死神
人は死ぬべき時が訪れると、その人のもとに死神が現れる。
そんな話を思い出しながら、目の前にいる少女に目をやった。
「だーかーら、私、死神なの」
セーラー服に身を包んだ少女は復唱する。
改めてその言葉を聞いてもしっくりこない容姿である。それ以前に、彼女が僕を殺す瞬間を想像できない。それくらいに美しく整った顔立ちをしている。長くて綺麗な黒髪は窓から入ってくる風でなびく。本当に死神なのか疑っているのだ。
たしかに、僕はいつ死んでもおかしくない状態にあり、死神が現れても納得できる。しかし、彼女は一向に僕を殺そうとしない。
「君はどうして僕を殺さないの?」
「一応、今日はお見舞いということできてるから」
そう言って彼女は僕の隣にある椅子に腰掛けた。
事故のせいで記憶は曖昧だが、2020年の夏、歩きスマホしている僕は赤信号に気づかずに横断歩道に出た。その後は覚えていない。気がつけば病室にいた。
憂鬱だった僕は気分を紛らわすため、スマホに没頭し、現実から目を背けていた。しかし、正直なところ、今となってはくだらない理由で死んでしまったことに後悔はなかった。
「痛いところとかない?」
「うん。大丈夫」
怪我の心配するなんて、おかしな死神だ。
「ねぇ、どうして歩きスマホなんてしていたの?」
「それは……嫌なことがあったから。現実から目を背けたかったんだ」
憂鬱だった理由にも繋がるが、僕は事故の直前に失恋をしていた。何年間も想い続けた女子が告白されている場面を目撃してしまったのだ。
その二人は周囲からお似合いだとか付き合っているのではないかと噂されていた。でも、彼女には好きな人がいるというだけで、そのお似合いの相手が好きである決定的な証拠はなかった。それだけが、唯一の救いだったのに、その場面を目撃した瞬間、見えている景色が暗転した。
「……なんかごめんね。辛いこと思い出させちゃったみたいで」
「いやいや。いいんだよ。何があったにせよ、勝手に勘違いしてた僕が悪いんだ」
彼女と仲良く話したり、一緒に帰ったりしていた。それを思い出そうとすると胸が痛み、記憶が霞む。そのせいで、好きな人の顔も思い出せない。僕の頭が無価値である証拠だ。
初めての失恋は想像を絶する辛さで、今すぐにでも死んでしまいたい気分であった。胸が裂け、虚無感だけが僕を支配する。最悪だった。
一番辛いことは、僕にはどうすることもできないことであった。時間を止めることができないように、二人の恋を邪魔することはできない。
直前の嫌な記憶だけが鮮明に残っているのも、死神のせいなのだろうか。
「実は私、好きな人がいるんだ。彼は怖がりで、運動もできなくて、よくからかわれてた。でもね、いつだって私のことを一番に考えてくれていて、辛い時は話も聞いてくれて。付き合ってもいないのに、彼氏みたいだった」
「そうなんだ……」
死神にも好きな人がいるのか。そして、その好きな人の特徴に覚えがあった。
「最後に一つだけ、質問してもいい?」
彼女は目線を落として言った。
「いいよ」
「あなたは好きな人がいる?」
「いる」
「どんな人だった?」
「それは……」
思い出せないのではない。本当は思い出したくなかっただけ。全てを忘れ、何もなかったことにしたかっただけ。彼女のことを思い出したら、辛い感情まで思い出しそうで怖かっただけなのだ。
「たしか……。黒くて長い髪に……綺麗に整った顔立ちで……手は小さいのに力強くて……」
思い出していくたびにどこか引っかかるところがあった。彼女の手に触れたこともないのに、どうして彼女の手の感触を知っているのか。目の前の少女を凝視する。
「もしかして……」
「どうかした?」
ぼやけていた好きな人の顔が徐々に鮮明になり、目の前にいる少女の輪郭と重なった。完全に思い出した。僕の目の前にいる自称死神こそ、僕が好きだった女子である。
「君だよ。僕が好きな人は」
もうすぐ死ぬのだから、これが最後のチャンスだ。フラれる不安も、今となっては意味がない。
「……本当に?」
彼女は驚いた表情を浮かべる。
「間違いない。でも、おかしいよね。君は死神だし、僕とは初対面であるはずなのにね」
「実は私、死神じゃないんだ。でも、もうすぐ私は死んじゃう。だから、最後に自分の気持ちを伝えたくて……」
頬を赤らめ、こちらを真っ直ぐに見つめる。その目には一切濁りがなく、透き通っていた。
「私……ずっと前からあなたのことが好きでした」
熱がこちらにも伝わり、顔が熱くなっていく。動揺してるのがすぐにわかるほど唇が震え、心音が部屋に響きそうなほど心臓がバクバクしている。
「両想いだったのね……。もっと早く知りたかったな……」
彼女はそう言って僕の手に指を絡め、一気に距離を詰めた。そして、動揺して震える唇にそっと唇を重ねた。柔らかくて、暖かくて、優しい。震えは収まり、体が軽くなった。そして、名残惜しそうに唇が離れる。
「これからは私のことを忘れて、しっかり前を向いて生きてね。死神さん」
最後の言葉であの事故の真相を思い出した。
僕は信号無視した後、車に轢かれそうになった。その瞬間、僕の背中を押す手があった。そのおかげで僕は軽傷で済んだのだ。
おそらく、僕の背中を押したのは彼女だ。そして、彼女は……。
「こんなことして『忘れて』って、魂抜き取るのと変わらないんじゃない?」
「あはは、そうだよね。ごめん」
お互いに涙を堪えて笑った。
「こっちこそごめん。それから……ありがとう」
僕は彼女の手を強く握りしめ、後悔した。先入観や他人の意見に惑わされ、勝手な想像で物事を決めつけていた。
漸次、少女の体は薄くなっていき、触れることすらもできなくなる。言いたいことがたくさんありすぎて、むしろ言葉が詰まった。
「好きだよ」
僕の涙声はちゃんと届いたらしく、彼女は微笑んで、完全に見えなくなった。
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