どこかの珈琲恋愛

Re:over

朽ちた恋


 いつだって始まりは唐突で、無意識の中でコップへ水を注いでいたかのように、急な出来事であった。溢れんばかりの「好き」という感情が現れたのだ。それから半年経ち、私はその場面を目撃する。


 無知でいたかった。でも、無残にも事実を突きつけられる。過去の出来事の辻褄が合っていく。これを踏まえて証明完了と言わないのは、ただの夢見る愚か者だ。


 ちょっとした期待だって、初めは火薬の一粒に過ぎない。しかし、塵も積もれば山となる。そうして何かの拍子で爆発する。爆発は花火のように美しくて、一瞬だ。爆発の後には燃え切った火薬の匂いだけが残る。


 虚無感は心を食い散らかして穴を開ける。切なさは首を締めて食事を困難にさせる。悲しさは気持ちを黒く染めて感情を塗り潰す。後悔は脳内を支配して全身の機能を停止させる。


 自分が自分でいられなくなる。自分に対して辟易してしまう。いや、正確には自分の運命に。その辺に投棄できるものでもない。生まれた時から貼り付いている。それが運命というもの。


 でも……。でも、私は抗おうと、抗えると、思ってしまった。前進に犠牲は付き物。進歩に伴う退化は宿命。もしもこの法則が崩れているのならば、ここは既に理想郷のはずだ。


 後悔は反省。そうはいっても、答えは分からないまま。いずれ分かるなんて悠長なことも言ってられない。それ以前に、答えは毎秒変わり続けている。そんな際限なき世界でどうやって答えを探し出せばいいのか。夏休みの宿題とは違うのだ。


 誰かが喜べば、誰かが悲しむ。今の世界は均衡が保たれている。誰かが生まれれば誰かが死ぬし、誰かが幸せになれば誰かが不幸になる。そんなのは嫌だ。でも、私と違って私の好きな人は幸せだから、間違いない。幸せかどうかは、彼の表情で分かる。


 それでも、諦めるなんて無理。必死にしがみついているが、私の体力が持つのも時間の問題である。首の皮一枚繋がっていても辛いだけだ。もう、いっそのこと自ら断ち切った方が楽になれる。


 同じ報われない恋ならば、「両想いだけど家の関係で恋を阻まれる」方がよかった。両想いになる「確率」があるとするのならば、私は「確率削り」なのだ。私を踏み台にして、周囲は両想いになる。


 実は確率を信用したくなかった。だから、必死に自分がダメな理由を考えた。そうすると、恐ろしいほどたくさんあることに気がついた。修正しようとしてできるほどの数でもない。まず、このことで絶望した。


 「恋をすると綺麗になる」と聞いた。科学的にも証明されている。それ以前に、好きな人に好かれたい一心で自分磨きに励むだろう。私に勝ち目など最初からなかったのかもしれない。


 確かに、前々からかっこいいなとは思っていた。彼が恋をした、あるいは恋が実ったから余計に魅力的になったのかもしれない。


 絶望は見えている。苦しいのは見えている。抑えられない気持ちをどうすればいいのだろうか。私は……どうすることもできない。手放すことに怯えて立ち止まる。


 変わらない風景と気持ち。私は世界に置いていかれた。寂しさに吹かれ、錆びてしまいそう。心の底から世界を恨んだ。


 私の好きな人は、赤らめた顔で華奢な少女の手を握っていた。




 翼を折り畳んだのは傷つくことを恐れて飛ぶことを諦めたから。暗い瞳は未来に光がないから。緩むことのない口元は絶望しているから。


 でも、手は愛を綴っていた。貧弱な言葉を並べて紙を汚して。世界を変えようと必死だった。震えが文字を乱しても、言葉が尽きても、書き続けた。伝える勇気なんてないから叫ぶだけ。負け犬の遠吠えってやつがノートを埋め尽くすだけだ。




 拝啓 愛しのあなたへ


 気がつけば視界にあなたがいて、恥ずかしくなって急いで目を逸らすの。あなたが歩けば私の目も一緒になって動いて、なんだか不思議な気分。それに、あなたが私以外の異性と話しているのを見ると苦しくて、吐きたくて、話し相手がものすごく憎い存在になる。


 あなたのことで知らないことがあれば無知の自分を呪ったし、私だけが知る秘密があればどれだけ有頂天になれたと思う?


 あなたの素直なところや気遣いのできるところ、整った容姿に透き通るような声、眩しいほど輝く笑顔、困難にも覚悟と勇気を持って立ち向かう姿勢とその真摯な瞳。どこを見ても国宝より美しい。


 この世の唯一神にも思えるほど完璧で、非の打ち所がない。犬も歩けば棒に当たるというが、その犬はきっとあなたのことを考えていたに違いない。馬が念仏に興味がなくとも、あなたの話を始めたら忽ち目を見開いて興味を示すはず。


 残念なことに、あなたの良さは誰もが知っている。私はあなたを嫌いになろうと、あなたの穢れを探したけど、逆効果だった。あなたはどこまでも純粋で、余計に煩悩が増殖した。


 もういっそのこと、想いを打ち明けようと何度思ったことか。打ち明けられたならどれだけ楽だったか。生き地獄にいるような気もした。なのに、あなたを見るたびに何故か救われた気持ちになれた。


 そして、今までの負の感情を全部洗い落とされて、世界が変わるのだ。自分の中で革命が起こり、夢から覚めたような――おそらく、この世界が夢なのだろうが――爽やかで心地よい快感に襲われる。もちろん、その別の世界に居られる時間は限られていて、元の世界に戻ればあの世界が恋しくなる。あなたは麻薬だ。見ただけで影響を及ぼすタチの悪い麻薬だ。


 私を餌付けして飼い慣らすつもりなのだろうか。いや、おそらくそんなつもりは一切なくて、無意識でやっていることだろう。あなたは罪深き罪人。思わせぶりな言動で私の心を揺らし、麻薬のような中毒性で魅了する。その上、私への興味は皆無ときた。許せるわけがない。


 あなたのような人がいたら世界が滅亡する。だから、どうにかしなければならない。手遅れになってしまう前に。一番悪いのはあなたに自由があるからで、自分勝手に動いて誤解をばら撒いていることが大きな原因なのだろう。


 束縛、監禁、骨折、刺突、殺人、爆破……。どれも意味を持たない。しかし、一つだけ方法はある。


 この手紙を君に渡せるといいな。渡せた時はお世辞でもいいから、棒読みでもいいから、褒めてほしいの。違う、そんなことは後からでもいいね。それに、物事には順序ってものがあるから……初めにあなたに頼みたいことがあるの。


 ――私のモノになってよ




 溢れるままに愛を綴れば、渡せないほどに汚い気持ちまでも出てきたので、書いたページはすぐに破り捨てた。それでも足りない。告白しなければ昇華できない気持ちがあり、それがなくならない限り、私は苦しみ続ける。だから、私は自殺するつもりで告白した。




***




 別に、近づきたいとは思っていなかった。嘘じゃない。『となりのクラスのあいつ』でよかった。……嘘だ。何も知らないままがよかった。


 いつの日か貰ったビターチョコの味を今でも覚えている。手と手が触れた時だって気付いていないフリをしただけ。本当は気付いていた。気付いてほしかった。


 友達の友達って言葉がよく似合うと思う。あだ名を知っているだけで、本名は一切知らない。その上、喋ったのも両手で数えられるほど。そういう関係だった。


「そういうのいいよね。可愛い」


 そんな世俗的な一言が、私自身に言われている気がした。勘違いも甚だしい。身につけていた赤色のヘアピンに対して可愛いと言っているに決まっている。それでも私は、あいつのことが好きになってしまった。


 あいつはいつも私の教室で弁当を食べるものだから、昼休みは楽しみだった。月曜二限の移動教室の時、高確率ですれ違った。もちろん挨拶はしない。


「この本、めちゃくちゃ好きなんだ!」


 友達との会話を偶然耳にした。その瞬間から、私もその本が好きになった。そして、彼に認められたいという気持ちで拙い文章を綴り始めた。


 私はあいつを見るだけで幸せになれた。幸せの理由なんていらない。勝手に満たされているだけで十分だった。


 だから、卒業式もあいつが背景に映り込んでいるくらいがいいと思っていた。あいつの進学先も知る気はなかった。そうすれば、淡い初恋として思い出に刻まれ、何もなかったかのようにいられると思ったからだ。


 そう信じていた。


 それなのに、隣の女性に嫉妬したせいで苦しくなって、勝手に傷ついて。ほんと馬鹿だよね……。


 赤色のヘアピンを取り、その辺に落とした。そしてベッドの中に潜った。


 私は失恋したのだ。


 ベッドで眠れない夜を過ごし、朝には涙で溺れて、昼過ぎにようやく立ち上がった。カップ麺にお湯を入れ、三分もしないうちに食べ始める。冷えたコーヒーを片手に熱いラーメンを口に運ぶ。今は食事の相性さえどうでもよく感じる。




 恋は、愛は、枯れ果てて、コーヒーの苦さを忘れる。ミルクの甘さが恋しく、ふと思い出すのはあの人の肌。冷たくも温かく、無限の可能性を孕んでいた。私の手は空を切り、力無く地におちる。空のカップ麺がお箸に引っ張られて倒れているように、私の心も君に奪われていた。そのバランスが崩れた今、世界は常識を放り投げ、私を殺す。


 恋って何。愛って何。


 原稿やプリントで散乱した机に広がる私の日常。本棚には未読の本と、あの人が愛していた本が並んでいる。実質、あの人の写真が飾られていた。でも、もう意味はない。意味を持たせることもできそうにない。歯磨き粉のミントだって不快なものの一つになった。


 生きて、生きて……。


 肉のないミートソースをダンボールにかけるってことなのかもしれない。炊飯器の中に眠るご飯たちがそう呟く。新聞紙だって濡れてふやけて破れた。紙コップがひとりでに落ちて私を嘲笑う。その残響がとても耳には毒で、思わず息を止める。それでも毒は私の心を蝕む。私は腐ったジャムが乗った焦げパン。


 落ちる。堕ちた。


 あの人からもらったお菓子の包装紙だって飾っていた。今では単なる塵でしかない。燃えるべきもの、燃やしたいものである。それなのに、どうしても塵として見ることができない。私は最低だ。忘れただなんて嘘だ。もう会えないなんて無理だ。でも、この気持ちはとっくに干からびている。次の潤いを求めている。


 そんな自分の首に手を当ててみたり。


 事実を反芻するよりも、幻想を追いかけたい。暑いからクーラーをつけ、寒くなるから布団を被るみたいなことができるほど、私は器用ではなかった。うどんとラーメンの違いを知らないほどに無知でいたかった。吐き出すのはそばつゆ。食べるのはパスタ。


 お腹が空いた。


 食事だって喉を通らなかったのに、想いの言葉は呑み込めた。強がらずに呑み込み続ければよかった。そんなことを考えたって何も始まらないし、むしろ終わったのだ。心に銃身を突きつけられていたのはあの人を好きになった時からで、とうとう撃たれたのだ。


 心に穴が空いた。


 ゲームのようにAかBで決めることができるのならば、二分の一なのに、人生はそこまで上手くはいかない。気楽に決めたとして、私に用意された電気回路は同じ場所へ繋がっているので、何の変化もない。


 運命は非情。選択肢は選ばされるもの。


 私は……弱い。だからずっと立ち止まり、怒りをぶつける先もないから一人で憔悴するしかない。せめて、今ここに、あの人がいたら――そんなことがあれば、私はすぐにでも逃げ去るだろう。地獄へでも。


 生きていたって何もできない。


 五時半の鐘が鳴り、改めて実感する。


 ――きのう、失恋したのだ

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