第22話 伝えたい……大切なこと 

「ほほ……まぁ、浅見さんも随分頑張っていらしたから」


 妹尾の満足げな笑い声が、高く響き渡る。

 育修社では再度打ち合わせがおこなわれた。


 茉莉香は、うつむいたまま現状を受け入れるしかない。


「では、これで私が翻訳することで、問題はありませんよね?」


 得意満面の妹尾が周囲を見回す。

 自分の勝利を疑うことさえしない。

 誰も口を開こうとしなかった。


 だが、樫木が、


「待ってください! 石川先生の評がまだです!」


 鋭く言い放つ。


「あ・ら……石川さん?」


 侮るように、その名を口にする。

 石川は、無名のうえに、実力もない。

 妹尾は、石川の存在など歯牙にもかけない。


「そーねー。あの方は、もともとお仕事が少ないですものね。月一回あればいい方でしたわね。あの方の批評が掲載されるのはいつなの?」


「“明日香”の一月号です。再来週の月曜日の発売です」


 樫木が粘り強く言う。


「あら……二週間後ね。まぁ、いいわ。もう、三年以上待っているのですもの。今さら、二週間ぐらい、どうってことはないわ。石川先生の顔も立てなくてはいけないし……。でも、まぁ、時間の問題でしょうね」


 そう言って、妹尾は勝ち誇ったように部屋を出る。


 茉莉香は妹尾の足音が遠ざかるのを聞いていた。


(終わってしまったのだわ)


 茉莉香は樫木の方を向き、


「失礼します」


 頭を下げて帰ろうとしたとき、


「浅見さん!」


 樫木に呼び止められた。


 振り返ると、


「まだ諦めるのは早いですよ」


 静かな声で言われる。


 諦めるな?

 どういうことだろう。

 石川氏の評で何かが変わると言うのだろうか?


 そんなことはあり得ない。


(石川先生には申し訳ないけど……)


 石川は、あまりにも凡庸で、この事態を変えるほどの影響力はないはずだ。 

 樫木は、自分の気持ちを少しでも慰めるつもりなのだろう。


「ありがとうございました。樫木さんには、本当にお世話になってしまって……」


 そう言って、再び頭を下げて部屋を出た。





 翌朝は雨だった。


 茉莉香は、初めてles quatre saisonsを訪れた日を思い出す。


「そういえば……あの日は保健室登校を休んでしまったんだわ」


 今日も休みたい。

 いや、何もしたくない。

 食事さえする気になれないのだ。


 だが……


「今日は、アッサムのミルクティーにしよう。それから、チーズトースト……フルーツも食べよう」


 何かを食べなくてはと思う。

  

 食事が終わり、茉莉香はクローゼットからリブ編みのグレーのセーターを取り出す。

 だが、それを元の位置に戻し、


「ううん。こちらの方がいいいわ」


 パステルカラーのニットを手にする。襟と、胸元とにフリルがついたお気に入りものだ。

 

 鏡台ドレッサーの前に座り、普段しない化粧を薄く施す。


「慣れていないから……。おかしくないかしら?」


 鏡の前で、何度もチェックをする。


 靴を入念に磨き、それを履いて家を出る。

 学校へ行くのだ。 


「雨が……雨が止んだわ。よかった」


 明方からの雨は止み、雲の合間から晴れ間が見える。


「さあ! 今日も頑張ろう!」


 茉莉花は歩き始めた。



 意気揚々と家を出たものの、教室に入ると居心地が悪かった。


 茉莉香が妹尾と競っていることは、密かに知れ渡っている。

 

 周囲の視線が痛い。

 皆が遠巻きにして、自分を避けているような気がした。

 だが、背筋を伸ばし、まっすぐ前を向いて歩き、席に着く。

 

 平静を装ってはいるものの、息が詰まりそうだ。

 講義が終了したとき、初めてほっと息をつくことができた。



「あ……あの……浅見さん」


 学生の一人が、おずおずと声をかけてくる。


「はい?」


 茉莉香は、すぐにでも帰りたかったが、笑顔でこたえた。


「あ……あ……の……」


 何か言いたいことがあるのだろうか?

 翻訳の件で、不快な気持ちになることかもしれない。


 心なしか、周囲の視線が集まり始めている気がする。


(この場から逃げ出したい!)


 目の前の相手の気持ちなど考えず、

 今すぐに!

 

 だが、出来なかった。


(何の話をするつもりかしら?)


「あの……? どうかしたの?」


 精一杯笑顔を作る。


「……」


 目の前の学生は、下を向いて顔を赤くしたまま黙っている。


 注目を浴びていることは、気のせいではなかった。

 自分たちを取り囲むように立って、こちらの様子を伺っている。


 茉莉香は胸に息苦しさを覚えたまま立ち尽くした。

 

 時間が、長く……

 

 ……長く感じられた。


 

 ーー だが、沈黙は破られる ーー

 

 

 彼女はおもむろに、

 


「あ……あの、浅見さんの作品。すごくよかった! 私、すっごく共感しちゃったわ!!」


 と、せきを切ったように言った。



(え!?)



 言葉の真意を探ろうとするが、咄嗟のことでうまくいかない。


 すると、


「私も! ヒロインをつい応援したくなっちゃった!」


 そして、次々に、


「私も! 片思いの場面で、胸キュンしちゃった!」


「私も!」


「私も!」


 口々に言う。


 茉莉香は学生に取り囲まれ、呆然とした。


(え……? ……なに?)


 現状が理解できない。



 だが、冷静になると、




「……あ……ありがとう」


 やっとの思いで言葉が出た。


(皆が……皆が……私のことを……!)


 確かに自分は勝負に負けたかもしれない。

 だが、作品の魅力を伝えることができた。

 著者の心を届けることができたのだ。

 これ以上大切なことが、他にあるだろうか?


「ありがとう」


 胸に込み上げるものを感じながら、繰り返し言う。

 周囲にさげすまれていると考えたことは、誤りだった。

 無言のまま見守られていたことに初めて気づく。

 自分には共に学ぶ仲間がいたのだ。


「ありがとう」

 

 茉莉香は、同じ言葉を繰り返すことでしか喜びを表すことずにいた。


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