第41話 聖ミカエルの山


「門限十一時ならば、少し遠出ができるね。そうだ、モン・サン=ミシェルに行こう!」


 電話を切ったあと、再度夏樹から連絡があった。


「モン・サン=ミシェル? まぁ!」


 テレビや写真で見たことがある。砂地に浮かぶ修道院だ。

 その姿は神秘的な美しさがある。


「うれしいわ!」


「ああ、明日迎えに行くよ」


 翌朝夏樹が迎えに来た。


「今日は満潮だから、絶景が見られるよ」


 モンパルナス駅からTGV(レイルヨーロッパ)で、レンヌ駅まで行き、バスで乗り換えていく。三時間と少しの旅だ。


 バスは農地や緑の牧草地の続く道を走る。

 牧草地では、牛や羊がのんびりと草をんでいた。バスが進むにつれ、羊の数が多くなり、やがて粒ほどの建物が見えてくる。目的地のモン・サン=ミシェルだ。

 それは次第に大きくなり、近づくにつれ見る者を圧倒する。


 モン・サン=ミシェルは、修道院を含むサン・マロ湾に浮かぶ島全体を指す。

 この湾は潮の干満かんまんの差が激しく、満潮時に島は水上にその神秘の姿をあらわすのだ。


 駐車場で車を降り、クエノン河口ダムまで歩く。

 ここは絶景スポットの一つだ。

 

「修道院がよく見えるわ! いいお天気でよかった。まるで海に浮かんでいるみたい!」


「この天気はありがたいよ。天候が変わりやすいからね。それに今日は満潮だ。本当にラッキーだよ」


 天に向かってそびえ立つ石造りの建物は要塞のようだ。

 大天使ミカエルを頂く尖塔を持つ附属聖堂を頂点として、島全体がピラミッド状の山のように見える。まさに「聖ミカエルの山モン・サン=ミシェル」だ。


 茉莉香は目に焼き付けようとするかのように、この美しい景観を見つめた。

 

「見とれるのはいいけど、足元に気を付けてね。これからキツイ階段もあるよ」


 夏樹が笑う。


「大丈夫よ! 今日は、歩きやすい靴にしたから」


 茉莉香はベージュのハーフコートに茶色のボックススカート、スニーカーを履いている。

 遊歩道を通って島の入り口から、土産物屋やレストラン、ホテルの並ぶグランド・リュを歩く。

 狭い道に観光客たちがひしめいている。


「ここが、この島のメインストリートだよ。そろそろお腹すかない?」


「そう言えば……」


 “ラ・メール・ブラール”に入る。

 モン・サン=ミシェルを背景に、女性がオムレツを焼く姿を描いた看板が目印のレストランだ。


「まあ! フライパンがたくさん」


 店内のいたるところに、フライパンが飾られている。


「ここのオムレツは、モン・サン=ミシェルの名物だよ」


 オムレツが運ばれてきた。


「うわぁ。大きい! でも、美味しそう! いただきます!」


「やっぱり、その土地の名物を食べたいよね」


「ええ。何倍も美味しく感じるわ!」


 二人は、旺盛な食欲で大きなオムレツをたいらげる。


 グランド・リュを進み、中央へ向かう階段を登るにつれ、修道院が迫ってくる。勾配はさらにきつくなり、やがて入口に到着した。


 モン・サン=ミシェル修道院は、ロマネス、ゴシックなど、様々な中世の様式が取り入れられている建築物だ。「リヴ・ヴォールト」と呼ばれる円形状の天井と、尖塔アーチが随所に見られる。

 すべての階に回廊があり、その装飾の美しさから、「ラ・メルヴェイユ」(驚嘆)と呼ばれている。

 

 階段を上って中階へ向かった。

 

 中階には『貴賓室』『騎士の間』がある。


 『貴賓室』は身分の高い賓客をもてなした部屋だ。

 柱から高い天井へ、リヴ・ヴォールトが美しい弧を描く。

 

 『騎士の間』は修道士たちが写本や細密画の仕事をしていた場所だ。


 最上階へ上がり、修道院附属教会に入る。

 

 聖堂は重厚な石造りの柱が連なり、リヴ・ヴォールトが高い天井を生み出す。

 仄暗い御堂に、クリアストリート(高窓)から光が差し込んでいた。

 

「最上階の回廊が一番きれいなんだよ。行こう!」


 回廊は、四方を二重の円柱列がずらりと取り囲み、静謐な空気が流れる。修道士たちが瞑想をして過ごした場所だ。

 二重の円柱は僅かにずれていて、見る者にこの回廊が永遠に続く錯覚を起こさせるという。

 中庭の緑が美しく、眩しい。


「中世の世界に迷い込んだみたい」

 

 茉莉香が言うと、

 

「本当だね」

 

 夏樹がこたえた。

 

 


「ここが西のテラスだよ」

 

 西のテラスは修道院礼拝堂に面したところにある。

 西はブルターニュ地方、東はノルマンディ地方など、さまざまな風景を望み、四方に海も見渡せる。

 

 

 二人は、湾が見渡せる城壁へ向かった。


「海が遠くまで見えるわ……」


 城壁にもたれると、心地よい潮風が吹いてくる。

 茉莉香の髪が風になびき、夏樹が眩しそうに見つめている。

 視線に気づいて微笑みかけると、視線をそらした。


「どうかしたの?」


 不思議なものを見るように茉莉香が尋ねる。


「あ、……いや……その……そうだ! そう言えば、茉莉香ちゃん。俺に報告したいことがあるって言っていたよね」


 少し焦ったように夏樹が言う。


「あ、そうだわ! 私ね……」


「何?」


「あのね。翻訳の勉強をもっとしようと思うの。だから専攻を翻訳科にしようと思って……。それで、ここに来る前に申し込んできたの」


「よかった! やりたいことが見つかったんだね」


「ええ。日本のたくさんの人に、フランスの素晴らしい文学を伝えたいと思うの。私ね、自分のやりたいことが見つかって本当に嬉しい。やっと、夏樹さんに追いついた気がする。まだまだ勉強しなきゃいけないことがたくさんあるけど……」


 茉莉香が目を輝かせた。


「俺だって、まだまだだよ。パリで思い知った。学校に戻ったら、まず卒業しなきゃいけないし、そのあとは建築士の試験を受けて……まだまだだよ」


 茉莉香に合わせるかのように、夏樹の口調が熱を帯びる。

 やがて二人は互いに顔を見合わせて笑った。


「でも今日はもう帰らなきゃ。最終のバスに間に合わない」


「そうね……」


 まずは当面の問題に取りかからなくてはならない。


 クエノン河口ダムで、茉莉香は名残惜しそうに振り返る。

 修道院は静かに厳かに立っていた。


「本当に綺麗。今日のことは一生忘れないわ」


 茉莉香が呟く。


 二人はモン・サン=ミシェルを後にして帰路に着いた。






 翌日、夏樹に見送られて茉莉香と前川夫妻はパリを発った。

 機内食が出されるころ、由里が話し始める。


「昨日、モン・サン=ミシェルに行ったんでしょ?」


「はい!」


「私も行ったことがあるわ」


「ステキですよね! 感激しちゃいました!」


「島のホテルに泊まって、夜のライトアップを見たの。夕暮れとともに始まるのよ。あたりが暗くなるのと入れ替わるようにライトが照らされるのよね。神秘的で幻想的……言葉では表せないわ……」


 由里がうっとりしたように言う。


「まぁ……。私も見てみたいです」


 由里はしばらく茉莉香をじっと見た後、


「茉莉香ちゃんたち偉いわねぇ」


 感心したように言った。


「えっ?」

 

 茉莉香がきょとんとする。


「うん。ちゃんと帰って来たから。門限守って。私、泊って来るかも……って」


「そ、そんな……」


 茉莉香が顔を赤らめる。


「なぁんちゃってね!」


 由里が笑うと、茉莉香は自分がからかわれたことに気づいた。

 

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