第36話 紳士協定

 

――   ……  ピピピピ  ……   ――





 アラームの音で目覚め、茉莉香は時計を見る。


「まぁ。こんな時間。疲れていたのね。ぐっすり眠ってしまったわ。なんだかスッキリしたわ」


 ぐっと体を後ろへ反らして伸びをすると、身体が軽い。


 白いサテンのワンピースに着替える。

 ドレスコードのあるレストランに行くからと、由里に言われて用意したものだ。

 木香薔薇もっこうばらの柄が織り込まれ、桜色のリボンでウエストを切り替えるデザインだ。

 歩くと、裾がふわりと風になびく。

 ラウンドネックの襟元は、茉莉香の白い首と細い肩を美しく見せ、鎖骨をちらりと除かせる。

 

「ちょっと、フォーマル過ぎるかしら? でも、今日は外出しないし、他に用事もないし……」


 鏡をみながら入念に身づくろいをする。

 長い黒髪に何度もブラシをかけた。

 よく眠れたせいか、顔色がよく頬は薔薇色で、髪の艶がいつもよりも増している。

 長いまつ毛に縁どられた瞳が黒曜石こくようせきのように輝いている。


「いやだわ。私ったら……」


 いつの間にか、自分に見とれていたのだ。

 ブラシを鏡台に置き、エメラルドの首飾りを身に着ける。

 小さな緑の石は、茉莉香の豊かな黒髪と白い肌によく映えた。

 

 そしてブレスレット……。



 やがて、家人から夏樹の訪問を伝えられる。


「今行きます!」


 茉莉香は深呼吸をした。


「落ち着いて。ここは他所の家なんだから……」


 自分に言い聞かせる。


 緩やかな、下に向かって広がる階段の先に。夏樹が立っていた。

 自分に気づき、じっと見つめている。


「落ち着いて……」


 だが、フロアに近づくにつれ、足が早まった。

 ワンピースの裾が翻る。


「夏樹さん!」


 あっという間に駆け下り、夏樹の首に抱き着いた。


「茉莉香ちゃん!」


 夏樹も茉莉香の背中に手をまわし、抱き寄せる。


「会いたかったの」


 このままこうしていたかったが……


「あ、あの……」


 困ったような顔をしてメイドがふたりの後ろに立っていた。


「すみません!」


 同時に声をあげ、慌てて離れる。



 ふたりは応接室に案内された。

 青緑色せいりょくしょく地にクリーム色の植物をモチーフにした絨毯が敷かれた部屋だ。壁際に調度品が並び、暖炉が備え付けられている。中央に磨き込まれたオーク材のテーブルと椅子置いてあった。



「茉莉香ちゃん」


 夏樹が声をかける。


 約一年ぶりの再会。ようやく会えたのだ。

 目の裏がじんと熱くなる。

 そっと手を握られ、心臓が高鳴る。


 だが、夏樹からの言葉はない。

 まるで自分に見とれているかのように、ぼうっとしている。

 茉莉香は、鏡の前の自分を思い起こした。

 


「あ、あの……来てくれてうれしいよ」


 ようやく夏樹が口を開くと、


「私も……やっと来れてうれしい……」


 茉莉香も自分の気持ちを言葉にすることができた。

 父親を説得して、ようやく実現した再会なのだ。


 メイドがお茶とお菓子を持ってきた。


「それにしても、茉莉香ちゃん凄いところに泊っているね」


 夏樹が天井を見上げながら言う。

 

「私の部屋も素敵なの。どこかの国のプリンセスが、お忍びで滞在した時に改装されたのですって……私には、もったいないわ」


 夏樹の言葉に、茉莉香もようやく普段の笑顔が戻る。

 だが、再会の喜びに浸り続けるわけにはいかない。

 茉莉香には使命があった。


「あ……のこれ……」


 封書を渡す。


「ああ、茉莉香ちゃんのお父さんからのね」


 夏樹は事前に茉莉香から伝えられていて、覚悟はしていた。……が……


「1.学校は休まないこと。2.仕事のあるものはそれを疎かにしないこと。……」


 条件はまだまだ続く……

3.門限は6時

4.1時間おきに、由里さんと自分に交互に連絡を入れること。

5.ムーランルージュなどの遊興施設に行かないこと。

6.異性の住まいに行かないこと。

7.二人きりで、人気のないところにいかないこと

8.人混みは避けること。

9.風紀上好ましくないところにいかないこと。

10.お酒は飲まないこと

11.挑発的な服装はしないこと

12.……

 まだまだ続く……。


「ひぇー! 俺、どんだけ茉莉香ちゃんのお父さんに嫌われてんだ?」


「ごめんなさい」


 茉莉香がすまなそうに言う。


「1と2は当たり前だけど、3と4は厳しいな。5は門限6時だと無理だよ。6はそんなことしたら、俺が大家にたたき出される。あの婆さん、女を連れ込むなんて絶対に許さない。7からは、なんかなぁ……。俺はケダモノか?」


「パパったら意地になっちゃて……」


 別れ際の、今にも泣き出しそうな父親の顔を思い出しながら茉莉香が言う。


「いいよ。茉莉香ちゃんのことが心配なんだよ。俺も茉莉香ちゃんのお父さんに認められたいな」


 父は夏樹を嫌っていない。数度会っただけだが、確信のようなものがある。

 夏樹も、父の要求を飲むことで信頼を得ようとしているようだ。

 自分に関して、まるで二人の間で協定を結ぼうとしているように見える。


「茉莉香ちゃん。来てくれてうれしいよ」


 夏樹が静かに言う。


「私、どうしても来たかったの。来月になれば、あなたが日本に帰ってくるのはわかっていたけど、どうしても、今、来たかったの」


 そうしなくてはならない。

 茉莉香はそんな風に思っていた。


「明日は日曜日だから、一緒に出かけよう。どこに行きたい?」


「ふたりが初めて会った場所は?」


 サンジェルマンのカフェである。


「えっ? あそこ?」


 夏樹が照れくさそうに頭を掻いた。


 彼にとっては、気恥ずかしい思い出もあるだろう。


「ええ」


 茉莉香が笑顔で言う。


 二人は明日の午後、サンジェルマンのカフェで待ち合わせることになった。





 



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紳士協定

書面を取り交わすなどの形式的な手続きは取らないで、互いを信頼して結ばれる協定です。暗黙の了解とか、不文律のことですね。

この場合書面にされていますが、守ることで信頼を得ると言う意味合いで使用しました。(#^.^#)


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