あの日の桜
確か、高校の正門から出て左へ曲がり、途中にあるラーメン屋のところで右に曲がる。しばらく直進したらあの日見た桜の木があるはずだ。
それでいくらか歩いたが、あの日見た光景と重なる場所になかなか辿り着かない。やはり、あの時は緊張しすぎていて時間感覚がズレていたのだろうか。
15分近く歩いてようやく記憶を疑い始めた。そして、よくよく考えたらこんな道を通った覚えはなかった。
曲がる角を間違えたのだろうか。それとも、もう一回曲がる必要があったのか。なんせ、五年も前のことだ。イマイチ思い出せないのも仕方のないことだ。かといって帰ろうにも帰れない。
だいたい、こんな感傷的になったのは彼女が急に別れを切り出すからであって、その理由は全く分からない。未練タラタラでやり切れない感情を沈めようと考え、思い出の場所に行こうと思った。しかし、それすらも叶わない。
「何がいけなかったんだろうな……」
考えても思い当たる節はない。でも、日に日に彼女の機嫌が悪くなったというか、表情が暗くなっていったというか、様子が変だったことは確かだ。
涙が溢れてきたので、俯いて右手で頭を掻いた。そりゃあ長年付き合っていたから悲しいに決まっている。そのまま結婚できると思えるほど順風満帆だった。勘違いとは恐ろしいものだ。
通りかかった家の庭で男性がユーカリを伐採していた。
***
紙吹雪が舞う喧騒の中、校門へ急ぐ。想像以上に部活の後輩と話してしまい、約束の時間ギリギリだ。
「ごめん、待った?」
「大丈夫。じゃあ行こっか」
案内されるがまま校門を出てすぐ左へ曲がった。鼓動が激しく鳴っているのは全速力で走ったためばかりではない。付き合って三ヶ月も経つのに、まともに手を繋いだことすらないからだろう。その上、今日は彼女の方から行きたいところがあると言ってきたのだ。
緊張は緊張を呼び、理性は崩壊寸前。風景なんてまるで見えていない。意識は向くべき場所を見失い、最終的には彼女に辿り着く。
電柱にぶつかりそうになったり、何もないところで転びそうになったりと、明らかに動揺していた。
「それにしても、もう卒業だよ。なんか実感湧かないよ」
「そ、そうだな」
恋人なのに彼女との間が十センチも空いているのがもどかしい。高校を卒業して自由になれたからといって、勇気が溢れてくるわけではない。そう、僕は彼女の手を繋げないまま、無心で彼女に付いて歩いていた。
手を繋ぐこともできなければ会話を繋ぐことができなかった。やっとの思いで出した話題もほんの二往復もしないうちに力尽きる。そりゃあ「風が強くて寒いね」なんて言っても「そうだね」としか答えようがない。
不甲斐ないと思いながらも懸命に話題を探した。焦りと不安が込み上げて来る。
「あのそば屋の角を曲がったらすぐそこにあるよ」
「あ、あぁ……」
「どうしたの?」
俯いてそわそわしすぎた。このままじゃ駄目だ。虚勢を張って誤魔化そうと彼女に笑顔を見せた。
「い、いや、なんでもない」
「もしかして緊張してる?」
図星で返す言葉もなかった。改めて俯いて頭を掻く。空いている左手が優しく包まれた。
砂漠に滴る水。真っ白な世界。紅潮する頬。氷上の炎。
「別に緊張しなくて大丈夫だよ。ただ、一緒に見たいものがあるだけだから」
恥ずかしくておかしくなりそうだ。僕は迷子になった子供のように手を引かれる。彼女の指すそば屋を右に曲がりすぐにそれは見えた。
薄ピンク色の雪が視界いっぱいに舞って青空に溶けていく。手を伸ばせば腕が薄ピンクになりそうなほど数多くの色たちが降り注ぎ、まるで僕たちの卒業を祝福しているように見える。河川の堤防に咲き並ぶ桜だ。桜の木は左右に並び、枝がアーチを作っている。桜の世界に訪れたような気分になった。
僕はその迫力と魅力によって、本格的に言葉を失う。
「どう? 綺麗でしょ?」
僕は首を縦に振った。
「よかった! それなら来年も来よう。無理なら三年後でもいいから。ね?」
首を縦に振る。空いた口が塞がらない。
きっと今日のことは死ぬまで忘れないだろう。十年後だって鮮明に覚え続けているだろう。こんなにも幻想的な光景、忘れろという方が無理である。
僕は彼女の手をしっかりと握り、真摯な目を彼女に向け、契りを結んだ――
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