8月32日


 8/32 8:32


 なんの違和感もなく目を覚ました。1の次は2であることは当たり前で、その規則を適用すると31の次は32である。だからと言って59の次は60ではなく0だ。そんな当たり前が機能していないことが当たり前になっているのだから、8月32日という日付に違和感がないわけだ。


 簡単に言えば夏休みの延長であり、存在し得ないものが存在する日であり、虚構の世界である。


「俊介、そろそろ起きなさい」


 部屋のドアを叩く音。


「はーい」


 俊介はそう言いながらベッドから起き上がって一つ欠伸をした。寝ぼけ眼を擦り、カーテンから漏れる陽光を頼りに眼鏡を探す。しかし、眼鏡なんてあるはずがなかった。そもそも、眼鏡を必要とするほど視力が悪いわけでもなく、部屋の様相はしっかりと認識できた。


「とりあえず準備するか」


 カーテンを開くと眩しい太陽に永遠を感じた。同じように、好きな人にも永遠を感じる。それは距離的な意味であり、崇拝的な意味でもあり、在り方としてもそうだ。


 9:01


 進むことが当たり前であるとも限らない。朝食を食べ終え、学校へ向かおうとすると、母親に呼び止められる。


「あんた、制服に着替え忘れてるよ」


「あぁ、そうだった。大学と勘違いした」


 母親は首を傾げる。


 俊介は急いで着替え、外へ出る。海のような空に薄く浮かぶ月。人工的な印象を受ける太陽、好きな人の声が遠くに聞こえる。


「俊介ー!」


 亜美の声。遠い、けど近い。


「おはよう。ぼーっとしてどうかしたの?」


「いや、何でもないよ。ただ、亜美が遠くにいて聞こえにくかっただけだよ」


「え? 亜美はここにいるよ」


「そうだね、気のせいかも」


「それよりも算数……じゃなかった。数学の宿題やってきた?」


 算数なんて単語、数年ぶりに聞いた。中学に入ってから数学と言い間違えた時が最後だった気がする。しかし、俊介に自信はない。ただ、この歩いている道が懐かしかった。


 噛み噛み合わない話がいくらか続き、幸せな時間は8分32秒で終わった。学校の門前へ着いたのだ。


 学校を見上げると後悔が襲い来る。屋上に人影が見えたと思えばボヤけて消えた。自殺を彷彿させる。トマトが弾ける。自殺の続きの連想だ。いや、妙な既視感がある。好きな人を失った時の喪失感。好きな人を見放した罪悪感。墓に埋めるには鮮明すぎる。


 熱く燃える太陽も灰色の雲に阻まれ呑まれていく。周りに蜘蛛の影が現れ、恐怖を覚える。


「な、何これ……」


 俊介は怯える亜美の手を掴もうと、空を切った。まるで雲を掴むような感覚。そこにあるはずの亜美の手が、俊介の手を無視し、垂れて来た蜘蛛が二人を分断する。


「亜美っ!」


 亜美は俊介のことを忘れて涙を流し、叫び、地面が溶けて蜘蛛になり呑まれていく。溺れていく。俊介はその様子を眺めることしかできない。


 本当に亜美が好きだったのか。亜美のことが好きな理由の一つも思い浮かばない。画鋲で差し止めたような夏の終わり。何も進んじゃいないし、止まってもいない。亜美は永遠に想像の中の人であり、届かない存在であり、忘れることは許されず、燃えている。灰色の思い出。僕ごとそこに連れていってほしかった。でも、それを拒んだのは他の誰でもない自分なのだ。


 9/1 2:29


 目を閉じるとすぐ傍に好きな人がいるような錯覚に陥る。汗を拭い、時計を確認する。息を大きく吐き出し安心する。でも、その安心は何の解決にもならない。抜け落ちた色を拾えないように。降った雨をすくえないように。


 夏の終わりは許してくれない。

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