第19話 姫君の恋
茉莉香と沙也加は、居間でカードゲームをしていた。
貴族の姫君が、さまざまな階級のキャラに助けられ、恋を実らせるという設定だ。
カードケースを見る。
『姫君の恋』
これがこのカードゲームの名前だ。
なかなかのヒット商品で、沙也加はこれに今、はまっているという。
「じゃあ、このカードを使うわ」
茉莉香は騎士の絵柄のカードを示す。
騎士のカードには対戦相手の持ち札を予測し、当たれば相手を脱落させる効力がある。
言葉通り “切り札”。
攻めのカードだ。
ルールはシンプルだが、奥が深く、大人でも楽しめる。
……そういう状況ならば……だが……。
「えーっとねぇ。商人?」
「はずれ! 商人は、さっき私が捨てたばかりよね?」
沙也加が言う。
「茉莉香ちゃ〜ん。もっと、ゲームに集中しないと〜」
ゲームは、茉莉香の気持ちを少しでも晴らそうと、沙也加の提案で始めたのだ。
「そうね……」
「クロエのことが心配なのね? 大丈夫よ。青山さんも言っていたでしょ?」
「ええ」
それにしても、外出することも無く、こうして家に閉じこもっているのだ。
つい、考え込んでしまっても、無理はない。
今月分の翻訳の仕事もすでに終えている。
「それにしても……。夏樹さんも出て行ったきりね。どこかあてがあるのかしら?」
「さあ……」
「どうしているのかしら? 二人とも」
茉莉香は待った。
このゲームのように、事態を打開してくれる “
(このままではいけない)
真実を知り、変えなくてはいけない状況がある。
漠然と、そんな予感を抱いた。
茉莉香と沙也加は、何度もゲームを繰り返した。
商人、騎士、僧侶、隠者、占い師、国王……。
様々な身分のカードが配られては捨てられ、奪われ、奪い、交換する。
茉莉香はゲームに熱中した。
姫君の恋の成就を祈るかのように……。
「今度は私の番ね!」
茉莉香がカードを手に取る。
ーー 姫君 ーー
今日初めて手にしたカードだ。
白いドレスを着た年若い乙女。
絹糸のような金色の髪に、湖のような青い瞳。楚々とした清廉な姿。
手には一輪の薔薇。白い
花言葉は 『恋をするには若すぎる』。
穏やかな微笑みを浮かべている。
愛しい人を待っているのだろうか。
茉莉香は姫君の気持ちに思いを寄せた。
その時だ。
「お嬢様方! お二人が返ってきました!」
シャルロットが薔薇色の頬を輝かせ、部屋に駆け込んできた。
「まあ!」
茉莉香と沙也加は同時に立ち上がり、玄関へ向かう。
そこには、夏樹とクロエが立っていた。
「まぁ。二人ともよく……」
込み上げてくる安堵と驚きに気持ちが揺れる。
夏樹が……夏樹が、クロエを連れて帰ってきてくれた!
まるで姫君を守り、救い出す騎士のように。
漫然と続いた状況に変化が起こるかもしれない。
「ありがとう! 夏樹さん!」
茉莉香が喜びに顔を上気させながら言う。
「あ…… あぁ……」
夏樹は、茉莉香の激しい喜び方に、驚いているようだった。
彼女には誰かが必要だ。
誰かが彼女を助け、彼女がそれを受け入れなくてはいけない。
これ以上、一人で抱え込ませてはならないのだ。
「クロエは私の部屋へ。シャルロット、お茶をお出しして」
「ショコラをお持ちしますか?」
「お願いしま……」
と、言いかけて、
「いえ。紅茶を。ポットでお願いします。あと、青山さんへの連絡は、少し待ってください」
時間が必要なのだ。
それに休息も。クロエは疲れ切っているのだから。
そう判断した。
シャルロットは、一瞬はっとしたような表情を見せた後、
「かしこまりました。
そう言って、スカートを軽くつまむと、片足を斜め後ろに引き、もう片方の足の膝を軽く曲げ、恭しく
茉莉香は、シャルロットにクロエを自室へ通すように言いつけ、居間で夏樹と話をはじめた。
「クロエはどこに?」
「ジヴェルニー」
小説の中で主人公が恋人と初めて、そして最後に旅をした場所だ。
モネが四十三歳で移り住み、八十六歳で亡くなるまで過ごした彼の家がある。
「まぁ。よくわかったわね」
「茉莉香ちゃんとの会話が気になってね。やっぱり、そっちかな……って。その……思い出の旅っていうのかな? 小説は、経験がもとになってるって、言われてるし……」
夏樹が気恥ずかしそうにしている。“恋愛”という言葉を口にし辛いのだろう。
「小説の中で、パリ以外の街が出てくるのはそこだけだったからね。静かに過ごしたいだろうと思ったんだ……。観光地だけど、ホテルによっては、ひっそりと過ごせる。小説に書かれているホテルに似たところを探してみたんだ。クロエは観光客に紛れて、まったく目立たなかったよ」
ジヴェルニーには、モネの作品のモデルとなった庭園があり、その池には睡蓮が浮かぶ“モネの池”がある。
『睡蓮』
クロエの名を世に知らしめた処女作の名だ。
夜明けとともに花開く睡蓮を見に、早朝の池を訪れる主人公の心情を繊細に描いた場面が蘇る。
「ありがとう」
夏樹の推察力に感謝すると同時に、驚かずにはいはれない。
夏樹を居間で待つように言い、クロエの待つ自室に向かった。
「クロエ……」
表情には疲労の色が現れている。
瞳には煌めく光が、口元には微笑みがない。
テーブル前の椅子に黙したまま座っている。
茉莉香も彼女の前に座り、カップにお茶を注いだ。
湯気とともに香りが立ち、部屋に漂う。
クロエは黙っていた。
その時間は長く、いつまでも……いつまでも続くように思われた。
茉莉香も無言のまま椅子に座り続けた。
お茶に手をつけることなく、時が刻々と過ぎていく。
茉莉香は、沈黙したまま透明な深紅の
まるで、そこに答えがあるかのように……。
どれほど時間が経っただろうか……
ようやく、クロエが口を開いた。
「私は、子どもの頃から絵を描いていたわ。才能があるって、言われながら育ったの。コンテストには何度も入賞したし、優勝したこともある。パパやママのこともあって、“サラブレット”と言われたりもした……エコール・デ・ボザールにも好成績で入学して……そんなこと当然だと思っていたわ」
茉莉香は黙って話を聞いている。
「それでね……ある日、パパの書斎に呼ばれたの」
茉莉香が沈黙を続ける。
「そしてね。こう言われたわ。“お前は一流にはなれない。それでもよければ絵を続けなさい”って」
「!」
クロエは鼻先で自嘲気味に笑い、茉莉香はかろうじて平静を保った。
「別にね……プロの絵描きが、全部一流ってわけじゃないわ。続けたければ続ければいい。でも、パパにはわかっていたの。私のプライドはそれには耐えられないって……」
「……」
「それにね。両親の存在がなければ、私は平凡な二流画家ですんだわ。でも、パパやママの存在がきっと私を苦しめる。それを思って、パパはあんなことを言ったのだと思う」
茉莉香はクロエの苦悩を思う。
自分は彼女の心情が理解できずに羨んでいたのだ。
「それから、私は、いろいろなバイトを始めたわ。カフェで働いたこともあるし、ママの編集の仕事を手伝ったこともある。……可能性を見つけたかったのね。それで、ある時、パパが原稿を書いている新聞社で働いたの……そこで、彼に会ったわ」
茉莉香は小説の一説を思い出す。
男はこう言うのだ。
“やぁ! あの時の小さなお嬢さんだね。こんなに綺麗になっていたなんて、驚いたよ!”
「彼は、記者になりたての頃、私の家に原稿を取りに来ていたの。今まで、私の周りにいないタイプだったわ。……だって、私の周りと言えば」
いつかバーで出会った、クロエの友だちが思い浮かんだ。
「ちやほやするか、無作法な人ばかりだったから……」
クロエが思い出し笑いをしている。
「彼は、大人で優しかった。私、いっぺんに彼が好きになったの。……それでね」
小説の中で二人は……。
茉莉香が顔を赤らめる。
「でも、彼は、亡くなった奥様を忘れることができなかった。私は、忘れさせることができなかった! 私には、それが耐えられなかったの」
クロエが、自分を責めるように言った。
「プライド! プライド! つまらないプライドよ!」
クロエの口調が次第に激しくなる。
彼女は酷く怒っている。
そして後悔している。
美術の道を断念した自分。
恋を自ら終わらせた自分。
だが、その激情は、鋭い刃となって彼女自身に向けられている。
そして、それは深い悲しみとなって、心に深く沈み込んでいくのだ。
茉莉香はじっと話を聞いていた。
クロエは誰にも悩みを打ち明けられず、一人悩んでいたのだ。
その孤独を思う。
そして……
「いいのよ……」
クロエの首に、そっと手をまわして抱き寄せた。
「いいのよ……」
一瞬、クロエの顔に驚きの表情があらわれる。
だが、じっと茉莉香のするに任せていた。
「私だって嫌……。好きな人が自分以外の人が好きだなんて! 絶対に嫌! だって、私たち同い年なのよ。二十歳になったばかりなのよ!」
茉莉香が涙を堪えたが、うまくいかなかった。
はらはらと涙がこぼれ落ちる。
もしも夏樹の心に他の女性がいたら……。
耐えられない。
心が張り裂けてしまうだろう。
「茉莉香?」
クロエの興奮はおさまり、そっと茉莉香をのぞき込んでいる。
「ごめんなさい。私が取り乱してしまって」
クロエから離れた茉莉香が、涙を拭きながら言った。
このままクロエまで取り乱したら、互いに抱き合って泣き出してしまうに違いない。
茉莉香は感情を抑えられなかったことを悔やんだ。
だが……
クロエは泣かなかった。
泣かずに笑顔を見せる。
いつも通り。
海の底のような藍色の瞳は静かな光を湛え、黄金色の髪が波打つ。
若き文壇の女王がそこにいた。
クロエは努力を重ね、今の地位を築いた。
一人悩む日もあったかもしれない。だが、毅然とした態度で乗り越え、それが揺るぐことはもうないのだ。
茉莉香は安心すると同時に、取り乱したことを恥じる。
「ごめんなさい。私……かえって迷惑をかけてしまって」
自分には、彼女を心配し、同情をする資格などなかったのだ。
もはや余計なお世話でしかない。
だが、
「いいえ。人に心にかけてもらえるって、いいものね。茉莉香。あなたならなおさらよ。ありがとう」
クロエの言葉には、深い心情がこもっていた。
目が合い、互いにほほ笑む。
「その後ね。私、彼とのことを小説に書いたの。いろいろ、変えてあるけど……。それをパパに見せたら、すぐに出版社に持って行くように言われたわ。やっぱり両親の子でね。文才の方があったみたい」
「まぁ……」
「茉莉香。あなたは、私のことを幸せだと言ったわね。その通りだわ。自分を知ることができたもの。絵の才能がある特別な自分。魅力的で特別な自分。そんな幻想から解放されたのよ。……それに……彼にも会えたわ」
クロエが穏やかに言った。
「……もし……あなたたちのように自分に正直になれていたら、彼との関係も変わっていたかもしれないって考えると、たまらなくなって……それで、つい、思い出の場所に行きたくなってしまったの。心配かけてしまったわね」
茉莉香は小さく首を振った。
「さぁ。お茶にしましょう。せっかく用意してもらったのに濃くなってしまったわね。ミルクが必要かしら? メイドさんにお願いしなくちゃ」
そう言って、クロエはシャルロットを呼んだ。
「では、お嬢様方。失礼いたします」
ミルクを届けたシャルロットはドアを閉め、
「ふう……」
ため息をついた。
「金持ちの娘たちのお守りと聞いて、どんな面倒な仕事かと思ったけど……」
可愛らしく、礼儀正しく、なんと扱いやすいお嬢様方だったか……。
二人が一緒だと、小さな花が並んでいるように見えた。
「それにしても……」
さっきは、つい、
「でも、クロエさんが慰めていたみたい」
シャルロットは茉莉香の赤く泣きはらした目を思いうかべる。
やはり茉莉香さんは、可愛らしい
シャルロットは納得すると、自室へ戻っていった。
※ ご興味があればご参考までに……。
mademoiselleとmadame
未婚女性はmademoiselle既婚女性にはmadame
あるいは、成人女性には既婚、未婚を問わず、madameなど、使い方は様々のようです。
未婚であることを強調されたい方は、年齢にかかわらず、mademoiselleと呼ばれることを望むそうです。
2012年より公文書でのmademoiselle の使用は廃止され、madameにで統一されました。
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