フラれた理由を知るまで


 青白い光が遠のいて行く。海の底へ向かって沈んでいる。浮遊感が心地良い。息苦しさは地上へ置いてきた。隣の彼が優しく抱き寄せる。それだけで救われた。これから真っ暗な夢の世界へ行き着いても、隣に彼がいれば問題ない。そう信じている。そう信じたい。光は蛍のような微弱なものになり、ふとした瞬間に蚊と勘違いされて叩き潰された。




 上体を起こすと、そこは見慣れない場所であった。眼前には大きなテレビに大きなベッド、オシャレな内装をしており、隣には上裸の男性。驚いて身構える。しかし、彼の顔を見てようやく思い出した――昨日、処女を散らしたことを。


 最初は怖がっていたが、実際どうってこともなかった。喪失感とか、痛みだとか、汚された感じとか、何もない。ただ、事実が残っているだけ。


 頭が重くなる。昨日、お酒を飲み過ぎたせいだ。やけ酒なんてするんじゃなかった。


 私は都合のいい人間なんだな、と一つため息を零す。幼馴染の彼――瑞樹は私の失恋心傷を狙って距離を詰めて来たのだ。柄にもなくやけ酒した私には冷静さの欠片もなく、流されに流された。結果、この有り様だ。


 もう、どうにでもなってしまえ、と心の内で言い放って倒れた。多分、もう地上には帰れない。


***


 授業が早く終わり、サークルの部室を訪れた。中には三田がいた。私の好きな人だ。


「あ、お疲れ様です」


 私は軽く頭を下げる。彼は正面にある座椅子にもたれ掛かり、体を伸ばしていた。


「お疲れ様」


 何となく気まずい空気が流れる。正直なところ、彼がここにいることは何となく分かっていた。


 彼はいつものように絵を描いていた。その横顔を盗み見ようと特等席へ足を伸ばしたが、良心が痛んだ。一応、今の彼氏は瑞樹で、私は三田のことを諦めないといけない立場にある。それなのに、三田の魅力を楽しんでどうする。第三者からすればただの浮気者ではないか。


 渋々右端の、三田から向かって桂馬の進む、微妙な位置に座った。それなのに、雰囲気だけでも楽しもうと考えている自分がいた。


 お互い無言のまま、部屋にはかさかさと芯と紙が擦れる音が響く。頻繁に消しゴムへ持ち替えていることを考察するなら、きっと三田も気まずい思いをしている。この空気感は、初夜を超えた先で味わいたかった。


 どうして三田は私のことを振ったのだろうか。あの時、理由の一つくらい聞いておけば良かった。とは言っても、振られてそれどころではなかったので、仕方ないことではある。


「私さ、瑞樹と付き合うことになったんだ」


「本人から聞いたよ」


「でもさ、その……私は別に瑞樹のことが好きという訳じゃなくて」


 言い訳がましいのは分かっている。それでも、私が軽い女だと思われたくないし、三田が好きなことに変わりはないと伝えたかった。知って欲しかった。どう足掻いても負け犬の遠吠えになるとしても。


 そんな意識から、余計なことをペラペラと喋り出しそうだ。既に手遅れな気もするが。


「そうなんだ。確かに幼馴染だしね」


「そう、だからというか、うん。変な話しちゃったごめんね」


 言いたいことが伝わったかと心配になる。でも、これ以上は何も言えない。一応、私は瑞樹と付き合っているのだから。


 気まずい空気が漂う。


***


 何度目かの夜が明けた。瑞樹は幸せそうな顔で眠っている。対して私は、物足りなさがあった。それは性的な意味でもあるが、それとは違う何か別のものを欲していた。それが何かを考えていると、朝方になっていたわけだ。


 一限からあるというのに何故こんな時間まで起きているのか。何もかもが嫌になってしまう。


 授業休もうかな、とも考えたが、今日は三田くんと会える日なので選択肢から除外した。今寝たら起きれなさそうだし、授業中に寝ればいいやと思い、そのまま起きて行くことにした。


 こんな不健康な生活を強いる瑞樹に怒りを覚えた。自分の授業は午後からだからといって、これは酷い。どこかのタイミングで別れを切り出さないと、そのまま堕落してしまいそうだ。


 目覚ましにシャワーを浴び、準備をして登校する。一二限を終え、昼休み、部室へ行った。もちろん、そこには三田がいた。


「あ、お疲れ様です」


「お疲れ様」


「ベクシュッ!」


 三田は豪快なくしゃみをした。


「す、すみません」


「い、いえ、大丈夫だよ」


 ポケットティッシュで鼻をかみ、ふぅ、と一息つく。


「朝からこんな調子で。本当にすみません」


 そう言いながら鼻紙をゴミ箱へ捨てた。ゴミ箱はいっぱいになっており、鼻紙は顔を出す形となる。私は何故か鼻紙を目で追っていた。


「鼻炎の薬でも買ってきたら?」


 私の脳裏にとてつもない衝動が走った。ここから三田を追い出し、あの鼻紙を……。


「それもそうですね。行ってきます」


 思惑通り、彼は部室を出て行った。その瞬間に私はゴミ箱へ飛びつく。そして、目で追った三田の鼻紙を手に取る。これには三田の鼻水、言い換えれば体液が付いている。それを体へ取り入れることで、物足りなさを補えるのではないかと考えた。


 好きな人の鼻水はどんな味がするのだろうか。丸められたティッシュを開くと、ねっとりと伸びる液体がそこにあった。


 舐めてみる。味は何ともない。ネチョネチョしていて、少ししょっぱいような気がする、程度のもの。しかし、興奮してくる。満たされていく。背徳感がじわじわと溢れ出し、もう一度舐める。幸福感で我を忘れ、ティッシュごと口に詰め込んだ。


 次は、と思い付いたことを実行しようと、上の方に置いてあるティッシュを手に取り、開く。そして、ベルトを緩め、ズボンを軽く下ろす。鼻紙を持った手を入れ――


「あはは財布忘れちゃった」


 タイミングよく戻ってきた三田と目が合った。興奮していた私はそうして冷静になる。自分がやっていることの気持ち悪さを自覚して誤魔化そうと手を出し、ティッシュを捨て、ベルトを締める。


「あ、いや、その……生理、だからさ」


 口にはティッシュがあり、上手く喋れない。吐き出すのも汚いし、もう逃げようがなかった。


「ごめん。やっぱり、そういうところが無理」


 三田は逃げるように部室から出て行った。

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