第8話 プライド
夏樹は家主から安く自転車を譲り受けた。
これがあれば、学校、職場、住居を移動するのに十分だ。メトロを使うよりも時間が短縮されるし、費用も節約されるのでありがたい。
カルチェラタンから事務所へは、セーヌ川沿いの道を通っていく。
シテ島を背中にして、ルーブル美術館、オルセー美術館に挟まれるように走り抜け、アレクサンドル三世橋を渡るとシャンゼリゼ通りだ。
風をきってペダルを踏めば、
「最高だぜ!」
思わず鼻歌を歌いたい気分になる。
そんな毎日でありながら、夏樹は近頃、煩わしいアクシデントに悩まされていた。
「えっ? 講義が前倒しになる? 聞いてないよ」
教えてくれたのは、気のいいステファンだ。
「そう? 先週、受講生に周知されたはずだけどな」
「教えてくれてありがとう。ちぇ! 早く準備をしなきゃ」
その日はたまたま、図書館で自習をするつもりだったのでテキストは持っていたが、コンパスが壊れたままだった。慌てて購買部に駆け込む。
そのまま教室に駆け込み、事なきを得た。
「やばかったな。ステファンには礼をしなきゃ」
講義が始まって間もなく、教室に入って来る者がいた。
「シモン・ルメール! また遅刻か!」
教授は不機嫌そうに言う。
「すみません」
太った、おとなしそうな学生が頭を下げた。
大きな体をかがめる姿は、どことなく滑稽に見えるのか、周囲からくすくすと笑う声が聞こえる。
「こら! 君たちが笑うことはないんだぞ!」
教授の声は、さっきよりも不愉快そうだ。
「席に着きなさい」
シモンと呼ばれた学生を憐れむように言う。
その後、夏樹は何度も同様のトラブルに見舞われた。
今回のような、時間変更の連絡が滞るほか、必要な教材を購入するための指示が回ってこないこともある。
「こりゃ、自分で気を付けるしかないな」
ステファンのもとには支障なく連絡がくるようなので、彼に確認することにした。
ところが、いつまでも災厄が去らない者がいた。
シモン・ルメールの状況は一向に改善される様子がない。彼は相変わらず、遅刻や忘れ物が続いている。彼のところにも連絡が行かないようだ。
夏樹の中に、何かがむくむくと湧き上がってくる。
シモンを捕まえ、
「おい! おまえ! いい加減に学習しろよ! 連絡網が機能してないんだよ」
と、言うが、下を向いてもじもじするだけだ。
「ああ! これからは、俺と一緒に行動しろ! いいな!」
シモンは怯えたように自分を見ているが、夏樹にはその理由が理解できない。
何かがある。
夏樹は確信した。
その日、三人の学生が何やらうきうきと教室に入っていく。
彼らの表情は、悪趣味な好奇心を満ちていた。
が、
「あれ、誰もいないぜ」
「ほんとだ。シモンもいない」
当てが外れてがっかりとした様子だ。
彼らは自分たちの背後に人が近づいていることに気づかない。
「お前らだったのか……。連絡を滞らせたのは……」
怒りを抑えた声が低く響く。
「夏樹!」
振り返った三人は、驚きの声をあげる。それは悲鳴に近い。
「なんで、こんなことを……」
言いかけて、見知った顔に目が留まった。
「ピエール? なんで、お前が?」
夏樹の声が怒りから驚きに変わる。
彼は夏樹が来るまで、ガスパール・デュトワの事務所で働いていた学生バイトだった。
「お前が、汚い手を使って俺のバイトを取り上げたからだ!」
「は? 何が汚い? 仕事を放棄したのはお前の方だろう!」
夏樹は事態を飲み込んだ。ピエールは夏樹と入れ替わりにバイトを解雇されている。
自分が面倒から逃れるために、見ず知らずの人間に受話器を預けたのだ。当然の結果だが、本人は納得できていない。
学生たちのがやがやと話す声が近づいてきた。なにやら、ぶつぶつと不平を言っている。
「ああ、来た。来た。講義に支障はなさそうだな。あの教授は遅れることが多いからな」
「何をした?」
ピエールが青ざめた顔で言う。
「ああ、ちょっと細工をしたよ。講義が下の二階の教室に変更になったっていう情報を流したんだ。おそらく俺とシモンには連絡が来ない」
三人は自分たちが逆に騙されたことに気が付いた。
「学生は五分前には席に着くから、犯人が自分のしかけた罠の成果を確認するぐらいの時間はあるわけだ」
夏樹の目が鋭く光る。
「当然、犯人は間抜けの顔を見たくなるよな。それで、ここで待っていたんだ」
直前に教室の移動をさせられた学生たちが周囲に集まってきた。
何事が起っているのかと、四人を取り囲み始める。
「おい! 話が違うじゃないか? 夏樹がお前を騙したって言ったじゃないか」
泣きそうな声で、三人のうちの一人がピエールに訴える。
学生たちの視線が集まった。
ピエールは完全に味方を失い、下を向いて震えていたが、顔をあげると嘲るように言った。
「は! お前、昔、大工だったんだってな! ガスパールも親父が大工だから気が合うんだろうよ!」
「最低だな。あんた」
自分のことはともかく、建築家が大工の父親を持つことに、何を恥じる必要があるのか?
夏樹は冷静だ。
怒りよりも嫌悪感で胃がむかむかする。
それにしても、自分の経歴を、何故こいつが知っているのか?
(日本人留学生か……)
同じ日本人が……と思うが、彼らとよい関係を結んでいないので仕方がないだろう。
ピエールは腹立たしいが、係わるのも汚らわしい。
が……無駄な労力を払わされたことに対して、少しばかり気晴らしをしてはいいのではないか?
「ああ、確かに、俺は大工だったよ。だけど、実際に人の住む家を建てる経験ができてよかったと思う。おかげで入れないトイレのある家を設計せずに済んだからな。あれは体に悪そうだ!」
四人を取り囲んだ学生たちが、一斉に身をかがめて下を向いた。体が小刻みに震えている。笑いをこらえているのだ。
ピエールが、住むことが不可能な家や、構造上問題のある建物の設計をすることは、暗黙裡に知れ渡っていた。教授たちも、すでに匙を投げている。特に、夏樹の言う、“入れないトイレのある家”は密かに語り草となっていた。
ピエールの青い顔は、みるみるうちに真っ赤になった。体は震え、今にも卒倒しそうだ。
「ちくしょう!」
最後の力を振り絞って殴りかかるが、
「おっと!」
夏樹は、ひらり身をかがめてかわす。
ピエールがバランスを崩して倒れ込んだ。
「お前は頭でっかちなんだよ。実際に家に人が住むイメージができてないんだ!」
追い打ちをかけるように夏樹が言う。
「なんだ! 喧嘩か!」
学生たちが、わっと騒ぎだした。
はやし立てる者、止めに入る者……。
廊下は騒然とした状態となった。
「こら! こんなところで何をしている。講義の時間だぞ!」
いつの間にか、怒りで顔が紅潮させた教授が背後に立っていた。
「早く教室に入りなさい!」
学生たちは興奮している上に、教授は彼らの態度に憤懣やるかたない。
講義が、正常な状態で行われるまでに時間がかかった。
その日の講義が終わって、夏樹は家路につこうとしていた。
今日はバイトもない。
背後から弱々しい声がする。
「あ、あ……あの……」
振り返ると、シモンがいた。
図体がでかくて気の弱いところは、将太を思い出させる。
「なに? 面倒はごめんだぜ。早く帰りたいんだ」
「ごめん。僕、君の事……疑って……」
「ああ、いいんだよ」
「でも、お詫びとお礼がしたいんだ」
「そんな事いいよ。それより、もう騙されるなよ」
「でも……」
係わりたくないと思う。パリにまで来て、手のかかる人間の相手はごめんだ。
「やっぱり、お礼をしたいんだ。あの……叔母さんが、パリで食堂をやっているんだ」
夏樹の足が止まる。
そう言えば腹が空いてきた。
「すごく美味しいんだよ?」
「……」
お礼だと言っているのだ。一度くらいならいいかもしれない。
「まぁ、食べてやってもいいか……な……?」
「本当!?」
シモンの顔がぱっと明るくなった。
「しょうがない。お礼だろ?」
夏樹が渋々言う。
「よかった! 美味しいんだ。きっと気に入るよ」
「一度だけだって言ってんだろ!」
二人はシモンの叔母が経営する店に向かって、歩いて行った。
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