悪戯
「トリックオアトリート〜!」
テンションの高い兄は僕が被っている布団を剥がし、大声で叫ぶ。無理に起こされて僕は不機嫌になった。
「朝からなんなんだよ。騒がしいなぁ」
「今日はハロウィンだぜ! ほら、トリックオアトリート!」
「お菓子なんてないよ」
僕は気怠げに答える。
「そっかぁ、じゃあ、後から悪戯してやる。覚悟しておいてね〜」
「はい、はい」
適当に返事をして、兄を部屋から追い出した。
最近兄に彼女ができたらしく、怖いほどテンションが高い。まぁ、兄に恋人ができるのは時間の問題だったことは高校入学時から知っていた。
ハロウィンだと浮かれている兄の後に続いて学校へ向かう。兄は鼻歌を歌いながらスキップしている。子供じゃないんだし、ここまであからさまに喜ばなくてもいいのにと思う。
教室に入って友達に挨拶をする。それから隣の席にいる高原さんに挨拶を――できるはずもなく、いつものように席に着いた。
僕が彼女と接していいはずがない。僕と彼女は、物理的な距離こそ隣の席というとても近い関係だが、住んでいる場所はまるで違う。それに、彼女はクラスのマドンナだ。僕なんかに相手する理由もない。
遠くから眺めているだけでいいのだ。それだけで僕が満足すればいいのだ。この席になって話しかけられた時も期待はしなかった。
高原さんの周りには女子が集まって楽しそうに会話をしている。たまに見える笑顔がここ最近、いつもにも増して美しく見える。こう、体から幸せが溢れてくるような魅力的な笑顔になったのだ。
恋する女子は可愛く見える。誰かがそんなことを言っていた。しかし、僕はその程度で落ち込んだりはしなかった。だって、その恋が実る確証はないし、相手が誰かもわからないなら落ち込むこともない。
彼女たちの会話に聞き耳を立てていると、放課後にあるハロウィンパーティーの話をしていた。体育館で仮装したり、舞台でのダンスやバンド演奏、漫才などを見て楽しむのだ。
「真紀って、ハロパでダンスするんだよね! どんな格好して踊るの?」
真紀とは高原さんのことである。
「悪魔の格好するけど……ちょっと恥ずかしいな」
高原さんの悪魔姿を想像しただけで幸せだ。でも、それだけで満足できない自分もいた。眼福を味わいたいという強欲な感情が放課後の予定を決めた。
***
放課後になり、体育館へ向かった。仮装した人たちが思い思いに騒いでいる。とある集団の真ん中には兄がいた。
どうして僕はこんなにも兄と違うのだろう。兄は今年の体育祭を盛り上げ、生徒を引っ張り、体育祭を成功へと導いた実行委員の1人だ。
それに比べて僕は、兄ほど活発なタイプではない。むしろ、控えめで無口なタイプだ。兄のようになりたいと思っても、無理なものは無理だった。
唯一の救いは僕の方が勉強できるということだ。大して嬉しいことではないが。
「お、裕太! 来てくれるって信じてたぞ。あれだ、舞台でおまえに悪戯してやるから」
「えっ、舞台で……?」
想定外の場所で悪戯される。このハロウィンパーティーは強制参加じゃないから逃げようと思った。しかし、高原さんのダンスも捨てがたい。
「まぁ安心しろ。おまえに直接悪戯するわけじゃない。間接的に悪戯するから」
「どういうことだよ」
「とにかく、おまえ以外の人は俺がおまえに悪戯したなんてわからないってこと。じゃあ舞台でな」
口早に説明して人混みの中へ消えて行った。悪戯の内容がイマイチ想像できないが、高原さんのダンスを思えば不安は霧散した。
演目がどんどん進む。体育館の中にお菓子の甘い匂いが充満し、そこにいるだけでお腹が空く。ずっと立っていることもあり、疲れてきた。派手な演出にいちいち声を出すのも疲れてきた頃、高原さんが舞台に出てきた。
その小悪魔は壇上で可憐に舞う。僕の心を奪い、呼吸することすらも忘却させる魔法をかける。幸せだった。
彼女に見惚れてながら快楽に浸っていると、脇から誰かが出てきた。同じく悪魔の格好をしている。さっき見た人だ。
お願いだ! これ以上見るな!
まだ間に合う! 確信したくない!
いくら自分に言い聞かせようとしても探究心には勝てない。目は高原さんと踊る男子生徒の顔へ。
なんとなくわかっていた。高原さんが僕に兄弟の話を持ちかけた時に予感していた。
その加わった男子生徒は高原さんと手を繋ぎ、共に舞踏を始める。
絶望が垣間見え、嘔気に襲われ、今にも倒れそうだ。こんなにも容易く彼女に触れるなんて……。
会場からは歓声と拍手が上がる。歓声の中には「お似合いカップル!」という声。
派手でもなければ地味でもない、優雅で高貴で高雅な音楽が2人の背景を作る。蒼く生い茂る草原で、2人を祝福するように輝く太陽、靡く心地良い風、まるで世界は2人だけのもの。微笑む2人は幸福を体で表している。軽やかなステップは、僕が見ていて気持ちのいいものではない。むしろ、憎悪やら嫌悪といったマイナスの感情が湧き出て抑えられない。
兄は僕にさえ見せたことのないような満面の笑みを高原さんに向け、高原さんは僕に向けられることのない愛おしげな表情を兄へと向けている。
悪戯なんて可愛い言葉で済ませないほど、心を引き裂く行為。立っていることもままならないほどの目眩がする。こんな苦しい思いをするなら、いっそのこと死んでしまいたいくらいだ。
踊りは進み、そろそろクライマックスを迎えるだろう。2人の雰囲気は徐々に精密で付け入る隙もないほど精巧なものになりつつあった。それを止めることのできないもどかしさに首を絞めつけられる。
鼻水と涙が入り混じり、かろうじて息をする口に入っていく。その液体よりも、舞台を見ている方が苦くて、渋くて、到底食べられるものではない。なので、それより混合液の方がよっぽど美味しく感じるほどに、感覚が狂っていた。
発狂しようにも声が出なかった。声を無理に出そうとしたならば、内臓までもが外に出て、僕が僕でいられなくなるような気がする。
踊りがクライマックスに差し掛かる。歓声はすっかり無くなり、みんな2人の舞踏に齧りついていた。幻想的な世界がそこにあり、僕たちはそれを眺める読者。だから、僕たちは彼女たちに触れることはできないし、触れることを許されない。
愛し合う2人の舞踏が止まると、会場から大きな拍手が上がる。それは、体育館が揺れていると錯覚させるほどのものであった。
幕という壁が僕と2人の間を塞ぎ、完全に隔絶された空間になろうとした時、僕は見てしまった。目を逸らせばいいだけだったのに。どうして見たのかと深く後悔した。覆水盆に返らず。零した水を元に戻そうと必死に地を毟る感覚。焦燥感が最高潮になった。いや、焦燥感を通り越して完全なる絶望の淵に突き落とされた。
兄は高原さんの体を抱き寄せ、顎を軽く持ち上げる。僕は絶望に苛まれる。
見つめ合う2人の視線は、会場の誰もが息を飲むような情熱的で真摯なものであった。それ故に、興奮して叫ぶ者はいなかった。
愛を確かめ合う。愛を形にする。愛を愛する。
僕の兄と高原真紀はキスをした。
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