姉と妹
第8話 険悪な妹
絢爛豪華な宮殿の大理石の廊下にコツコツと音が響く。足を動かす度に大理石を叩く軍靴の音が。
皇帝とその家族が暮らす宮中のダイニングルームの前に控えていた
「エカテリーナ殿下でございます」
従僕の低く通る声は、広々としたダイニングに虚しく響く。虚しい理由は単純明快、そのダイニングには給仕係の従僕が数人いる他は、食事を待つ人間がただ一人そこにいるだけであったから。
カーチャの実妹、四つ歳が離れたソフィア・バラシオン第二皇女だ。
12歳の少女にはやや大きめの、赤い天鵞絨張りの食卓椅子に腰掛けているソフィアは、入室してきた私を一瞥すると、まるで場違いな人間が来たと言わんばかりにため息を溢す。
これが毎度、妹ソフィアの姉に対する朝の挨拶のようなものだ。
幼年学校への兵役、軍務奉仕で最近はめっきり会うことが無かったとはいえ、せっかく休暇で宮中に戻っているのに食事の度にこれでは美味しい料理も不味くなるというもの。
同じ家に住う家族は夫人を除いて一緒に食事を摂るというドルネシア帝国、ひいてはサバーニャ大陸における上流階級の習わしは何処へやら。
実の両親は皇帝陛下とその妻、皇后陛下であるため、恐れ多くも共に食事を摂ることなど許されない。
ともなれば残るは、兄妹達と朝食を共にする他ない訳だが、兄のミハイル・バラシオン第一皇子は軍務奉仕で今は陸軍の兵舎で生活をしており、残るは妹のソフィアだけ。
問題は私とソフィアの仲が良くないということだろうか。
ソフィアがどうして私を嫌うのか。直接理由を尋ねたことはないが、おおよその見当はつく。
どうにも私の妹になる運命になった人物は、天より二物を与えられるらしい。具体的には美貌と知性。
前世の紗香がそうであったように、後世のソフィアも未だ子供ながらにはっとするような美貌を持っているし、私では到底太刀打ち出来ないほどに賢い。
だが前世と後世の妹の違いといえば、紗香は千早のことを何故か慕っていたが、ソフィアはエカテリーナを知性に劣る存在と侮っている。
千早と紗香ではその歳の差は二つしか違わず、同世代として比較違い価値観で物事を共有出来たが、四つも離れれば同世代と言えども価値観の共有は難しいのだろうか。
そうだとしてもソフィアの私と兄のミハイルに向ける嫌悪は人並み以上であった。いや、兄妹以外をソフィアが嫌悪しているといった話は聞かないから、人並み以上という表現は適切ではないのかもしれない。
とまれソフィアは上にいる二人の兄妹を毛嫌いしている。自分の兄妹達が自分より劣る知性の持ち主であることが許せないのだろう。
上流階級で付き物の話といえば家督争いであるが、他の貴族家と違い明確に皇位継承順位が示されている皇族においては、男系皇族同士が骨肉の争いをすることはあっても、女性皇族はいくら足掻こうと皇位に着くことはない。
よってこの男一人女二人の兄妹間で権力闘争など起きようはずがなかった。ましてや私とソフィアは皇室庁の監視対象であり、そのような素振りを見せることも難しい。
ならば、やはり単純に馬鹿な兄妹を蔑んでいるだけなのだろう。
そして自分を馬鹿にする人間をどう好きになれようものか。ソフィアの賢さは認めるけれど、常に見下され侮辱され続ければ、私だってソフィアのことを嫌うのは道理だ。
私も願わくば妹とは顔を突き合わせたくないものであるが、食事の度に合わざるを得ない状況はストレスでしかなかった。
その感情は記憶が戻った——あるいはカーチャの記憶を継承する——千早も同じ気持ちを持つものであるが、16歳の小娘エカテリーナ・バラシオンと比べ、草壁千早は比較的人生経験が豊富だった。
丸の内OLとして荒波に揉まれすり減った前世。仕事に忙しく駆け回る中で嫌な奴に遭遇することなど珍しいことではない。社会人一年目や二年目の時にはそんな輩に何度も泣かされたものだが、三年目も迎えると嫌な奴の対処法も身につくというもの。
千早にしてもソフィアは好きになれない、こまっしゃくれたクソガキである。事実だろうとも自分の知性に傲り昂り他の兄妹を見下す様子はある意味でまだまだ子供だ。
自分が何よりも優れていて、他の人間が劣った下等動物にしか見えないというのは思春期ではよくありがちな考え方だし、ソフィアがまだ12歳の少女だということを思えば憎たらしいと思う気持ちよりも、むしろ微笑ましいとさえ思えてしまう。
16歳の少女であったエカテリーナにとってはただただ小憎たらしい生意気な妹だが、アラサー女子の千早から見れば所詮は一人の子供。
思い上がった子供の対処法など実に単純で、ただ相手にしなければいいだけ。せっかく異世界転生したのにチートが出来ないならば、せめて見た目は子供、中身は大人の矜恃を発揮すべき場面ではなかろうか。
だから私は妹の睨みつける視線を意に介さず、何食わぬ顔でソフィアの向かい側の席に座った。するとさっそくソフィアが噛み付いてくる。
「エカテリーナ、何度言えば分かるのですか。その見苦しい服で
ソフィアは軍服が好きではないらしい。というより恐らくは軍隊そのものが好きではないのだろう。その感覚は千早も理解出来るところではあるが、千早にしてみれば目覚めが遅過ぎた。
兵役はもう間も無く終ろうとしている手前、問題はその後の任官がどうなるのかだけであり、軍服そのもので言えば私はドレスよりも着慣れてしまった。
「そうね、ごめんなさいソーニャ。でも軍服って結構楽よ? 食事や来客の度に着替える手間もないもの」
昨日までの自分だったら、きっと「神聖な軍服を愚弄するとは何事か」と馬鹿正直に言い返していたかもしれない。
ただ所詮は子供の戯言だ。一々言い返すこともない。何より正直なところ、軍服はある意味貴族令嬢にとって最高の衣装かもしれないと私は思う。
結婚式のお色直しでもあるまいに、そう一日に何度もドレスを着替えなくて済むのは軍服の何よりの利点だ。自らの品位のためや儀礼的な目的があるにせよ、少なくとも千早にとっては頻繁に着替えが必要となる女性貴族の暮らしはドラマで観ている分には憧れるが、実際には面倒でしかない。
「え……あ、エカテリーナ? どうしたのです?」
ソフィアの戸惑った表情を見て私は内心一本取ってやったと思わずにはいられない。子供相手に30近い女がしてやったりとはしゃぐのは実に大人気ないことこの上ないが、長年に及ぶ16歳のエカテリーナとしての苦い記憶があればこそ、少しくらい喜んでもいいものではないか。
「あら、別にどうもしないわ。貴女こそどうかして?」
あくまで表層は何もないフリをしつつ、わざと惚けてソフィアの反応を伺う。まず間違いなくソフィアは戸惑っていて、その理由の推測は容易なことだった。
まず、エカテリーナ・バラシオンという国家機構の崇拝者であり、軍という組織の熱烈な信奉者であるナショナリストが、その軍の制服を「見苦しい」と評されているにも関わらず怒りを見せないことだろう。
ソフィアが非難する点は、そのほとんどが積極的に軍へ奉仕を望むエカテリーナの姿勢だ。表向きは皇族なのに軍人になりたいと希望する私を同じ皇族として、そして兄妹として非難しているが、実際のところはただエカテリーナの一番沸点が低い部分を狙って煽っているのだろう。現にそれは効果的であったと千早は過去のエカテリーナを反省する。
そして軍服を着ていた方が楽と言ったこともソフィアを驚かせたに違いない。エカテリーナの逆鱗がそこにあると知っていてソフィアが狙い撃ちしたように、エカテリーナは軍服を神聖視するきらいにあった。
軍服は他人の言われるがまま政略結婚の道具として朽ちていくであろう人生からの脱却の象徴だ。軍服を着ている間はバラシオン家のエカテリーナ嬢ではなく、一人の誇りある帝国軍人エカテリーナでいられるのだ。それも国家に忠誠を尽くす愛国者として。
故に私が宮中の滞在中もドレスではなく軍服に袖を通すのは、自らの尊厳を示し国家への忠誠を身に纏うため。決して着替える手間が減るだなどという安直な理由ではなかった。エカテリーナの変化を知らないソフィアもそう思っていたはずだ。
「毎回私に嫌味を言われるのが嫌で最もらしい言い訳を思いついたのですか。貴女みたいな脳みそが空っぽな方でも、多少の知恵は回るものなのですね」
「まったくその通りね。……もっとも、この程度を『知恵が回る』と形容出来るものならば、の話だけれど」
私の皮肉にソフィアはあからさまに表情を歪める。知性云々の前に、年頃の少女同士の極めて低レベルな口喧嘩に過ぎないやりとりであったが、感じの悪い妹からこんな表情を見れただけでも今日は良い日になりそうだ。
姉妹の間な険悪な雰囲気がこれ以上悪くならないように気を遣ったのか、それともたまたまこのタイミングだったのかは定かではないが、従僕達がそれぞれ姉妹の前へ食事の給仕を始めたところで会話は終了。黙々と食事を摂り始めた。
食事中の沈黙は上流階級においてはマナー違反であるが、かといってソフィアと仲良く他の家のゴシップ談義に華が咲くとも思えない。
そもそもとして、しばらく上流階級との付き合いが途絶えている私にはその手のネタはない。話題に出来そうなのは幼年学校の馬鹿な同期アレクセイが教官私物のトロフィーを自主的な射撃訓練の的にして、見事800m先からそのトロフィーを粉砕せしめ、激怒した教官に重営倉へぶちこまれたという身内だけで通じる笑い話だけだ。
しかしこんな話を妹と共有しようと試みても「軍隊ってやっぱり野蛮なところね」と一蹴されてしまうだろうし、私もそれに同意をせざるを得なくなる。
妹の軍隊嫌いの大元は不明だが筋金入りでもある。だがソフィアだって来年には軍服を着ることになるというのに今更好きだ嫌いだを言って何になるというのだろうか。
案外ソフィアは良心的兵役拒否を理由に兵役を逃れるのかもしれない。私がもっと早く千早の記憶に目覚めていればその手があったのに! と内心思わなくもないが、皇族の兵役はどちらかといえば
だがソフィアならもしかしたらあの手この手と万策尽くして事態を回避出来るかもしれないと興味が湧いてくる。
そんな風に思考を巡らせていると、ソフィアは「私をじろじろ見て何なのですか。今日のエカテリーナは本当に変ですね」と怪訝な顔を私に向ける。どうやらぼんやり妹を眺めていたことに気付かれてしまったようだ。
「本当にね、私もそう思うわ。私自身、自分がどうにかなってしまったのではとね」
「……? それはどういう意味ですかエカテリーナ」
全く意味不明だと言わんばかりに意味を問う妹に、私はさてどんな風に答えたものかと思案する。
「貴女には経験があるかしら。一晩で全ての価値観が変わってしまう経験が。……こんなことを言えば頭がおかしくなってしまったのかと思うかもしれないわね。でも、そう。常々貴女が言う通り、私は皇族に相応しくないのかも。もちろん軍人にも」
一瞬、妹にここまで話すのは危険かもしれないとも思ったが、いくら聡いソフィアとはいえこの程度の抽象的な言葉から私の置かれている現状を理解するのは難しいだろうと判断した。
それに、少しは誰かに今の不満や愚痴を話したいと思うのは人間として普通の欲求だと言えた。
親しい友であり、忠実な側仕えでありながらその背後に恐ろしい存在が控えるユリアと違い、妹は明確にこちらを敵視していながら、その立場は私とほぼ同じだ。もし仮に言葉の端から何かを掴んだとて、それを利用してどうこうする権限はソフィアには無いのだ。故にユリアより少しだけ安全に愚痴を吐露出来ると言うもの。無論用心は必要だが。
「……姉さま?」
ソフィアが自分のことを姉と呼ぶことなんて今まであっただろうかと驚きつつも、カーチャはその言葉が含む「もっと具体的に話してくれ」という問いにはあえて答えなかった。
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