舟が出る
小坂広夢
一回目
冷たい春の冷気が、夜の闇に染み渡る。昼頃まで降っていた雨は止んだが、空にはまだどす黒い雲がちぎれちぎれに浮かんでいる。雨に濡れた木々が風に揺れるたび、若葉を濡らす雨露が地面に滴り落ちていく。
川辺にほど近い所にあるこの場所は、雨が降ると淡い霧が立ち込める。湿った土と若葉の萌える青い香りが、その霧に乗ってこの場所を包み込んでいた。
暗闇の霧中から、一つ二つ、小さな明かりが灯った。ゆらゆらと不安げに揺れるその明かりは、この場所にある一番背の高い木の前で止まった。そこにいたのは、制服に身を包んだ高校生の男女だった。
背の高い少年と、長い黒髪の少女。少女は小さな青色のバックを背負っていて、二人とも真っ白い大きなマスクをつけていた。少年は背の高い木に寄り掛かりながら息を整えると、額に滲んだ汗を拭った。
「もうマスク取っても大丈夫だよ」
少年は少女に向かってそう言うと、おもむろにマスクを外した。少女は驚いた様子で少年を見つめていた。そんな少女を横目に、少年は大袈裟に両手を広げて深呼吸をした。冷たい冷気が肺に染みてくるようで心地良かった。
「あー、空気が美味しい」
少年がわざとらしくそう言うと、少女も恐る恐るマスクを取り、少年にならって大きく息を吸い込んでみた。
「…本当だ、美味しい」
「でしょ?久しぶりだよね」
二人は顔を見合わせて笑った。外したマスクを制服のポケットにしまいながら、少女は背の高い木を見上げて言った。
「ここに来るのも久しぶりだね」
「うん、中学の卒業式以来かな」
「私はあの後も来てたけどね」
「そうなの?」
「うん、だから君と一緒に来るのは久しぶり」
「初めて一緒に来たのは、小学生の頃だっけ?」
「その前にも来てるよ、私達。この木にあだ名つけたじゃん」
「あだ名なんてつけったっけ?」
「つけたよ、忘れちゃったの?」
そう言うと少女は、背中に背負っていたバックからライトブルーのレジャーシートを取り出した。それを一番背の高い木の前に広げると、ゆっくりと腰を下ろした。そして隣をポンポンと叩き、少年を促す。
レジャーシートは思いの外小さく、体を密着させなければ体がはみ出してしまう。それでも少年は、服が濡れるのも構わず、少女から体を離して腰を下ろした。
「なにやってんの?」
少女は訝しげに少年に言う。
「いや、くっついちゃうじゃん、体」
「別によくない?」
「よくないよ」
「お尻、濡れちゃうでしょ」
「平気だよ」
少年がそう強がると、業を煮やしたのか、少女が少年の左腕を強引に引き寄せた。ピタリと二人の肩が密着する。
「これでよし」
少女は満足そうにそう言って笑った。しかし少年の心は落ち着かない。久しぶりに触れる少女の体は柔らかく、温かい体温まで伝わってくる。中学の時までは同じくらいの身長だったのに、いつの間にか少女の背を遥かに追い抜いてしまった自分と比べると、少女の体がとても華奢に見えた。霧と共に漂う湿った土と若葉の萌える青い香り、そして少女の艶やかな長い黒髪からほのかに香る石鹸の匂いが混じり合い、少年の鼻腔を刺激する。
少年の動悸はみるみる早まり、激しい血液の循環で頬が熱くなってきた。顔が赤くなっているだろうけど、これだけ周りが暗ければ気づかれることはない。少年はそう思った。あとは、この早鐘をつく自らの鼓動を少女に悟られないよう、平静を装うだけである。
しかし、幸か不幸か少女の関心は別の所にあった。
「ほっぺた、どうしたの?」
「え?」
「赤くなってる」
いつの間にか、どす黒い雲の切れ間から月が顔を覗かせていた。月明かりが二人の周囲をぼんやりと照らしている。赤面しているのを少女に気づかれたと思い、少年は慌てて自らの頬に触れた。すると、左頬に鈍い痛みが走った。心なしか、少し腫れているような気もした。
「唇もちょっと切れてるみたい」
少年の顔を覗き込み、少女は心配そうな声をあげた。
「平気だよ」
小一時間前に起きた出来事を思い返しながら、少年は頬をさすった。この場所に来るのに必死で、今の今までそのことをすっかり忘れていた。それと同時に、じんじんと頬が痛みだした。
「わかった」
少女はそう言って、ニヤリとイタズラな笑みを浮かべた。
「あの子に叩かれたんでしょ?この前告られたって言ってた子」
「え?」
「仲良くしないとダメだよ?同じ舟に乗るんだから。これからずっと一緒にいるんだからさ」
そう言うと少女は朗らかに笑った。その瞬間、冷たい風が二人のそばを通り抜け、木々の葉を揺らした。そこから滴り落ちた雨露が、二人の頭上に降り注ぐ。少女はそれに少し驚いた様子で身を固くした。少年は右手で少女の頭を撫でるようにその雨露を払った。
先ほど引き寄せられた少年の左腕は、少女の両腕にきつく絡まったままだった。
「…ありがと」
「違うよ」
「え?」
「あの子とはなんにもない。前に話したでしょ?」
「本当に?」
「本当に」
「でも君って、流されやすいから」
「それは否定しないけど」
「じゃあその傷、どうしたの?」
「…別になんでも」
ボー
遠くから、舟の汽笛が聞こえる。少年の耳にはまるで大きな怪物が唸り声を上げているように聞こえて、何度聞いても好きになれない音だった。その汽笛が聞こえた時、少年の左腕を掴む手に力が込められたのを感じた。少女は俯いたまま、少年の左腕にしがみつくように身を寄せた。少女がどんな表情をしているのか、少年からは見えなかった。
「一回目、だね」
呟くように、少女は言った。
「三回鳴ったら舟に戻らないと。舟が出ちゃうからね」
まるで自分自身に言い聞かせるように、少女はまた呟いた。少女がどんな表情をしているのか、少年はひどく気にかかったが、その顔を覗き込めば少女が嫌がるのは分かりきっていた。代わりに少年は、雨露を払うフリをして、少女の頭を撫でた。
ちぎれた雲の隙間に、ぽつりぽつりと星が輝いていた。
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