第5話 カラボスの息子

 その日、久しぶりにles quatre saisonsに出勤した茉莉香を、由里がケーキを用意して待っていた。


「ニルギリに合わせて、ダイレクトに果物を感じられるケーキを作ったの。苺のタルトに洋梨のシャルロット、それから果肉たっぷりのオレンジババロアよ」


 由里がテーブルにケーキを並べる。


「キャー!」


 茉莉香が歓声をあげる。


「今日は全部食べてもいいのよ」


「嬉しい! どれから食べようかしら。迷っちゃう」


 茉莉香は色とりどりのケーキの前で嬉しい悲鳴をあげている。


「今日は茉莉香ちゃんの快気祝いよ!」


 由里が言うと、


「そうそう。元気になったみたいで安心したよ」


 亘が言う


 まず、オレンジババロアをスプーンで口に運ぶ。


「クリーミーで甘酸っぱくて美味しい!」


 その後サクサクの苺タルトを頬張り、合間に茶を飲む。

 

 ニルギリは南インドの高地で栽培される茶葉で、クセのない爽やかな風味と、かすかな花香が特徴だ。ニルギリの風味はフルーツケーキによく合う。


「えっと、あとは……」


 茉莉香は、洋梨のシャルロットに目を向ける。


 洋梨のシャルロットは、由里自ら生の果実をシロップ漬けしたものを使っている。表面には薄切りした洋梨が美しく盛り付けられ、王冠のようなビスキュイが果肉入りのババロアを囲む。


「どうしよう……切り分けるのがもったいないくらいきれい……」

 

 茉莉香が迷っていると、


「どうぞ。どんどん切ちゃっていいわよ」


 由里が笑顔ですすめる。


 les quatre saisonsの店内は、茉莉香の回復を喜ぶ空気に満ちていた。




 そのとき扉が開き、一組の母子連れが来店した。

 店の開店時間には、まだ三十分ほどある。


「すみません。今日はまだ開店してないので……」


 と、言いかけて由里の言葉が止まった。


「岩下さん? それに義孝君」


 ついさっきまでのお祝いムードは一気に冷め、冷たい風が吹き込んでくるようだ。


「お久しぶりです」

 

 岩下玲子は形だけは丁寧にあいさをする。

 彼女は茉莉香が密かに“カラボス”と呼んでいる由里のママ友で、予約制の試飲会に招待状なしで乗り込んできたことがある。

 そのときの張り詰めた空気が、再びles quatre saisonsを支配した。


 浅黒い肌に彫りの深い顔立ち、少なくとも170センチはあるだろう。すらりとした立ち姿は、中学生の子どもの母親には見えない。

 考えが読み取れない冷ややかな眼差しから、何か面倒なことが起こりそうな予感がする。

 

 息子の義孝は小学校時代に学級崩壊を起こした張本人で、その一味と中学が一緒になることを恐れた由里が長男を私学に受験させた経緯いきさつがある。当の義孝は有名進学校に入学した……はずだった。


 が、


うちの子を預かって欲しいんです」


「えっ?」


 突然の申し出に、由里が聞き返す。

 

「実は、義孝が授業中に質問をしていたら、先生がノイローゼになってしまったの。授業に出なくても出席したことにするから、しばらく休んで欲しいって言われちゃってね。今時の教師って本当にだらしないわね」


 話を続ける玲子の表情は変わらない。


「教師だけではなく、クラスメイトの同意もあるの。学校ぐるみで、いない生徒をいるがごとく扱うということでしょうね」


 まるで他人事のようだ。


「そ……それは大変ね。でも、どうしてここに?」

 

 由里には、自分が義孝をあずかる理由がわからない。

 義孝のせいで、les quatre saisonsは危うく閉店に追い込まれるところだったのだ。店と由里にとって、彼は天敵と呼べる存在だ。


「ここなら見咎みとがめられないと思ったの。ほら、その子も以前バイトしていたじゃない」


 と、言いながら茉莉香に目を向けた。

 茉莉香の顔がさっと青ざめた。

 足がかすかに震えている。

 亘がそっと茉莉香の前に立ち、玲子の視線を遮った。


 そんな様子に玲子はまったく頓着しない。

 

「学校が終わる時間になれば、塾や習い事に行くから、それまででいいのよ。週2、3回。家に閉じ込めておくわけにはいかないし、かといって外出されても困るの。中学生が、昼間からぶらぶらしていたら補導されてしまうでしょ? あと、ここの食事だけだと栄養が偏るから、弁当を持たせるわ」


 一方的に要求を突き付けてくる玲子に、由里が気力を奮い起こして抵抗を試みる。


「でも、食べ物の持ち込みは……」


 だが、玲子は由里の憤りを気にかける様子もない。


「厨房で食べることを認めていただけますか?」


 二人の会話に亘が入り込んだ。


「あら、しょうがないわね。じゃあそれでいいわ」

 

 玲子は仕方なさそうに言うと、義孝を置いて帰って行った。




「亘さん? 何を言っているの?」


 由里は、玲子にぶつけられなかった怒りを亘にぶつける。


「まぁ、まぁ、あの人、由里さんの家の近所に住んでいるし、あと、あそこまで計算づくのひとを敵に回すのも……」


 由里は、渋々ながら納得したようだった。




「君はいくつだい?」


 亘が尋ねると、


「十三歳です」


 小柄で年齢よりも幼く見える少年が答えた。


 義孝は母親の玲子に似ていた。顔立ちは彫りが深く、瞳は黒目がちだ。モデルのような体形は母親から受け継がなかったようだ。


「よろしくお願いします」


 挨拶をする姿は礼儀正しく、学業優秀という噂通り賢い子どもに見える。


「学級崩壊を起こした張本人には見えませんが……しばらく様子をみませんか?」


 由里の耳元で亘が言うと、僅かに顔をしかめて頷いた。

 

「はじめまして義孝君。なにか飲むかい? オレンジジュースもあるよ」


 だが、少年は亘を無視して茉莉香に顔を向けた。


「お姉さん。名前は?」


 茉莉香に話しかける義孝は、無垢な子どもそのものだ。


「茉莉香よ」


 玲子が去った安堵感と、義孝の子どもらしい態度に茉莉香の緊張は解けていた。


「ねぇ。“茉莉香”って呼んでいい?」


「義孝君。年上の人を呼び捨てるのはどうかと思うよ」


 亘が穏やかにたしなめる。


「え? 茉莉香ってステキな名前じゃないか。“ちゃん”をつけたら子どもっぽくなるし、従業員に“ちゃん”をつけるのはセクハラだよ!」


 セクハラ呼ばわりをされ亘はひるんだ。

 だが、一見筋が通っているようだが、それ以前に、年上の人間を呼び捨てるのは、道義的にどうなのかと反論をしようとしたが、大人げないと思いあきらめた。

 

「亘さん。私は平気よ」


 茉莉香が笑顔で言う。彼女には、義孝がかわいい少年にしか映らないようで、由里や亘の戸惑う姿を不思議そうに見ている。


「ほら!」

 

 義孝少年が誇らしげに言う。

 

 亘は、自分たちがとんでもない子どもを押し付けられたことを悟った。


 こうしてles quatre saisonsでは、カラボス義孝を預かることになった。

 


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