第2話 女史来襲
ある放課後、茉莉香がマンションに帰ると、郵便受けに荷物が届いていた。
差出人は“
と、なっている。
育修社は、
茉莉香はクロエがJeune Ventのために書いたエッセイを翻訳している。
包を開くと、書籍が現れる。
フランス語の小説だ。
茉莉香の大学院進学が決まったころ、Jeune Vent編集長の日高から、ある人物に引き合わされた。
海外文芸部の樫木という人物だ。
初めて会った日の、明るく快活な姿を思い出す。
彼女たちの仕事は、日本で未発表の海外文学を探し出しては、日本で出版することだ。
その後、樫木は茉莉香にフランス語の本を送って来ようになった。
荷物の中には、本の他にアンケート用紙が入っている。
茉莉香に期待されていることは、本を読んで、アンケートに答えコメントを書くことだ。
「これは、私たちの仕事なんですけど、一人でも手伝ってくれる人がいると助かります」
樫木は、ハキハキとした声で、茉莉香に頼み込んできた。
謝礼も出る。
(私なんかでいいのかしら……)
好きな本がタダで読めた上に、謝礼が貰えるなんて、なんだか悪いような気がする。
日高から聞いた話では、
「海外文芸部ではね、『睡蓮』の版権をとろうと躍起になっているの。
個人的に親しいといっても、係わったのは、ほんの短期間だけなのだ。
周囲からの期待が重い。
「でもね。もちろん、それだけじゃないわ。浅見さんのセンスに期待しているのよ」
日高はそう言い添えていた。
それも嘘ではないだろう。
「事情がどうであれ……」
茉莉香が呟く。
与えられた仕事を誠実にこなす。
周囲の思惑がどうであれ……。
自分に出来ることはそれだけなのだ。
それから数日後、茉莉香は育修社へ向かう。
本の返却と、アンケートを収めるためだ。
郵送でもよいのだが、一日も早く届けたいと思う。
受付に伝えると、
「樫木がぜひ、ご挨拶をしたいと申しております。応接室で少々お待ちください!」
「いえ。そんな。樫木さんは、お忙しいので……私、これを受け取っていただければ……」
茉莉香は辞退するが、受付嬢は聞き入れない。
満面の笑顔のままで、応接室で待つようにと言い続ける。
しかたなく彼女に従うことにする。
応接室に案内され、椅子に座って樫木を待った。
出されたお茶に口を付けながら、
(こんな大げさなことになるなんて……)
こんなことになるならば、郵送にすればよかったと思う。
だが、茉莉香の戸惑いは、勢いよく入って来た人物にかき消される。
涼やかなショートカットとパンツスーツが似合う、育修社の若手社員だ。
「浅見さん! こんなに早く提出していただいてありがとうございます! 浅見さんは仕事が早くて、クオリティも高いので助かっているんです」
樫木がいつものハキハキとした調子で話す。
きびきびとした動作が気持ちよい。
(私も進学しなければ、樫木さんのような社会人になっていたのかしら?)
ふと、そんなことを考える。
樫木の白いシャツが目に眩しい。
挨拶を交わし、少しばかり世間話をして、
「じゃあ、お預かりします!」
樫木が明るい笑顔で言った。
「よろしくお願いします」
席を立とうとすると、何やら外が騒がしい。
甲高い中年女性の声がし、誰かがそれをなだめているようだ。
「ここに来ているんでしょ!」
声の主が叫ぶ。
荒々しい足音がして、それは次第に近づいてくる。
……そして……
「ここね!」
バン!!
荒々しくドアの開き、ぎょっとしてそちらに目を向ける。
白いレースのブラウスを着た四十代前半の女性が立っていた。
手入れされた肌に施されたナチュラルメイク。ピンクベージュのネイルが似合う細く白い指。髪は美容院でセットしてきたのだろう。
いわゆる “セレブ” と、言われるタイプの女性だ。
その、セレブが我を忘れて、烈火のごとく怒っている。
「妹尾さん!」
樫木が声をあげる。
茉莉香は驚き、呆然としていたが、それは目の前のセレブも同様だった。
茉莉香が驚くのは当然だろう。だが、なぜ、押し入ってきた当人が驚いているのか?
わけがわからない。
「えっ……? 学生なの……?」
侵入者は一瞬拍子抜けしたように言った。
茉莉香には何が起こっているのがわからない。自分が学生であることに、何の問題があるというのか?
「まだ学生じゃない! こんな子! 縁故だとかコネだとか! 今の若い人って、そういうことばかり熱心なのね!」
侵入者は、態勢を立て直すと、一方的にまくし立てた。
「まぁ、まぁ、妹尾さん。落ち着いて」
すぐに二人の男子社員が追いついて、なだめながら女性を部屋から連れ出す。
「すみませんね。樫木さん。浅見さん」
気まずそうに、頭を下げて去って出て行った。
「あ……あの、あの人は?」
困惑した茉莉香が尋ねる。
「ごめんなさい。浅見さん。あの人は、
「えっ……」
茉莉香はその名を聞いたことがある。有名な翻訳家だ。
彼女の訳した本を何冊も読んでいる。
「それにしてもねぇ……コネがどうとか言っていたけど、妹尾女史は、お祖父さまが外交官で、お父様が仏文学者なんです。彼女自身がフルに人脈を駆使していた人なんですけどね」
夫の仕事の都合で、一年の大半をフランスで過ごしている。
今は、子どもをグラン・ゼ・コールに入学させることに躍起になっているという。
「そうなんですか……」
だが、わからない。
妹尾は、何をあんなに怒っていたのかが……。
「彼女、『睡蓮』に執心なんです。自分が訳するって息巻いていて……」
「!」
茉莉香は背筋がヒヤリと冷たくなるのを感じた。
「でもねぇ。……彼女、お父様が仏文学者のせいかしら? 文体が仰々しいというか、時代にそぐわないというか……」
樫木の言葉は容赦がない。
「浅見さんが学生であることは、公表されているんですけど、海外生活が長くて情報が伝わってなかったんですね。それにしても……さっきの顔! 鳩が豆鉄砲くらったみたい! こんな可愛らしい人でびっくりしたんでしょうね!」
樫木が笑いを堪えながら言う。妹尾のことをあまりよく思っていないようだ。
さっきの有様では無理もないだろう。
だが、茉莉香にとってはそれどころではない。
恐ろしい形相を思い出すだけで、身震いがする。
「まだ、版権も取れていないのに……」
すーっと、血の気が引くような感覚が起こり、足に力が入らなくなった。
「大丈夫ですか? 顔が真っ青ですよ。椅子に座って待っていてください。飲み物を持ってきます。そのまま動かないでくださいね!」
樫木が足早に部屋を出ていくと、茉莉香は一人部屋に残された。
(なんだか怖い……)
恐らく、『睡蓮』に目を付けている翻訳者は少なくないだろう。
だが、自分がライバル視されているなどと、考えたことも無かった。
(ついこの前、翻訳したいって決心したばかりなのに……)
揺らぐ心が歯がゆい。
樫木は戻ってくると、茉莉香にコップを渡しながら、
「私だったら浅見さんを推すけどなー」
さらりと言った。
「そ、そんな……私なんて……」
「そういうところですよ。浅見さん。もっと、自信持たなきゃ。こればかりは妹尾女史の爪の垢を飲ませたいです。やってみたいとは思わないんですか?」
「そ……それは……」
「どうなんです?」
樫木が詰め寄る。
「……やってみたいです……」
茉莉香が消え入りそうな声でようやく言った。
だが、口にしてみると、自分の心が大きく目標に向けられるような気がした。
(心で思っているだけなのとは違うんだわ……)
新しい発見だった。
「その調子ですよ。 浅見さん! まずは、しっかり目標に意識を向けないと。 まずはそこからです」
「ええ」
(今日は大変な日になってしまったわ)
だが、これから自分で道を切り開いていく。
そんな気持ちになれたのだ。
帰宅後、食事をすませ、学校の課題をこなしていると、
―― チリリン ――
スマホが鳴る。
夏樹だ。
「そっちは夜だよね」
「ええ。夏樹さんは変わりない?」
「ああ、相変わらずだよ。ところで、茉莉香ちゃん何かあった?」
「え?」
「声が……なんか弾んでいるよ」
「え……えぇ……?」
自分の気持ちが伝わってしまったのだろうか?
夏樹の察しがいいのか、自分がわかりやすいのか……。
なんだか気恥ずかしい。
「あのね」
「うん?」
「……私……『水連』の翻訳をしてみたいと思って……」
「そりゃあいいや!」
夏樹が即座に言った。
「俺、茉莉香ちゃんがそういう気持ちになってくれただけでうれしいよ」
「……」
「どうしたの?」
夏樹が様子を伺っている。
「ううん、ありがとう。私も、何から手をつけたらいいかわからないの。でもね。自分の気持ちに正直でいようと思うの」
「それがいいよ」
会話は、それからほんの少し続いた。
おやすみなさい。
そう言って、二人は会話を終わらせた。
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