フォルザーナンの救済

白沢悠

秘密つまり天啓

 からりと暑い夏の日、まぶしい光に目を細めると、ほんのり草の匂いのする風がほおをなでていく。ほてった体がちょっとだけ涼しくなった。少しでも長く風を受けていたくて、足を止める。

「ああ、ハイエンの町が見えてきた」

 頭の後ろから優しい声が降ってきた。大好きな、にいさんの声。聞いていると気持ちもふんわり優しくなって、だけどひんやり冷たくもなる。後ろを振り返るのは嫌だった。だから顔を上げて遠くを見た。丘の向こうには確かに、小さい町が見える。

「懐かしいな。アデッサだった頃からそんなに変わってない」

「それって?」

 兄さんの声は弾んでいた。それが嫌で仕方なくて、嫌な声が出る。でも、嫌な言葉が返ってくる前に悲鳴が聞こえた。丘の陰から、怒っているような、助けてほしいような大声。

 力いっぱい走ると、ほろで覆われた大きな荷車が見えてきた。その周りで、商人と護衛の人たちが、荷車を襲う盗賊と戦っている。槍や棒を必死に振り回していて、見ているだけで息が詰まりそうだ。しかも盗賊たちはみんな頭にねじれたつのが生えている。魔族だ。昔はあたしたち人族と一緒に暮らしていて、今は憎みあっている種族だ。

「神王様、彼らとあたしをおまもりください」

 深呼吸をする。あたしは神官だ。神王様にお祈りすれば、傷を治したり、力を強くしたりできる。あの人たちを、助けられるんだ。

。ねえ、ここから離れよう」

 兄さんの声がまた嫌なことを言った。頭がかっとなる。兄さんだったら、困ってる人を見捨てるなんて絶対にありえないのに。

 そう言ってやろうとしたその時、大きな音がした。向かってくる音を思わず避けると、荷車があたしのすぐそばを抜けて走り去った。魔族の盗賊が荷車を騎獣ごと奪って逃げたんだ。商人さんたちは追いかけない。違う、怪我がひどくて追いかけられないみたいだ。

「お前がわざわざ治さなくたって、こいつらなら神殿で——」

「その声でそれ以上言わないでよ、神王様!」

 思わず後ろを振り向いた。でも、そこには誰もいない。

「分かったよ。でも終わったらすぐハイエンで宿を取るんだぞ。まったく、お前はいつも無茶ばかりするんだから」

 同じ声、同じ言葉遣い、でも言葉の中身はぜんぜん違う。

「兄さんはそんなこと知らないよ」

 思ったよりそっけない声が出た。神王様はまだ何か言いたそうだけど無視する。他の人の前では神王様と話したくない。

 だって——神王様の声がお祈りをしてなくてもずっと聞こえて、しかも兄さんの声みたいだなんて、きっと誰も信じてくれない。もし信じられたって、今度は不敬だとか言って怒られるに決まってるんだ。



 あたしがこんなふうになったのは、今年の春のことだ。

 その頃のあたしは、ハイエンのずっと北にある王都の神殿に預けられていた。儀礼や戒律や歴史の勉強は退屈だったけど、自分たちで身の回りのことをするのは楽しかったし、なによりあたしはお祈りが好きだった。静かな聖堂に集まって、心も静かにして、はっきりとは聞こえない神王様の声に耳をすませて。だから、あの時もそうしてた。

「神官様、助けてください!」

 聖堂の扉を蹴り開けたのは、毎日お祈りに来る女の人だった。いつもにこにこ笑ってた女の人がその日だけは泣きそうな顔をしていて、よく見るとお婆さんがぐったり、もたれるように背負われてる。

 あたしたちは神官だ。助けなくちゃ。そう思って駆け寄ったのはあたしだけで、そのあたしも偉い神官に腕をつかまれた。

「未熟者め。良いか、信心なき者にまで奇跡を垂れていれば、神殿は人であふれかえってしまうのだぞ。加えてあの老婆は昔、魔族の子を教えていたそうだ。神王様は人族を魔族の支配から解放した王、魔族にくみした者にその御力を頂く資格はない」

 偉そうなひそひそ声を聞いていると、お腹の底からむかむかしてきた。信心って、何。昨日一度だけ来てたくさんお金を払った貴族にはあって、毎日お祈りに来るこの人には無いの。戦争になる前に魔族と仲良くしてただけで、どれだけつらくても助けてもらえないの。

 腹が立って、許せなくて、とにかくお婆さんを助けたくて、あたしは偉い神官の手を振り払った。お婆さんのそばで必死に祈る。

「神王様、お婆さんを癒してください」

 空のずっと高いところから、ほわほわと何か暖かいものが降りてくる。あたしの体を通り抜け、体温と一緒に流れていく。寒い。凍えるみたいに体の感覚がなくなって、雪の中みたいに全部が白くなる——。

「……シャリナ。ねえ、シャリナ」

 気がつくと、優しくて懐かしい声があたしを呼んでいた。兄さん、と呼んでしまってから、はっとする。兄さんがここにいるはずがないんだ。それなのに、目の前では本当に兄さんが笑ってる。

「お前には俺がお前の兄さんの姿に見えているんだね。でも違う。俺はリオネル・フォルザーナン。お前たちの言う、神王だ」

 訳が分からない。けどよく見ると、目の前の笑顔は何かが違った。

「どうして……神王様が、その姿を」

 本当に神王様なのかもしれない。それならどうして兄さんの姿を、兄さんの声をしているの。悲しい。辛い。胸が痛くて、苦しい。兄さんの姿が涙でぼやけた。涙をふいても、ぼやけたままだ。

「……何、これ」

「何って言うのは、どっちの話?」

 どんどん白くぼやけていきながら、兄さんの姿で、神王様は言った。

「夢の中のお前はこの後、さっきの神官に叩き起こされて神殿を追い出される。夢の外のお前は——今、俺が起こしてる」

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