皐月17日
11
記入者:青葉マーナ
休日を挟んで、インターン再開です。
案件解決の
*
*
*
結局イノルさんと再び顔を合わせたのは、翌々日、お昼ご飯を食べ終わって片づけようとしているときだった。
ばーん!
「わかったよ!」
勢いよく事務所の扉を開けてイノルさんが入ってくる。
「お、おかえりなさい」
なかなか大きな音だったのに言祝ぎ姫はぴくりとも動かない。
イノルさんが大きく両手を広げる。
「ただいま、マーナちゃん。僕がいなくてさびしかったでしょう」
「いや特に」
「強がらなくてもいいんだよ。午後は一緒に出かけようね。ということで報告です」
3人でローテーブルを囲む。
イノルさんが女性の画像を表示する。白髪で、赤い眼鏡をかけた穏やかそうな老齢の女性だ。
「じゃじゃーん。このひと、
「判ったんですか……、すごい」
「それはもうがんばったんだよ。半年分くらいの仕事をこなした気分だね」
ホクトさんが口を小さく開いた。
「それで、この女性は今どこに?」
「あー……。実はそれが問題なんです」
ぽりぽりと、イノルさんが頬を掻いた。
*
イノルさんのスポーツカーはふたり乗りなので、駅前で少しくすんだ白いレンタカーを借りて隣町へ向かうことになった。小一時間ほど走ると、塀に囲まれた巨大な施設が見えてくる。塀が途切れたところには植え込みでつくられた『東日本言語療養センター』という見事な看板。
「ここって、もしかして」
「そう。東日本最大の後期言語療養施設があるところ」
運転席からイノルさんが声をかけてくれる。
助手席のホクトさんがイノルさんへ視線を向ける。ふたりともきちんと黒衣を羽織っていた。
「あ、大丈夫です、ホクトさん。訪問許可は貰ってあります」
ホクトさんが小さく頷く。
「関係者以外は事前申請しないと入れないんだ。その申請に手間取っちゃって時間がかかっちゃったんだけどね」
そしてあたしに説明してくれた。
入り口で窓を開けると、イノルさんは端末から訪問許可証を表示して警備員へ提示する。そしてレンタカーは敷地内へと入って行く。標識に従って、スポーツカーの荒々しい運転からは想像もつかない安全運転で奥へ奥へと進む。
「ここは言語修復士関連の施設の集合体なんだ。協会本部もここの奥にある。マーナちゃんは初めてかな?」
「入学したばかりの頃に研修で来たことがあります」
「あぁ、懐かしい。そういうのもあったね」
レンタカーはかなり奥の方の広い駐車場で駐まった。他のクルマは片手で数えられるほどしかない。
降りると、前方にはひときわ白くて背の高い建物があった。すべての窓にカーテンがしっかりとかかっている。
イノルさんが建物を見上げた。
「ここは言語修復特別療養棟。ディクショナリウムに異常の起きた方たちがここで治療を受けているんだ……」
中央玄関を入るとすぐに受付があって、小窓が開いた。大学校の寮みたいな構造だ。
「言祝ぎ言語修復事務所の湊イノルです。浅日スズヨさんの面会に来ました」
受付のタブレット端末に人差し指で名前を書いて、そのままエレベーターに乗る。イノルさんが操作盤に受付で貰っていたカードキーを差しこむと、5階以上のボタンが表示された。
押されたボタンによると、どうやらあたしたちが向かっているのは5階らしい。
ホクトさんが喋らないのは元からだけど、施設に入ってからイノルさんも口数が少ないし、表情が硬くなっている。普段だったらうるさいくらいにここがどんなところか説明してくれそうなのに。
だから、ただ黙ってふたりの背中に続くしかなかった。
エレベーターの扉が開く。……空気がさらに静かなものに変わる。照明はついているけれどどこか仄暗く、うっすらと塩素の匂いがした。
経験のない環境に呼吸をすることすら緊張する。
そして、廊下の両端には等間隔で扉がついているのに、イノルさんとホクトさんは迷うことなくまっすぐ突き当たりの部屋を目指す。
ノックはせずにカードキーで扉を開けると、奥の壁一面が窓になっている日当たりのいい空間が広がっていた。
部屋の真ん中には大きなベッドがあってひとりの老齢女性が眠っている。
「浅日スズヨさん。ディクショナリウムの内部破壊による昏睡と思われていたけれど、実際は、ディクショナリウムが偽物と取り替えられていたという訳」
スズヨさんの枕元には櫛が置かれていた。
恐る恐る近づいて、まじまじと眺める。サラサさんが持ってきたものと全く同じデザインで、たしかに傍目から見たらこれが偽物だとは誰も思わないだろう。だけど、言語修復士なら気づけないのだろうか。
ホクトさんが偽物を手に取り、いろんな角度から観察する。
「巧妙な偽物ですね。あの箱と一緒……」
わずかに表情が険しくなっている。さらに口を開こうとしたときだった。扉が開いて、あまり背の高くない、黒衣の中年男性が入ってきた。
「待たせてすまない。久しぶりだな!」
男性は大きな歩幅で近づいてきて、しゃがれた声で挨拶した。ぽっちゃりとしていて、少ない髪の毛をワックスでしっかりと固めている。ぱっと見、狸みたいだな、と思った。銀縁の丸眼鏡をかけた瞳は優しそうに笑っていた。目尻には笑い皺が深く刻まれている。
パンジーのバッジは金、つまり上級言語修復士だ。
「お久しぶりです」
ホクトさんとイノルさんが頭を下げる。つられてあたしも挨拶してみた。
「この子は?」
「インターン生の青葉さんです」
「そういえば言祝ぎがインターンを特例で受け入れたって言ってたな。なるほど、君のことか」
「は、はい」
姿勢を正す。
「時代は変わったものだ。どうも初めまして。当センター長の金澤だ」
「……僕たちが言語修復大学校にいた頃の校長だよ」
小さな声でイノルさんが補足してくれる。狸は狸でも、偉い狸だ。
「瀬谷。本物の櫛は持ってきてくれたのか?」
黙ってホクトさんが小箱を差し出す。
センター長は櫛と小箱を受け取ると、角度を変えながら眺めて溜息を吐き出す。
「ふむふむ。たしかに、いろいろな事象が巧妙に隠されている。こんなもの、一般の言語修復士ではお手上げだろう」
「後のことはお任せします」
「勿論だ。この施設には最先端の設備が揃っている。必ずや彼女とディクショナリウムの接続を正常に回復させよう」
ホクトさんがまた頭を下げた。
「箱に関しても預かっておくから、心配は要らないぞ」
「ありがとうございます」
「早速言語修復を行うが、瀬谷も手伝うだろう?」
ホクトさんがちらっとあたしたちを見る。イノルさんは右手をひらひらと振った。
「大丈夫ですよ、ホクトさん。もうひとつの目的を果たしてきます」
*
建物の外に出る。
5階を見上げて、思わず溜息をついた。
「スズヨさんの意識、早く回復するといいですね」
「心配要らないさ。ここには優秀な言語修復士が揃っているから」
声のトーンが少し低かったので、なんだか違和感を覚えてイノルさんをじっと見つめる。するとあたしの視線に気づいたのか、イノルさんはぷるぷると首を横に振った。
「きっと、ホクトさんもまたスカウトされるだろうし」
「また?」
「センター長はホクトさんに、センターのスタッフになってほしいと思っているんだ。本人は頑なに拒んでいるし、僕もまだまだホクトさんにはいてほしいんだけどね」
ふぅ、とイノルさんも溜息をつく。これがホクトさんの言っていた、変化を恐れているということだろうか。
しばらく歩く内にいつもの軽妙さを取り戻したイノルさんは、右腕を別の建物へ向けた。
「さてさて、あれがもうひとつの目的。『後期言語療養施設』でゴザイマス!」
特別療養棟とは違い、横に長い2階建ての白い建物が目の前にあった。
さっきと同じように受付をして中に入る。
「加齢によってディクショナリウムの力が弱くなった方たちのリハビリ施設。街中にもたくさんあるけれど、ここがいちばん手厚いサービスを受けられるところなんだ。その分、お金はかかるけどね」
中庭へと出る。いつの間にか太陽は隠れて、空は分厚い雲に覆われていた。
ねずみ色の着物を着た白髪の男性が車いすに乗って、そんな空をぼんやりと見上げている。
「美並ジロウさんですか」
男性は呼ばれたことに気づいたようでこちらへ顔をゆっくりと向けてくる。
「美並、って」
イノルさんに向けて思わず呟く。
見せてもらった画像より少し痩せこけた、老人斑のある顔がそこにあった。
イノルさんが車いすの前まですたすたと歩いて行くと男性を見下ろす。
「言語修復士の湊イノルといいます。あなたのお孫さん、サラサさんから依頼を受けてやって来ました。どうして、どうやって……浅日スズヨさんの櫛を持ち出したんですか?」
どうやって、の語気は強めだった。
美並さんはやはりぼんやりと焦点の合わない顔でイノルさんを見上げた。言われた意味を理解しているのかどうか、あたしには判らなかった。
口を開かずにくるりと背を向ける美並さん。
これは、ぼけている、ということだろうか?
その背中に向かってイノルさんは叫んだ。
「あなたのしたことは犯罪です! 明るみになれば警察だって動くでしょう。そうなる前になんとかしてほしいと、あなたのご家族から相談があったんですよ?」
すると、美並さんは背を向けたまま答えた。
「あいつらは儂を心配しているんじゃない」
一瞬前までとは打って変わってはっきりとした口調だった。
「……え?」
「己の社会的地位や金のことしか考えていないあんな金の亡者どもに儂の気持ちは分からないだろう。いや、分かってたまるものか」
表情もきりりとしていて、とても施設に入っている人間には見えなかった。
「ここじゃ話はできん。ついてこい」
*
案内されたのは美並さんの個室だった。とても豪華で、あたしの寮の個室より広いし、物も多い。なんだか、住む世界が違う。
扉の前にイノルさんとあたしは立つ。なんとなく緊張して背筋をぴんと伸ばした。
美並さんが苦虫を噛み潰したような表情で語り出す。
「儂の資産をあいつらが虎視眈々と狙っているのは知っている。しかし儂の金は奴らにびた一文と渡してたまるものか。ぼけたふりをしてここへ来たが、あいつらは厄介払いできたと喜んで訪問することもないから気づかないだろう。儂はまだまだぴんぴんしている。誰にも邪魔されないここで密かに計画を立てているのだ」
つまり、ぼんやりとしていたのは演技だったということか。
「あの……」
困ったようにイノルさんが口を開くが美並さんは止まらない。
「ここには誰も儂を疎む輩がいない。金さえあれば真摯に対応してくれる。ありがたい話だ。善も悪も、金の前に立てばすべからく等しいものとなる」
美並さんが自らのディスプレイを宙に映す。ルーレットのように数字がまわる。
「しかし、部屋の金庫を勝手に荒らされることを想像していなかったのは儂の手落ちだ。あいつらがそこまで地に堕ちていたとはな。さて、幾ら渡せば、お前たちの口止め料となる?」
美並さんの口元がにやりと歪む。
まわる数字は口止め料の金額ということなんだろうか。
なんだか、お腹の奥が、むかむかしてきた。
このひとの居丈高さに?
ちっとも慈善事業家っぽくないことに?
違う。
思い出したのは、眠っている浅日スズヨさん。
櫛に詰まった【さびしい】という感情の冷たさ。知らない女性の声。
あれは、もしかして。
「この件に関しては決して外部に漏れさせる訳にはいかないからな。幾らでも出そう。金なら、狙われるほどたんまりあるぞ」
「そんなこと……」
「できません!」
思わず声を大きくしてしまった。
「言語修復士は、すべての事象において公正の立場でなければいけません。あたしは言語修復大学校でそうやって学んできています!」
「なんだ? 小娘が」
「あなたには質問に答える義務があります。どうして、どうして……浅日スズヨさんに、【さびしい】想いを抱かせてきたんですか?」
イノルさんが驚いた表情であたしを見る。
美並さんの瞳もまた見開かれて、宙に浮いたディスプレイが消える。浅日スズヨさんの名前に反応したのは明らかだった。
「あたしは彼女の【さびしい】に触れました。あれは、あなたに対してで」
「義務などない。帰れ! 帰れ帰れ!」
*
外に出てもなお感情が収まらなくて言葉にしてしまう。
「なんなんですか、あのひと! 信じられない。……って、イノルさん?」
隣でイノルさんは笑いをかみ殺していた。
「すごく立派な
「馬鹿にしないでくださいよ」
「いやいや、尊敬するって意味だよ? 少なくとも学生の頃の僕にはそんなこと言えなかったな。それにしても、こっち側から真相を究明するのは難しそうだ」
「浅日スズヨさんに櫛を返して、依頼完了でいいじゃないですか。あんなひと、関わっても百害あって一利なしですよ」
「マーナちゃん、怒りすぎ」
ぽんぽん、とイノルさんがあたしの頭を撫でてきた。
「自分で言ったじゃん。どうして【さびしい】想いを抱かせたのか、答える義務があるって」
「あ」
立ち止まって俯く。
だって突然繋がってしまったのだ。尋ねなければいけないと、思ってしまったのだ。
「ふつうの言語修復事務所なら、無事に櫛を返しました、はい完了です、で終わるだろうね。だけど僕たちは言祝ぎ言語修復事務所の一員なんだ」
「……はい」
「僕は、僕たちは美並さんがどうやって小箱と櫛を入手したのか知らなければならない」
時折見せるイノルさんの真剣な眼差しに息を呑むしかなかった。苛立ちは、いつの間にか収まっていた。
あんなに分厚かった雲も、いつの間にか消え去っていた。
言語修復特別療養棟へと戻ると入り口でホクトさんが待ってくれていた。
イノルさんが小さく両手を挙げて、ぺろっと舌を出す。
「限りなくクロですが黙秘権を行使されちゃいました。浅日スズヨさんの容態はどうですか?」
「無事に目を覚ましました。まだ話を聞く状態ではないので、明日もう一度ここへくることに決めました」
イノルさんが軽く手を叩く。
「おぉ」
「最新の工房はすごいですね。これなら解決できない案件はなくなるでしょう」
ホクトさんは後ろを振り返り、建物を見上げた。
「気が変わりました?」
それは言祝ぎ言語修復事務所を辞めて療養センターへ行くのか? という問いかけのようだった。あたしは唾を飲みこむ。
ホクトさんはイノルさんに顔を向けて微笑んだ。
「まさか」
違う。ホクトさんは笑っているようで笑っていない。
「……『目的』は、ここにはないですから」
イノルさんが大きく頷く。立ち入れない、ふたりだけの文脈。
だけどホクトさんはあたしの瞳に視線を合わせてくれた。
「今日はマーナさんがいてくれて助かりました。自分たちだけでは、ここへ来ることができなかったでしょうから」
「そうですね、うん。ありがと、マーナちゃん」
「えっ?」
意味は分からないけれどふたりが感謝してくれているのは明らかで、恥ずかしくて視線を逸らしてしまうのだった。
いつかその意味を知ることはできるんだろうか。あたしはこのふたりについて、もっと知りたいと思うようになっていた。
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