ姫の手にはいつの間にか小さな箒が握られていた。はーい、とイノルさんが答える。


 事務所を出ると、雨はまだ降っているものの雷はだいぶ収まっていた。ふたりでそれぞれ傘を差して歩き出す。レインブーツで水溜まりを踏む度にぱしゃぱしゃと音がする。

 雨の匂いが濃い。子どもの頃から慣れ親しんできた匂いに気持ちが落ち着いてくる。

 ホクトさんとの無言の時間にもちょっとずつ慣れてきた。


「なにか訊きたいことがあるんでしょう」


 そして、その小さな声も聴き取れるようになっていた。

 傘越しにホクトさんを見上げると、翡翠色の瞳が優しくあたしを見つめていた。


「理由としては、言祝ぎ姫が目覚めたなら、マーナさんは事務所に残って言祝ぎ姫からいろいろと話を聞きたがるように思うからです。そして、先ほどの特級言語修復士とは月の王のことですね? 聡明なマーナさんのことです。そろそろ勘づいたことがあるのかと」

「あの」


 単刀直入に言うつもりだったのに、いざ話のいとぐちを与えられると、どう尋ねていいのか分からなくなってしまう。必死に言葉を探す。


「ホクトさんはどうして言祝ぎ言語修復事務所で言語修復士として働いているんですか」


 上級言語修復士なら自分の事務所を開業できる。そして、ホクトさんは東日本言語修復センターのセンター長からスカウトもされているという。

 それなのに、たとえ特級言語修復士が所長だとしても、ひとつの事務所に留まる理由。


「なるほど。そう、きましたか」


 信号は赤。横断歩道の前で立ち止まる。

 ホクトさんは雨の降り止まない鈍色の空を見上げた。


「『傷を見ると、どう治るか考えてしまう』」


「……え?」


 信号が赤から青に変わる。でも、ホクトさんは歩き出そうとしない。


「どうしてディクショナリウムが壊れるのか、考えたことはありますか?」

「え?」

「かつて自分は愛する人間を喪いました。心身共に疲弊していたとき、言祝ぎ姫へ今のマーナさんと同じ質問を投げかけたことがあります。するとそんな答えが返ってきました」


 息を呑む。

 愛する人間というのが湊ヒカリさんなのは明らかだった。


「そのとき、考えたんです。自分の傷はどう治るのだろうと。癒えないでほしいと願っている自分がいるのも事実です。傷口から血が流れている間は、傷ついていることを忘れずにいられます。痛みを感じている間は、彼女のことを考えていられます。だからどんなに息苦しくても、自分はこのままでいいと思っています」


 普通の呼吸の仕方は忘れてしまいました、とホクトさんが溜息のように呟く。それから空いている手で長い髪の毛に触れた。


「彼女を喪ったとき、自らの生きる意味は失いました。精神的に己と向き合うことを放棄した結果、物理的に鏡を見ることができなくなりました。伸びた髪はその結果です。勿論、生きていてほしかったというのは自分のわがままです」


 信号機の表示が赤になる。


「人間というのは誰かの幸せを願うとき、すごく勝手な願いをその誰かに押しつけているのです。それは祈りではなくて、呪いなのです」


 呪いという言葉の重たさに、どうしてヒカリさんが亡くなってしまったのか訊くことなんてできなかった。


「すみません、話が逸れてしまいましたね。ただ、言祝ぎ姫の価値観に触れたとき、自分の傷は癒えるのか、癒えないのかを初めて考えました。そして自分と同じような人間を増やしてはいけない、とも思いました。それがあの場所で働いている理由の……ひとつです」


 再びの青信号に、ようやくホクトさんは歩き始めた。



 とんでもない金額のお茶を買って戻ると、ビルの入り口や扉の前に黒いスーツを着たサングラスの大男たちが立っていた。警護官だというのはすぐに分かったけれどあまりの物々しさに驚いてしまう。


「ただいま戻りました」


 事務所の扉を開けると面会用のソファーに大男がどかっと座っていた。

 意志の強そうな太眉と薄茶色の瞳。無造作のように見えてきちんと整えられた焦げ茶色の髪の毛。紺色の地に細い白のストライプのスーツと、緩められた真紅のネクタイ。ぴかぴかで先の尖った革靴。

 ——左頬に一本の大きな傷。

 ホクトさんが淹れたお茶を一口飲んで、首相は満足そうに息を吐き出した。


「おぉ、すまないな。急だったから別に用意しなくてもよかったんだが。やっぱりここの茶は格別だな」


 視線が合って、慌てて会釈する。


「は、初めまして。インターン生の青葉マーナです」

「ああ! そういえばそうだったな、ミス」


 首相の向かいでミスと呼ばれた言祝ぎ姫が頷いた。

 さっきまで眠っていたのが嘘のように、言祝ぎ姫は両手で湯呑みを持ってお茶をすすっている。


「マーナちゃん、こっちこっち。偉いひとの邪魔をしない」


 自分のデスクからイノルさんが手招きする。

 すると首相は笑いながら手を振った。


「いい、いい。ちょうどいい機会だから全員に話を聞いてもらおう」


 促されるまま言祝ぎ姫の後ろに3人でちょこんと立つ。ほんとうに偉いひとというのはオーラというか迫力があって萎縮してしまう。


「5年ぶりに『あいつ』が帰国した」


「……姿は、見ました」


 口を開いたのはホクトさんだ。


「やはり真っ先にここへ来たか」

「いえ、事務所までは入ってはきていません。外に立っていただけです」


 首相が誰の話をしているのかホクトさんの言い方で気づく。

 心臓の鼓動が速くなる。動揺を悟られないように口元を引き締めた。


「月が帰ってきたということは『会』の活動も活発になるということだ。ここにも警備は置かせてもらうが各自気をつけてほしい」

「あの、インターン生に聞かせていい話では」


 イノルさんが心配そうにあたしの方をちらちらと見ながら進言する。

 首相はひらひらと左手を振って、あたしを見つめてきた。


「この子にもいずれ関係してくる話だ。君、ニムロドが大剣に見えるそうだな」

 右側に立っていたホクトさんとイノルさんが弾かれるようにあたしを見る。

「っ、本当ですか、マーナさん」

「どうしてそれを……」


 問いかけて思い出す。そういえばセンター長の質問に答えてしまっていた。おそらく、そこから情報がいったのだろう。


「君にも安全の為には聞かせておかなければならない。この国にはニムロドを破壊しようと企む秘密結社が存在する。名を、『巨人討伐会』という」

「……!」


 その名前は最近耳にしたばかりだった。

 美並ジロウさんに、偽物のディクショナリウムや毒薬を提供した組織……。


「最後に奴らの活動が活発だったのは5年前のことだ。何人かの言語修復士が命を落とした。……湊ヒカリも、そうだったな」


 ホクトさんとイノルさんが視線を床に落とす。


「会は壊滅させた筈だったが、残党の一部が水面下でしぶとくも再生を図っていたようだ。そしてこのタイミングで月の帰国。あいつは五年前、会に協力していた。近いうち、この国で何かが起きるかもしれない」


 ぎり、と首相が歯をくいしばる。もはや少しも笑っていなかった。


「否。起こす訳にはいかない。テロリストの思うようにはさせない。すべては水際で止める」


 血の気がさーっと引いていくようだった。

 月の王が、巨人討伐会に、ヒカリさんの命を奪った組織に、協力している?


「あの……」


 これだけは質問しなければならないと思って、あたしは手を挙げる。


「ニムロドが破壊されたら、どうなるんですか」


 世界の象徴が破壊されることなんて決してないだろうけれど、もし、そんなことが起きたら。


「この世界の言葉は崩壊して、再び世界は混沌に陥る」


 断言すると、お茶を飲み干して首相が立ちあがる。


「美味かった。取り急ぎ、護衛はひとり置いておく」


 言祝ぎ姫が頭を下げた。立ちあがって見送ろうとするのを、首相が制する。


「大丈夫だ。お互い、健闘を祈る」


 首相に続いて警護官たちも退出する。

 慌てて外に出て、階段を下りていく首相に向かって大声で尋ねた。


「どうして大剣に見えると一学生が関係者になるんですか!」


 首相が振り返ってあたしを見上げてきた。

 薄茶色の双眸に射貫かれて動けなくなる。


「あまり大声で言わない方がいい。巨人討伐会への参加資格は、ニムロドが巨人に見えることだ。そして」


 再び昇ってきてくれて距離が近づく。威圧感に息が苦しくなる。


「あれが武器に見える者は特別な力を持っていて、会の脅威となるので狙われる。湊ヒカリもそうだった。……回答はこれで満足か?」


 答えられない状態を肯定だと受け取ったようで首相は踵を返す。


「インターン、がんばってくれたまえ。未来の言語修復士くん」


 背中を見つめることしか、できなかった。

 事務所に戻ると、まだ起きていた言祝ぎ姫が湯呑みをテーブルに置いて立ちあがった。


「改めまして、所長の言祝ぎです。インターン、ご苦労さまです」

「あの……」


 口を開こうとしたとき、真っ青な顔でイノルさんが勢いよくあたしの両腕を掴んだ。


「マーナちゃん、本当なのか。ニムロドが」


 手に込められた力が強くて、ほんの少し、痛い。


「……はい。尋ねられたことも自分から言ったこともほとんどありませんが、あたしにはあれが巨大な剣に見えます」

「知って、いたんですね?」


 ホクトさんが問いかけた先は言祝ぎ姫だった。


「だから特例でインターンを」


 許可したんですか。質問は、言葉にならなかった。

 あたしの頭のなかはまだ混乱している。きっとホクトさんと、イノルさんも。

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