私の見てきた世界~希望と現実のはざまで~
天野ひかり
第1話 プロローグと幼児期
はじめまして。天野ひかりです。
このノンフィクション作品を読んでいただく前に、いくつかお伝えせねばならないことがあります。
この作品は、私の見てきた世界を記憶と感情のままに綴ろうとしているものです。ですので読んでいてつらく感じられるかもしれません。本当はすべて読んでいただきたいですが、もうだめだと思われた場合は最後まで読まれなくても結構です。そして、天野ひかりがアスペルガーであるということは、紹介文でもう読まれた方もおられると思いますが、障害にもいろいろな種類がありますので、私の例がすべてではないことをご理解下さい。
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天野ひかり。それは一人の人間であり、同時に大きなマイノリティを背負った16歳の子供である。ここでは少し、天野ひかりの16年間を映し出したいと思う。
私は、季節外れの大雪の降った平成16年のひなまつりの夜、とある田舎の産院で産声を上げた。あの夜降り続いたボタ雪と遠い雪国の雪崩は、私のその後の人生を暗示していたのかもしれない。この夜、新しい道の橋脚の刺さった、大河の注ぐ弓なりの浜と季節外れの強い北風の吹く郷の海に、静かにさざ波が立った。
当然ながらその頃の記憶はないが、やはり変わった赤ちゃんではあったらしい。目立った変化が訪れたのは、それから1年と少しが経過したころだったという。
そのころになると、明らかに定型発達から逸脱していた私は、あまり人と目を合わさず、身の回りにあるものすべてに敏感に反応し続ける乳児となっていた。その上、もう言葉の一つくらい発してもおかしくない頃になっても言葉を話さなかったらしい。あの夜のさざ波は、母の離婚とともに少しうねりを伴っていた。
そして時は流れて私は2歳になって、そのころになるとやっと言葉を話した。その時初めて口にしたのは、家の庭で祖父が建てた風車を見て発した、「じじがぷろぺらたてた」だったそうだ。ますます定型から外れる私は家でもどこでも大暴れするようになり、大いに周りの大人を困らせた。そのころから私には記憶があるのでそのお話をするが、2歳になって連れていかれた保育園が私はすごく嫌いだった。何故ならば、保育園は意味もなくはしゃぎ続ける得体の知れないやつらが多い所で、ドアを開けて一歩足を踏み入れれば、脳全体を支配するかのような幼児臭に埋め尽くされ、その上耳をつんざくような叫び声や、絶えず聞こえるどたばたとした音の数々。そして意味も分からずに集団に混ぜられる嫌悪感。まさしく地獄の釜であった。だがそんな保育園にも、安らげる場所があった。それは大好きな園長先生のいる園長室だった。
そこならば脳全体を埋め尽くすかのような刺激から逃れられるし、何よりも園長先生のぬくもりが堪らなく心地よかった。でも、園長先生にもやらなければならない仕事は多い。何しろ140人を超える園児と数多い職員のトップに立っているのだから、今考えれば当然である。でも当時の私にあったのは、性欲以外の基本的欲求に極めて高い自己顕示欲と承認欲求。そして自分を取り巻く環境への、苦痛からくる不満。そして2歳にしては似つかわしくもない高い知能だけであったから、当然ながら園長先生の置かれた状況など理解できるわけもなく、園長室のドアの鍵を閉めて籠城し続けていた。それでも2歳児のできることなどたかが知れている。すぐに籠城はできなくなり、代わりに用具置きにこもったりもした。でもすぐ見つかって、仕方なく飼ってあるメダカを眺めてストレスを紛らわそうとしても、集団行動だからそれも許されることはなかった。ある日先生に言われて気晴らしにと散歩へ出ても、握るのは先生の手ではなくみんなと一緒に紐を握るのである。それらの状態に耐え切れず、幾度となく先生やクラスメイトに暴力をふるい続けた。そんな状態が3年ほど続いた。今の私が、自分のことは自分で何でも決めて何でもしようとしたり、集団のなかにいても自分のオペレーションであれば力を出せたり、そうでない場合一人で動こうとするのは、この頃のトラウマが心の底で蠢いているからかもしれない。
そんなに集団から外れたり、暴れたりしていたら何が起こるか。ほかの園児たちは私を怖がる。私から見ればほかの園児たちは得体の知れないひと。ほかの園児から私を見れば、なんであんな行動ばかりとるのか理解できないばけもの。そんな人物相関図ができても不思議のない状況であった。
でもなぜか、そんなわたしを理解してくれた人が一人だけいた。その子は体に重い障害のある子で、私が大暴れしているときは、「ほっときゃ治る」と言ってくれたし、逆に私が落ち着いているときは一緒に話をしてくれただけでなく、いっしょに花火をしたりお茶会をしたりと、わたしにとっていちばん一緒にいて落ち着く、はじめて友達と呼べる子だった。
“落ち着く” それは私にとっては大事なこと。余計な刺激がなく、やさしさを出せるから。だからその子にだけは、暴力をふるわなかった。私自身が危険だったあの頃、自分という怪物から自分でその子を守ることができたのである。
そんな私たちは、初めて互いに恋をした。所謂初恋と言われるものだ。毎年バレンタインとホワイトデーには互いの家に行ってチョコレートを渡した。その子が入院した時にはいつもお見舞いを欠かさなかった。
でも私は、そんなに大事なその子に手を上げてしまった。今思い出しても息ができなくなるほどのつらい思い出。苦しみのなかで後悔なんて到底できなかったわたしが、暴れて初めて抱いた後悔。
数年前流行した黄色い怪物の映画があったことを覚えておられる方も多いだろう。その時の私はその怪物。その子は怪物が檻を出るときに死なせてしまった初恋のひと。それとピッタリのように思うのは私だけだろうか?
その後小学校に入って、その子と距離を作ってしまった事を、今でも私はひどく後悔している。極度の未熟児で生まれてきて、命が落ちてしまうかもしれなかったと知ったのは、それからずっと後の事である。もしかするとあの子は自分がすごく苦しいのに、いや・・・苦しいからこそ私に、そして私の苦しみに寄り添ってくれようとしていたのかもしれない。そう回想していると、いくら苦しさにおぼれていたとはいえしてはいけないことをしてしまったと。わたしは・・・わたしは・・・思わず一筋の心の叫びが闇の底へとこぼれ落ちる。
そんな時家では何が起きていたのかというと、すこしでも気に食わないことのあればすぐに暴れる私と、恐れることなく暴力を受け止め続けて冷静に諭す母と、恐れと可哀想だという感情に基づいて、私の言うことを何でも聞こうとする祖父母の構図であった。その構図の中で動く各々がぶつかり合う。しかし、各々が願うことはただ一つ。「自分はどんなに暴れられても、場合によっては死んでもいい。この子を立派にしたい」ただ一つだけであった。でもその手段がみんな違う。だからといって誰も間違ってなどいない。それに追い打ちをかけるかのように、その時の私は祖父母に懐き、母の事は閻魔大王の化身のように映った。そうしているうち、母は痛みを忘れた。同じ頃、あの時のうねりは白波へ変わり、そしてこの相関図は10年後に高層マンションをも飲み込むような高波になる・・・
そんな状態だから、家族みんなが苦しみに満ち溢れているかと思われるかもしれない。確かにみんな苦しかった。私が作った母の青あざや嚙み跡の数、心と心がぶつかり合ってながれたこころのしずくなど、数えることすらできないほどであるのだから。
でもそれだけではない。なぜならば、沢山の笑顔とともに私の才能を開花させた時代でもあるからである。
2歳までは黄昏時に毎日近所の散歩に行き、川の土手に上がっては遥か西の岬へと沈む夕日を見たし、まだ一面の田んぼしかなかった家の周りでも楽しんだ。もう少し大きくなると、祖母と往復2里の道を歩いて、祖母の友達の家へ行ったこともしばしばあった。その時は、当時まだ体力のあった祖母にいつもおんぶをしてもらっていた。そしてある時は早起きして1里先の保育園まで母と歩いた。近所の人の中では、元小学校の先生同士のおじいちゃんとおばあちゃんによくかわいがってもらった。3歳の時に食べさせてもらったよく冷えたピンクグレープフルーツの味は、当時80代だったふたりの、優しく微笑む顔と混ざり合ってよく覚えている。あのおばあちゃんにもう一度あの時のお礼が言いたい。もういちどお話をしたい。そう思ってももうかなわぬ願いである。いま一人で広い家に住むおじいちゃんは97歳。体調の悪い日もずいぶん増えた。それでも庭はいつ行っても綺麗に苔むして、松の美しさやおじいちゃんの聡明さと器用さは何も変わらない。そしてあのころと変わらぬ優しさで、私とよくお話をして下さる。私のなりたい人とは、あのおふたりのことである。
少し話がそれてしまったので話を戻すと、私はあのころドライブにはまった。2歳のころまでは走行中にドアを開けて危険を発生させたりもしたが、2歳のうちにドライブにはまり、毎週火曜日には母の定休日に合わせて保育園を休んで母と出た。このとき、近くの美味しいフランスパン屋さんに毎週通って堪能したり、おいしい店があればどんなところでも連れて行ってもらった。そして極め付きは温泉である。年に120回を楽に超える入浴回数。半径50km圏内に点在する多くの温泉はすべて回りつくすような勢いであった。
一方祖父とは、保育園の帰りにいつも近所のドライブに出たし、保育園のない日曜日になると、毎週200km/日以上のドライブをし続けた。ドライブに出た先で道の駅によったり、サービスエリアでカレーを食べたり。乗用車一台がやっとすり抜けられるような道も幾度となく通った。
あの頃見た景色や、敏感すぎる感性で感じて、まっさらな頭脳に書き込み続けた自然の息吹や美味しい料理やすばらしい場所の数々、膨大な位置データと道路の情報、交通ルールと車の種類に至るまで。それらすべてがわたしの宝物となり、魂となり、今の私を作ってくれている。
そうしているうちに、当時の私の移動距離は年間2万㎞を優に超えたし、3歳になると看板を読めるようになり、周囲の主要都市の位置関係も理解できるようになった。だから、どこを通ってどこに連れて行ってほしいかを伝えることすらできたのであった。よって祖父も嘘はつけない。祖父は既に67歳。会社役員だったがとっくに退職をして年金暮らしであるから、ドライブで消費する高速料金は非常に財布に痛い。そこで祖父は、どうすれば私の要望をかなえつつ節約するか考えた。そこで出てきた答えは・・・国道315を高速にしてしまえ!という発想だった。それ以来祖父は、新しい規格の高速道路という意味で、新高速と名付けて私をよくつれていった。しかし私には国道にあるおにぎりマークの看板の意味が分かる。よって高速でないのは明らかだった。が・・・なぜか私はそのことを指摘する気になれなかった。その理由はいまだにわからない。
苦しみにおぼれそうな中で、実はかけられていた数々の愛情。辛うじて私はそれを拾い上げることができた。もしかすると、今の私が持っている“楽しさや意味を見つけたり、初めて出会った人でも自分との共通点を見つけ出して溶け込もうとする力”はまさにこのころ、基礎ができていたのかもしれない。
あるとき祖父は言った。「堤防は、どんなに石を積んでも海面に出てこないように見える時がある。それでも水面下には必ず沈めただけの石は存在するのだ」と。
でも私はとても堤防にはなれない。それでも、怪物の手を誰かを助けるメスに変えたい。あのときの後悔から生まれた願いは後に私を大きく変えることになる。
そんな中で、課題山積のまま、私は小学校へ入学するのだった。
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天野ひかりの最初の6年間はざっとこんなかんじです。驚かれた方も多いでしょうし、もしかすると「つまんねえもの書くんじゃねえよ」と感じられた方もおられるかもしれません。いろいろな風に、そしてあなたなりに感じ取っていただけるならば、どんな評価でも喜びます。
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