第20話 フレンチ・レッスン

 ここはles quatreカトル saisonsセゾン。その日、夏樹は由里から呼び出しを受けていた。


「えーっ!? そんなことがあったの? なんで呼んでくれなかったのよ!」


 茉莉香と沙也加の和解した話を聞いた由里が不機嫌そうに言った。


「そんなこと言ったって。見世物じゃないんですよ」


 亘が呆れたように言う。


「それよりも、北山君を呼びつけた理由を早く話したらどうですか?」


「ああ、そうだったわね。夏樹クン。この前会った本田さんってカメラマン覚えている?」


 カメラマンの名は本田佳治という。由里が今回出す本の写真を撮影した。

 夏樹は、柔道をやっていたという体格のいい男を思い出す。


「本田さんがね、十二月にイタリアとフランスに行って撮影をするのよ。最近、アシスタントの人が辞めちゃったから夏樹クンはどうかって言ってきたの」


 本田は体育会気質というのだろうか、今回、将太のことで夏樹が骨を折ったことにひどく感激したという。


「僕はねぇ、仕事を一緒にするなら、男気のある人間がいいんだ。友だちのために借金までするなんて、立派だと思うよ」


 と、言ったらしい。


「でも、俺、写真のことはわからないですよ」


「いいのよ。前の人も写真の専門家ではなかったの。バイト代のほかに、旅費や、向こうでかかる生活費も全部出すって言っているの」


 こんな夢のような話があっていいものだろうか? ヨーロッパの建造物が本田と一緒に見ることができるのだ。彼と同行すれば、また違った視点から見ることができるかもしれない。

 しかもタダだ。


  夏樹は狐につままれたような気持になった。だが、樋渡事務所での仕事もある。


「樋渡さんのバイトの件は、亘さんが話をつけてくれるわよね?」


 由里の思い付きに亘が勝てるはずもなく、首を縦に振った。


「あ、でも、条件があるの。フランス語とイタリア語が、日常会話ができる程度にできることなの」


 夏樹は現実に引き戻された。そうそう美味しい話があるはずもない。


「フランス語ならば私が教えます!」


 茉莉香が名乗り出た。目がキラキラと輝いている。


「あら、よかったじゃない。あとは、イタリア語だけど、自分でなんとかすれば?」


 何とかしろと言われて、どうすればいいのか夏樹が答えを見つけられずにいるうちに、


「問題がないならば、これで決まりね!」


 由里が上機嫌で言う。


 バイトの話はあっという間に決まった。

 

 

 

 

 その日から、茉莉香のフランス語の特訓が始まった。


「こんにちは。はBonjour.ですよ。言ってみてください」


「ボンジュール」


「すごーい! いっぺんで覚えちゃいましたね!」


 茉莉香は褒めて教えるタイプなのだろう。だが、それは夏樹にとっては恥ずべきことだった。彼のような人間は、はっきりと問題を指摘されるほうが気が楽なのだ。

 そのうち、犬や猫の絵の描いたノートに、ChienだのChat書いた絵本が出てきたり、未希用に作ったようなマニュアルを差し出されれば、憤死してしまうだろう。


 だが、それは杞憂に終わった。




「茉莉香ちゃんごくろうさま」


 と、亘が言うと、


「いいえ。もう、夏樹さんは教材を貸せば、一人で勉強できると思います」


 と、茉莉香が太鼓判を押す。



 フランス語のレッスンは業務終了後のles quatre saisonで、亘の立ち合いのもとで行われた。


 一対一のフレンチ・フランス語のレッスン授業である。距離が自然と近くなる。

 

 目が合った瞬間、茉莉香の顔が赤らんだ。


「あれ、茉莉香ちゃん顔が赤いよ」


「え?」


 茉莉香が、ポーチから手鏡を出してのぞき込む。


「本当だわ」


「風邪かな? 寒くなってきたから気を付けないと」


「じゃあ、温かいチャイでも作ろう」


 亘が、チャイを運んできた。シナモン、カルダモン、クローブの香りが漂う。


「体が温まりますね」

 

「熱いから気を付けて飲んで。茉莉香ちゃん」




 若いふたりが無邪気に戯れる姿は、見ている者の気恥ずかしさをいたずらに刺激する。

 このばかばかしさが、亘を辟易とさせていることを彼らは知らない。


 レッスンが終わると、それぞれが帰路に就いた。




 

 夏樹が自分のアパートに戻ってすぐに、茉莉香からラインが来た。


 “今週の金曜日に会っていただきたいのですが?”


 “大丈夫”

 

 “じゃあ、午後七時に駅前の喫茶ラフォーレで未希さんと3人でお茶をしませんか?”

 

 “OK”

 

 ラインは終了した。

  

 大学の勉強のほか、語学の勉強やバイトに追われて夏樹は疲れ切っていた。

 茉莉香が誘った理由を考えることもなく、眠りについた。





 金曜日“喫茶ラフォーレ”で待っていたのは、未希一人だった。


「あれ? 茉莉香ちゃんは?」


「あの、急に来られなくなって。今日は私一人なの」


「ああ、そう」

 

 夏樹は、最近は茉莉香と頻繁に会っているので、今回来られなくても、それほど失望することはなかった。それに、たまには未希と話をするのも悪くないと思う。


「芝居はどう?」


「うん。この前、劇団に来た芸能プロダクションの人からスカウトされて、事務所に所属することになったの」


 未希が芸能事務所の名前を告げる。


「すっげえ! 大手事務所じゃん。やったね!」


 夏樹はこのよい知らせに心底喜んだ。


「これからはね、いろんなことにチャレンジしてみようと思うの。ドラマとかCMとか、いろいろオーデションも受けるつもり」


「うん。うん。仕事の幅を広げるのはいいことだよ。やってみないとわからないし」


「夏樹君も頑張ってるよね。フランス語もすごく上達したって茉莉香ちゃんが言ってたわ。勉強が好きなのね。高校行かないで大学に入学したし」


「いやぁ、たまたまだよ。親方に命令されて、断れなかったんだ」


「それに、将太君のこともすごく面倒見ているし」


「腐れ縁みたいなものかな? 厄介なお荷物だよ」




 未希からの質問が途切れると同時に、二人の間に沈黙が訪れる。

 それを未希が破った。


「私ね。夏樹君に、お芝居のことで、すごくダメだしされた時に傷ついたの」


 夏樹は、冷や水を浴びせられた思いがした。あの居酒屋で酔っ払ったときだとすぐに思い当たった。


 未希は恨み言を言うために呼び出したのかもしれない。それならば、謝る覚悟はできている。


 ところが、


「私、夏樹君が好きなの」


 夏樹には居酒屋で自分が何かをやらかしたらしいことと、今の言葉を結びつけることができない。


「夏樹君は私のこと好き?」


「ごめん」


 夏樹は予想とは違う理由で謝ることになった。


「茉莉香ちゃんが好きだから?」


「違うよ、彼女とは、店員と客の関係だよ」


 再びやって来た沈黙を夏樹は恐れる。未希は下を向いているので表情が読み取れない。




「……つき」




 うつ向いたまま何か言っているようだ。




「……そつき」



「えっ?」



 夏樹が聞き耳を立てる。




「うそつき」


 うつ向いたまま、低くうめくように言う。


「嘘つき! って言っているのよ!」


 未希がいきなり大声を出した。発声練習で鍛えられた良く通る声だ。店中の人間がこちらを見ないふりをして見ている。



「嘘つき! 嘘つき! 茉莉香ちゃんのこと付けてきたんでしょ! このストーカー! 客と店員? 本当にそんなことで満足しているの?


 あなたって、いつも言いたいことを言っているようでいて、本当に大事なことは絶対に言わないわよね!


 なんで?


 傷つくのが怖いの?


 茉莉香ちゃんがお嬢様で、自分が孤児みなしごだから、引け目を感じているの?


 はっ!! 小さい!  がっかりだわ!」




 夏樹は唖然とした。固まったまま言葉も出ない。

 未希は続ける。



「私ね。夏樹君にダメ出しされた時、傷ついたけど、嬉しかった。自分の問題に向き合う機会をくれたから。


 でも、あなたは、人には辛辣なことを言っても、自分の本音は絶対に言わないのね!」


 いつもの快活でさっぱりとした未希とは別人のようだ。



「親方に断れなくて、大学に行った?


 嘘つき!!


 高校行きたかったんでしょ? 勉強したかったんでしょ?


 大学に行きたかったんでしょ!? なんで、嘘をつくの?」


「将太君がお荷物?


 嘘つき!


 偏屈なあんたを受け入れてくれるのが将太君だけだったんでしょ?


 将太君に見放されて、ひとりぼっちになるのが怖かったんでしょ?


 ただのチキンのくせになに恰好つけてるのよ!」




「嘘つき! 嘘つき!」


 未希の声はどんどん大きくなり、泣き声のようになった。

 

 そして、しまいには、テーブルにあったレモン水を水差しごと夏樹の頭にぶちまけて、店を出て行ってしまった。



 夏樹には、なにが起こっているのか、なぜ、自分がこんな目に合わされるのかがわからない。

 顔に張り付いたレモンをはがしながら、理由を考える。そして、ことの発端は、茉莉香が自分に嘘をついて未希との仲を取り持とうとしたことだと思い立った。






  一方、茉莉香は自室でひとり考えごとにふけっていた。何にも手を付けることができず、本を開いてはいるが、一行足りと読むことができない。


 今頃、未希は夏樹に打ち明けているはずだ。夏樹はどう答えるだろうかと考えると、なにか塊を飲んだような気持になる。


 そのとき、スマホの呼び出し音が鳴った。夏樹からのものだった。


 なぜか怒っているようだ。


「もしもし」


  茉莉香が静かに言う。


「茉莉香ちゃん? なんであんなことしたんだ?」


「あんなことって?」


「どうして、未希さんと俺をだまして引き合わせたんだ?」


「嘘をついたことを怒っているの? それだったらごめんなさい」


「そんなことじゃないよ」


「じゃあ、なに?」


「二人で会わせるようなことをしたことだよ」


「未希さんと二人で会うのが嫌なの? それだったらごめんなさい」


「そうじゃないよ!」


「未希さんが嫌いなの? そうだったらごめんなさい」


「そうじゃないよ!」


「好きなの?」


「違うよ!」


「嫌いなの?」


「違うよ!」


「告白されてOKしたの?」


「してないよ! 断ったよ!」


 その時、夏樹のスマホの電池が切れ、会話が途切れた。



 茉莉香は、突然の電話に混乱したものの、直前までの重い気持ちが軽くなっていることに気づいた。


 夏樹は未希の申し出を断り、自分のキューピッドとしての役割は終わったのだ。

 責任から免れた解放感から来るものだろう。

 ほっとした思いで床についた。

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