第13話 フォルトゥーナの靴  -3つの道-

「亘さんチェックお願いします!」


 未希が声をかける。


 亘は未希の淹れた紅茶をテイスティング用のカップ二つに入れて、未希と同時に飲む。


「OK。早くお客様にお出しして」


  最近、未希も茶を淹れるようになった。いつもは砂時計を客に渡して、客が自分で淹れることになっていたが、慣れるまではと、チェックをしたあと、すぐに飲める状態で客に提供することになった。一杯目は彼女が給仕する。

 未希がカップに注ぐ姿は実に絵になり、客たちはこぞって撮影に励む。

 


 本人も


「どうぞ! 肖像権は放棄してますから!」


 サービス精神旺盛である。

 


 これからは未希に任せても大丈夫そうだ。自分が確認する必要はないだろう


 今の未希のサービスは写真撮影だけではない。未希がウヴァの魅力を伝えると、爽やかな香りと、心地よい渋みをすでに味わっているような気分になった客からの、注文が殺到した。

 

 この茶葉が、いかに希少であるか、les quatre saisonsのブランド社長自らスリランカへ赴き、いかに苦労して仕入れたかを聞きながら飲むと、いっそうありがたいものに感じられる。

 やや大げさにも見えないこともないが、少年のような涼やかないでたちの未希が身振りを加えて話すと、それは短い芝居のようだった。

 もともとは、未希の淹れた茶の点検のために、亘とふたりでティスティングをした後、なにげなくひとことを言い合うことを続けた結果だった。

 

 未希はかなり紅茶に詳しくなっていた。

 このことは、亘にしても、未希にしても思わぬ展開であったであろう。


 加えて亘は思う。

 紅茶の知識を得たことだけが理由ではないだろうと。

 未希は巧みに言葉を選んでは、茶葉の説明をする。

 おそらく、もともと言葉に対するセンスがよいのだ。

 

 ケーキや焼き菓子の説明も秀逸で、客たちにはすべてが魅力的に思え、一つを選ぶことができなくなってしまった。結果、二つとも注文したり、テイクアウトをすることになる。


 

「茉莉香ちゃんは新しいお仕事慣れたかしら?」


 忙しい手を一瞬止めて、未希が言う。


「そうだね。たぶん大丈夫だよ」


 亘がこたえた。





 一方、茉莉香は由里のアシスタントをしている。


 由里の家を初めて訪れた茉莉香は感嘆の声を上げた。


 由里の家は住宅の並ぶ緩やかな坂を上る途中にある。ついでに言うと、上り詰めたところに茉莉香の通う大学がある。


 門から庭木に囲まれたアプローチを通ると、白を基調とした瀟洒しょうしゃな邸宅に辿り着く。ここには、数年前まである国の外交官が住んでいたという。

 

 玄関を入ると廊下を挟んで居間がある。これは来客用のもので、引き戸の扉は開けた状態になっている。隣の家族用の居間と続いているが、普段は扉が閉められていて、パーティーの時などは開けて二間をつなげた状態で使うという。

 

 家族用の居間はキッチンとつながっている。


「ステキ!」


 シンクやオーブンが壁に沿ってあり、中央に立派な作業台がある。ここで簡単な食事もとれそうだ。オーブンは備え付けの立派なもので、これで由里はケーキや焼き菓子を作ってles quatre saisonsへ届けるのだ。


 前川氏の書斎は、廊下を挟んで居間の向かいにあり、二階は家族の寝室である。

 由里のワーキングスペースは、家族用居間の一部を改造したものだ。


「茉莉香ちゃんはね……」


 キッチンの横にある小さな部屋へ案内する。


「かわいいお部屋!」


 思わず声を上げる。


「でもね……」


 由里はちょっと困ったように笑いながら、入り口の扉の上の方を指さした。

 外側から鍵がかかるようになっている。


「ここね。昔、メイドさんのお部屋だったの。外側から鍵なんてねぇ……でも、大丈夫よ。私たちは使っていないから」


 鍵の存在は謎だが、とにかく清潔で明るい部屋だ。

 

 窓のそばにあるライティングビューローはデンマーク製だという。ソファーはベッドを取り外して置き直したものらしいが、そこで横になることもできそうだ。その前には、小さなテーブルがある。手荷物や着替えを置くためのクローゼットがあり、小さな冷蔵庫もある。


「ここなら私のスペースからも近いし、集中するときは集中できるからいいと思うのよ」


「はい! がんばります。こんなステキなお家で働けるなんて幸せです」


「あら、亘さんのご実家はこんなもんじゃないわよぉ」


 この家よりも立派な亘の実家……サラリーマンの家庭に育った茉莉香には想像のつかない世界だ。




 アシスタント業務とはいえ、茉莉香の仕事は多岐に渡る。編集者やカメラマンとのやりとりや、日程調整、資料の収集、編集者へ渡す前の原稿のチェックや銀行の支払い、来客応対をすることもあった。


 だが、目まぐるしく忙しいというわけでもなく、自由に過ごす時間もあり、空いた時間で宿題をすることもあった。


 新しい環境を茉莉香は楽しんだ。マルチタスクは嫌いではないし、仕事そのものにも興味が持てる。カメラマンに依頼をしてはいるが、茉莉香のとった写真も何枚か採用されることになったのはやはり嬉しい。

 

 由里が出版する予定の本のタイトルは『あなたと紅茶』である。

 これは由里の渾身の作品だ。

 

 平易で簡潔な文章からは、由里が奥深い紅茶の世界を、一般の愛飲家にもわかりやすいように書こうとする心遣いが感じられる。

 また、なにげなく飲んでいた人たちも、あらためて興味を持つようにいざなわれるであろう。


 本のすばらしさに茉莉香はため息をつく。

 

 自らも文章を書きはじめているので、それを強く感じるのだ。

 確かに自分の作品も採用はされたが、プロの文章、写真にはとても及ばない。

 

 (私もなにかを形にする仕事をしたい)

 

 茉莉香はこのバイトを始めてからそんな風に考えるようになった。

 

 

 でも、今、すべきことは別にある。

 

 

「由里さん、お昼にしませんか?」


 作業スペースにいる由里に声をかける。



「あー! 丁度よかった。ひと段落ついたところなのよ」


 初めての執筆に由里は疲弊しきっていた。


「本を出すことがこんなに大変なんて……」

 

 由里がぼやく。


「アスパラガスとベーコンとトマトのパスタを作りました」


 そんな状態なので、茉莉香は家政婦のようなこともしている。

 

 気分を変えたいことと、茉莉香の手間を運ぶために、由里がキッチンに移動し、作業台で食べることになった。


「美味しい!」


「お茶はケニアにしました」


 名前の通り、アフリカ大陸の赤道近くにある国ケニア産のお茶である。

 しっかりと味があるのにクセがないので、ボリュームのある食事に合わせやすい。


「このパスタ美味しい! 茉莉香ちゃんはいいお嫁さんになれるわーー」


 感極まったように由里が言う。


 「こんな美味しいお食事が何もしないで食べられるなんて、ホント幸せ!」




 食事をしながら、話は由里と前川氏の結婚の話に移って行った。


「じゃあ、職場結婚だったんですね?」


 茉莉香が夢見るように言う。由里は幸せそうで、自分もやはり同じようになりたいと思う。


「そうなの。でも、反対されちゃってねぇ……」


「それを押し切ったんですね! すごいです」

 

「茉莉香ちゃんもそういう相手いない?」

 

 自分の身近、職場……。茉莉香には思い当たる相手がいなかったが、

  

「亘さん?」


 と、言ってみた。


「ああ、だめだめ! あの人は、身内だけどすすめられないわ。いつも気取っているし、何を考えているかわからなもの」


「そうなんですか?」


「そうよ。茉莉香ちゃんはもっと、しっかりした人がいいのよ」


 由里の笑顔は、茉莉香の知らない誰かを思い浮かべている様に見えた。






 


 夏樹は亘に紹介された建築事務所へ向かった。最近注目されている建築家の個人事務所である。


「はじめまして」


 と、下げた頭を上げると、そこに見知った顔があった。


「あれ?樋渡さん」


「夏坊か!」


 二人は顔見知りだった。

 夏樹は初めて、les quatre saisonsを訪れたとき、持った既視感の理由わけを知る。

 あのマンションは樋渡の設計だったのだ。


「いやね。岸田さんの紹介だっていうんで、引き受けたけど、君なら歓迎だよ」


 建築家が嬉しそうに言う。


(岸田さんて、そんなに偉いの?)


 普段の亘の姿からは、そんな様子はうかがえない。


 建築家の名は樋渡隆ひわたりたかし。夏樹の親方と何度か仕事をしていた。その時の夏樹の働きぶりに感心していたという。


「大学行ったんだって? おやっさん嬉しそうだったよ。顔は笑ってないけどさ」


 二人はめったに親方の笑った顔を見たことがないと笑い合う。


「あの人は、いい仕事をするんだけど、コミュニケーションのほうがなぁ。君はよくカバーしていたよ」


 夏樹は、あちこちで衝突を繰り返す親方を思い出し苦笑した。


「おやっさんね。君にカネは出さないって言っていたよ。 “あいつには恩人はいらない。人に頭を下げ続ける人生は、奴には無理だ” って」


「親方が、そんなことを?」


 夏樹は親方のそんな思惑をまったく知らなかった。

 彼は夏樹の激しい気性と、プライドの高い性格を見抜き、ずっと先の将来のことも考えていたのだ。


 親方を職人として、人間として尊敬をしていた。だが、今日、あらためてそんな話を聞くと、“恩人”と思わずにはいられない。

  

「頑張って! 出来次第でいろいろ任せるから!」


「よろしくお願いします!」


 夏樹は元気よく返事をした。これはチャンスかもしれない。絶対に掴んでやる。

 そんな気持ちを込めて。


 


 運命の女神フォルトゥーナの靴は幸運の逃げやすさを象徴する羽が生えている。

 差し出された靴は、素早く履かなければならない。

 

 道はいつも目の前にあるのだ。

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