第23話 白くて四角いもの

 イルミネーションが街を彩り、約束の二週間が経とうとしていた。


 約束の日が近づいている。

 そんな中、茉莉香の気持ちは安らいでいた。

 

 “諦めるのはまだ早いですよ”


 樫木の言葉を鵜呑うのみにするわけではないが、落ち込んでいると、自分のために力を尽くしてくれる彼女に悪い気がする。


 それに、クラスメイトたちが何かと声をかけてくれる。お茶に誘われ、おしゃべりをして過ごせば、憂える暇などはなかった、

 また、彼女たちはles quatre saisonsにも訪れ、


 そして……


「浅見さん。お久しぶり……」

 

 大学を卒業後、学院を離れたクラスメイトたちを連れてきた。


「まぁ! まぁ!」


 懐かさが心に満ち、それは喜びの涙に変わった。


「ごめんなさい……」


 旧友たちを前に、溢れる涙をぬぐう。

 彼女たちも涙ぐんでいる。


 友を失い、孤独だった日々が、時をさかのぼり消えていくのを感じた。


(こんな風に元に戻るなんて……)


 予想さえしなかった。


 あの事件がきっかけで、離れた友たち。

 ……高校生最後の年に起こったあの事件……。

 

 これまでにも、和解しようと努めた。

 だが、表面で的であったことは否めない。


 それが『睡蓮』に関わったことを機に、こうして氷解ひょうかいの時を迎えたのだ。


 氷がうすらぎ、溶けて消える春の湖のように……。

 

 最も寒さが厳しい季節。

 茉莉香の心は春の温かさに包まれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「明日は、いよいよ、石川先生の評が掲載される日ね」


 茉莉香がカレンダーを見る。


  ――チリリン――


 スマホが鳴った。


「樫木さんだわ!」


 電話を取る手を、ふと止める。


(何の用かしら? まだ一日あるのに……)


 ――チリリン――



 呼び出し音は鳴り続ける。


 ――チリリン――



「もしもし……」


 いぶかりながら電話に出ると、


「浅見さん! 大変です!」


 挨拶もなく、樫木が大声で話し始めた。

 興奮している。

 尋常ではない様子だ。


「あの……なにか……」


 茉莉香が怪訝けげんに思い尋ねると、


「とにかく! とにかく! 早く編集室へ来てください!」


 樫木が早口で言う。


 何かただならぬことが起こったようだ。


 茉莉香は、早々に支度をすませると、取り急ぎ編集室を訪れた。


「浅見さん! 早く! これを見てください!」


 樫木は、到着早々、茉莉香を自分のデスクへ引っ張って行った。


「あ、あの……」


 茉莉香は戸惑いながらも、樫木のなすがままになっていた。

 引きずられるように、デスクにたどり着く。


「これを見てください!」


 頬を紅潮させた樫木が、デスクのパソコンを指さす。


 何の集計だろうか?

 Excelで横棒のグラフが作成されている。


 縦軸には著名な日本人作家の名前が並ぶ。


「あの……これが……?」


 自分と何のかかわりがあるのか?


「そこじゃなくて!」


 樫木がじれったそうに言う。

 いきなり呼びつけられて、用件もろくに言わないのだ。

 戸惑わずにはいられない。


「ここです!」


「海外作品部門?」


 そう言って、茉莉香はハッとした。


「え!?」

 

 想像だにしなかったものが、そこにはあった。


「はい!」

 

 樫木が顔を輝かせる。


 十二月号の海外作品は、茉莉香と妹尾の訳した二作品だけだ。

 そのうち、茉莉香の作品のグラフが顕著に長く伸びている。


「!」


 茉莉香は何が起こっているのかがわからなかった。


「何があったのですか?」


 樫木は、ふふん、と、笑うと、白く四角いものを差し出した。


「読者アンケート!」


 茉莉香が叫んだ。


 白く四角いもの。

 

 それは、アンケート用のハガキだった。


「はい! 今月号は特別に、綴じ込み式にしないで、そのまま挟み込んだんです! 抽選の景品もちょっと張り込みました! アンケートの回答はハガキでも、ネットからでもできます。私たちは、この集計結果が出るのを待っていました! これからもっと伸びますよ!」


 樫木の言うとおりだった。

 回答が到着するたびに、誰かが入力しているのだろう。その度にグラフが伸び、茉莉香と妹尾の差がどんどん開いていく。


「もともと依頼した評論家の先生は四名でした! 仕事の少ない石川先生を編集長が潜り込ませて、時間を稼ぎました。女史側の人たちも、先生は眼中になかったんです。石川先生には申し訳ありませんが、盲点を突いたんです!」


「まぁ!」


「これを上層部へ持って行って交渉します!」


 まるで夢のようだ。

 こんな逆転があるなんて!


「そんな! なんてことかしら!」


 信じられないほどの幸運だ。


「でも……妹尾先生が納得しなかったら? これは作品の力だって言ってきたら……」


 “翻訳者の力量ではない!”

 

 と、妹尾が主張すれば、言い分が通るかもしれない。


「そんなこと! もう、私たちは引きません! 私たちは新しいスタイルを求めているんです。クロエは新しい時代の作家です。それに合った翻訳者が必要なんです!」


 樫木が目を輝かせて言う。

 だが、もし……。


 茉莉香がそんなことを考えていると、誰かが勢いよくドアを開けて入って来た。


「妹尾女史が選考を辞退しました!」


 いっせいに声の主に視線が集中する。

 

 次の瞬間、

 

 ―― どっと歓声があがった。


「何があったのかしら? でも、これであなたに決まりですよ! 浅見さん!」


「ありがとうございます!」


 予想さえしなかった展開に声が震える。


 一度は、勝敗よりも大切なものがある。そう思った。

 その気持ちに嘘はない。

 だが、確かに自分は勝ち、結果を出せたのだ。自分は『睡蓮』を翻訳する権利を得たのだ。

 これ以上の喜びがあるだろうか!


「浅見茉莉香が女帝に勝ったぞ!」


 誰かが大声で叫ぶ。


(本当に勝ったんだわ!)


 自らの力で! 今まで、これほど情熱を傾けたことがあっただろうか?


 周囲が異様な熱気に包まれる中、茉莉香は静かに喜びをかみしめていた。







 それから数日後、茉莉香は育修社と契約を交わした。


「やっと、夢が叶ったんだわ」

 

「実感持てましたか? 浅見さんいつも自信なさそうだったから」


 樫木が笑いながら言う。


「はい」


「あ、一応お教えしておきますね。妹尾女史が辞退した理由なんですけど、ここだけの話、彼女のお父様、妹尾隆宏せのおたかひろ先生の奨めらしいです」


「まぁ?」


「隆宏先生は人格者として知られていて、娘が強引な手を使うことを喜ぶような人じゃないんです。ようやく最近になって、彼女のやり口に気づいたらしいですよ」


「そうだったんですか」

 

 もう少し早く気づいてくれれば……

 随分窮地に追い込まれてしまったが、土壇場どたんばになって救いの手を差し伸べられたことには感謝すべきだろう。


「それに、先生は浅見さんのことをご存じでした。エッセイも、それ以外の小説の翻訳も読まれていて、周りの方に “若い才能のある人が出てきてくれて楽しみだ” そう、おっしゃっていたそうです。今回のことも、女史の動向云々だけではなく、浅見さんの実力を認めた上でのことだと、 ーー私は思います」

 

「まぁ……」


「どうですか? 浅見さん。一般読者だけではなく、大御所おおごしょのお墨付きもあるんですよ!」


 それは言い過ぎではないかと、茉莉香は思う。


 だが、高名な仏文学者が気にかけていてくれていた……。

 信じられないほど嬉しい。


「がんばってくださいね!」


 樫木に力強く励まされる。


「はい!」


 たくさんの人の助けによって手に入れたチャンスだ。

 これからは自分の責務に専念しなければならない。

 

 きっと成功させる!

 

 茉莉香は自分自身に誓った。 

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