幕間2

後継

 現在(いま)ではもう顔も思い出すことはできないけれど。

 わたしには昔、お姉ちゃんが居た。

 現在ではもう、面影すらも残ってはいないけれど。


 その事実だけは、忘れること無く覚えている。


 仕事に家事に忙しい両親に代わって、お姉ちゃんはわたしの面倒をよく見てくれた。よく、悪いことをしてはこっぴどく叱られた。たまに良いことをすると、とても優しく褒めてくれた。そんなお姉ちゃんのことが、わたしは大好きだった。


 なのに現在では、お姉ちゃんの名前さえ覚えていない。


 二人だけで、遠出をすることがあった。お父さん達には無断の外出。わたしは初めて目にする世界に始終ドキドキしていたけど、お姉ちゃんはどこか懐かしそうに眺めていた。


 お姉ちゃんは前にも来たことあるの? わたしがそう尋ねると。


「ううん、見たことは無いよ。けどね。どうしてか、こうしてると落ち着くんだ」


 お姉ちゃんは笑って言った。青く澄み切った空のような、清々しい笑顔だったと記憶している。


 お姉ちゃんは強い人だった。

 わたしが近所の悪ガキ共に虐められていると、すぐに助けに来てくれた。

 お姉ちゃんに敵う子供は居なかった。

 だからお姉ちゃんは、わたしにとってのヒーローだ。


 そうだった、はずなのに。


 お姉ちゃんは時たま、人が変わったようになることがあった。知らない誰かのような顔をして、わたしの名前を訊いて来るのだ。

 わたしが名乗ると、ハッとしたような表情になって。それから先は、いつものお姉ちゃんだった。


 そんなことが、何回かあった。


 ある日、お姉ちゃんがいつものようにわたしを連れ出した。

 どこに行くのかと思ったら裏山だった。

 何をするのかと思ったら、いきなり背中を突き飛ばされた。わたしは、崖から転がり落ちた。


 痛いなんてものじゃなかった。けど、わたしよりもお姉ちゃんの方が泣いていた。突き飛ばした方が痛いなんて変なの。わたしが文句を言うと、お姉ちゃんはますます泣きじゃくった。ゴメンね、ゴメンね。何度も何度も、繰り返しそう言われた。


 今にして思えば。お姉ちゃんはその時、わたしを殺すつもりだったのだろう。けれど、突き飛ばしてから後悔したんだ。


 それから何日か、わたしは入院した。


 お姉ちゃんが居なくなった。


 わたしが入院してすぐ、失踪したのだという。家出したとも、神隠しに遭ったとも言われた。真相は謎のままだった。何しろ、当の本人が見つからないのだから。


 お父さんお母さんは必死で捜し回った。勿論、わたしだって捜した。何日も、何日も。当てもなく彷徨っている内に、わたしはあの裏山に迷い込んでいた。


 深い霧の中で、お姉ちゃんの姿を見たような気がした。


「正直に言うわ。アタシね、アンタが憎かった。この世界に来たのだって、元々はアンタを殺すためだった。……けど、アンタ達親子を見ている内に、何だか馬鹿馬鹿しくなっちゃってね。

 アンタを殺したところで、アタシに還る場所ができる訳でもないしね。ただの復讐なんて、それこそアタシの柄じゃない」


 不思議だった。あんなに大好きだったお姉ちゃんのことを、だんだん思い出せなくなっていた。それはお父さん達も同じなのか、遂には話題にも上らなくなり。やがてわたし達は、彼女を捜すのを止めた。


 多分、妹が産まれた所為もあるのだろう。


「なら、この世界でこうしてアンタ達とお気楽に暮らすのも良いんじゃないか、とも思えて来た。危うく、目的を見失いかけていた。けど、それじゃダメなんだ。

 やっぱり、アタシはここに居ちゃいけない存在なんだよ。戻らなくちゃ。どんなに辛くても、苦しくても。アタシ独りしか居なくなっても、それでもやっぱり、アタシは戻りたいんだ。

 だって。アタシの思い出はあそこにしか無いから。たとえ世界が跡形も無く消し飛んだとしたって、それは何も変わりはしない。だからね……ミサキ」


 わたしは現在、お姉ちゃんのことをほとんど覚えていない。

 けど、お姉ちゃんの遺した最期の言葉は覚えている。


 ばらばらになった身体。決して焦点の合うことの無い双眼で、それでもわたしを見つめて。彼女はこう言ったのだ。


「世界名・裏京都五式鬼録。

 ──この世界を、アンタに託す」


 強い願いの込められたその言葉。

 それは、辞世の句というにはあまりにも力強く。

 わたしは予感していた。


「それじゃまたね、ミサキ。

 アタシが戻って来る時まで『よいこ』で待ってるのよ? でないと宇宙の果てまでぶっ飛ばしてやるんだから! ……ふふふっ」


 彼女はきっと、いつか帰って来る。

 わたしの。わたし達の世界に。

 その時わたしは、笑って彼女を出迎えてあげられるのだろうか。


 ──ちょっと怖い。


 こうして。

 彼女からわたしへ、物語のバトンは渡されたのだった。

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