第21話 夏休み 2

「じゃあ、岸田さんよろしくお願いします」


 亘は、丁寧にあいさつをする荒木を見送った。


「さてと……店の様子でも見に行くか」


 亘は、マンション内の通路を通って店に入っていった。

 入荷したばかりの、ダージリンの夏摘みの状態をチェックするためだ。

 夏摘みはダージリンの中でも王道と言えるだろう。亘は、この風味の豊かな茶葉を特に好んでいる。


 ふと、入り口に人影を感じて振り返ると、義孝がいた。


「義孝君。les quatre saisonsは夏休みだよ」


「茉莉香は?」


「茉莉香ちゃんは別のバイトに行っているんだ」


「ふーん」

 

 義孝はつまらなさそうに、周囲を見渡し、カウンターにある一冊の本に目をとめ、手に取った。


「これ何?」


 義孝が、好奇心に満ちた目で本を見つめている。

 荒木に依頼された監修の資料として使ったものだ。彼も目を通すかもしれないと思い貸したが、その様子はない。


「ねぇ。この本なに?」


 義孝の目は、いつになく真剣だ。


「これはね、君にはまだ早いよ」


 亘が、本を受け取ろうとするが、義孝は手放さない。

 

 義孝の読むレベルでないことは確かだが、いたずら好きの子どもに大事な資料を汚されてはたまったものではない。

 

 亘は、今度は強引に取り上げようとするが、本を引っ張る力は一層強くなる。目をぎらぎらとさせて、執拗に食い下がってくる。

 

 狼の子どもから餌を取り上げると、こんな風になるのだろうか?

 亘はそんなことを考えた。


「まぁ、しょうがない。そのかわり汚したら、もう二度と店に入れないからね」


 諦めるしかない。


 茶葉の点検が終わると、亘はダージリンを飲み始めた。

 義孝は、身じろぎもせずに本を読んでいる。


 理解できるはずもないのだ。荒木も決して無知な人間ではない。その彼が読む前から匙を投げのだ。義孝が音を上げるのが当然だろう。


 だが、義孝は読み続けている。

 時計が刻々と時を刻む。

 亘は、二杯目のダージリンを淹れ、厨房にある椅子に座って飲んだ。


 暑い夏の日が暮れようとしている。

 





 亘が義孝に声をかけた。


「どうだい?」


「わからない」


 義孝が悔しそうに言う。


「それはしょうがないよ。その本は知識がないと読めないんだよ」


 義孝が、一瞬、はっとしたような表情をした。


「でも……わかりたいんだ。この本に何が書いてあるか!」


 亘は、真摯な情熱に目を輝かせている義孝を見た。


「じゃあ、ちょっと待っていて」



 まもなく戻ってくると、義孝の持っている本と交換に、二冊の別の本を渡す。

 一冊を右手に、もう一冊を左手に持たせた。


「君が右手に持っているのが、さっき君が読んだ本をもう少しわかりやすくしたものだ。それから、左手の本は、右手に持った本の解説書みたいなものだな。参考書みたいに使うんだ」


 義孝が、新しく渡された二冊を食い入るように見つめている。


「それでも理解できないはずだ。だから、質問したいことがあったら、まとめて、僕に聞きに来るといい。時間があれば教えてあげる」


 と、言うと、


「本当!?」


 義孝の目が輝いた。


「ああ、いいよ。その代わり、約束してくれ。学校に戻るんだ。ご両親に話をつけてもらいなさい。君にはまだ、同じ年頃の友だちが必要なんだ」 


 義孝がうなずく。


 次の日、亘がles quatre saisonsに行くと、義孝が現れた。

 テーブルについて、例の二冊の本を読みはじめる。

 

 亘は、ひとり厨房でダージリン淹れた。

 夏摘みの芳醇な香りが厨房に漂い、その深い渋みを堪能する。

 時間がゆっくりと流れていく。



 ふたりの夏休みは、そんな風に過ぎていった。










 




 


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