20●ラノベの妖怪、“承認欲求”の呪縛(5)シンジ君のチェロ、“自己実現”をお忘れなく。
20●ラノベの妖怪、“承認欲求”の呪縛(5)…シンジ君のチェロ、“自己実現”をお忘れなく。
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社会から日々“承認欲求”を強要され、お疲れの現代人。
周りに認められるために必死に努力し、強い者に忖度し、誰かに落ち度があればマメにチクり、弱い者は無視するかリスキーな仕事を押し付けて精神的に追い詰める……
こんな、猿以下とも思われるギスギスな生活が、いつのまにか普通になってしまったのかもしれません。私たちの心は着実に蝕まれています。
TVでは『半〇〇樹』が大ヒット。
裏返せば、それだけ、正しいを正しいと言えない、黒を白と言いくるめ、“募っているが募集はしていない”といったあのセリフに象徴される、理不尽な状況が社会に蔓延しているということでしょう。
『〇沢直〇』にのさばる傲慢な悪役たちが、現実の社会には実際にゴマンといるという証ですね。
世の中、正義が守られてまっとうに努力する人が報われているのなら、半〇直〇氏なんて他人事であり、こうまで大衆に共感されるはずがありませんから。
多くの人々が、やられたらやり返す、倍返しだ! ……どころか、倍以上にやられっぱなしで泣き寝入りするしかない現状を示しているのでしょう。
たしかに、高級車で“あおり運転”を楽しむ半グレなオッサンたちが肩に風切って幅を利かせていることは、道を歩くだけで実感します。
世の中、ますます、まともじゃない……
仕方ない、ラノベでも読んで憂さを忘れるか……
そんな、ヘトヘトな読者像も見えてきます。
このままでは、まるで良いこと無し、なのですが……
そこで思い出します。
マズローの“欲求五段階説”。
あれ、五段階目がありましたね。
“承認欲求”は第四段階でした。
五段目は……“自己実現”。
自分のやりたいことを、やりたいようにやる。こんな人物になる。
ただしそれを、他人に迷惑をかけず、創造的に行う。
そういうことだったと思います。
自分が、本当にやりたいこと。
それを見つけて、死ぬまでに納得のいくチャレンジが出来たら……
人生、幸せに終われることでしょう。
人生を充実できるかどうか、その到達点は“自己実現”。
しかし私たちは、目の前の“承認欲求”を満たすことだけで
その“承認欲求”が、“自己実現”へと向かう真っすぐな一本のルートの上にあるならばいいのですが、問題はそれが、人々の上に君臨する何者かから強制された“ニセモノの承認欲求”である場合です。
クラスの中でカッコよく目立ち、先生や友達に好かれて人気者になる……という“承認欲求”は、それはそれで結構なことですが、その後進学や就職を経て、何をしたいのか、どのような生き方をするのかという“自己実現”とかけ離れていたら、その“承認欲求”は自分の本当の幸せとは別物、ということになりますね。
同様に、職場で評価されるために身を粉にして“承認欲求”を満たすべく努力しても、それだけで終わってしまい、自分が本当にやりたいことの実現に役立たなかったら、退職した時に、残念ながら虚しさばかりを噛みしめることになるでしょう。
そうなりたくなければ、常日頃から“自分が本当にやりたいこと”を自己確認して、現状の“承認欲求”の迷路に囚われたあげく、そこで溺れてしまわないように心がける必要があると思われます。
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『新世紀エヴァンゲリオン』の事例に戻ります。
主人公シンジ君は、周りの大人たちに評価されるためにエヴァに搭乗して戦いますが、それが“本当にやりたいこと”であるか否か、苦しんでいます。
エヴァのコクピットで戦う自分が、本当の自分なのか、常に疑いを持っています。
自分とは何か? という根源的な問いに対する回答を哲学的に探索したのが、あの25-26話だったのですね。
そこでシンジ君のキャラクターが赤裸々に、しかし丁寧に補完されました。
最後にシンジ君が「僕は僕だ!」と悟りを開くことで迷宮を突破、全員の拍手を受けます。
僕は僕だ!……とは、本当の自分がいかなるものであるか、自分で確定したということですね。
このときシンジ君は第四段階の“承認欲求”に必死だった自我の天井をすこしだけ突き抜けて、第五段階の“自己実現”の領域に顔を出したのだと思います。
では、シンジ君にとって、本当の自分とは何だったのでしょう?
チェロです。
26話の前半Aパートの終わり近くでシンジ君は悔しそうに独白しています。
「習っていたチェロだって、何にもならなかったんだ……」
シンジ君はチェロが好きなのです。
チェロを奏でるとき、幸せを感じているのです。
エヴァの操縦を除けば、シンジ君が周囲の人たちよりも秀でていると誇れる、おそらく唯一の長所でしょう。
その演奏能力はしかし、目の前の戦いを解決するためには何一つ役立たない。
そのことを嘆くセリフなのですが、では、シンジ君はチェロを嫌いになったのでしょうか?
否、ですね。
その証拠に、続く劇場版の『DEATH (TRUE)2』では、冒頭部から四カ所ばかり、学校の講堂でチェロを練習するシンジ君が描かれています。
これは、この作品がシンジ、アスカ、レイ、カヲルの四人による四重奏であることを
作品中で実際にチェロを弾けるのはシンジ君だけであり、他の三人はもともと弦楽器をたしなんではいないからです。
アスカ、レイ、カヲルがこのような場面を想像することはありえません。
弦楽四重奏の場面は、シンジ君にしか思い描けない幻想なのです。
このようにチェロを弾いている自分を想像し、しかも練習場には真っ先に到着していることからも、シンジ君は今もチェロが好きなのだ、ということがわかります。
つまり……
シンジ君の“自己実現”とは、チェロを弾くことであり、美しい音を奏でることに喜びを感じられるチェロ奏者になりたい、音楽家になりたい……ということなのです。
これ、すばらしい伏線ですね。
いつかエヴァを卒業し、チェロの演奏に打ち込むことが、シンジ君の“自己実現”。
そこが彼にとって“本当の自分”であるはずです。
このとき、シンジ君とエヴァの物語が本当の意味で完結するのでしょう。
だから……
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』が終劇するあかつきには、心満たされてチェロを奏でるシンジ君に登場してほしいなア……と思うのです。
シンジ君のチェロ演奏、どことなく宮澤賢治の『セロ弾きのゴーシュ』を思い起こさせます。
チェロの練習に行き詰まったゴーシュはしかし、自分のヘタクソなチェロ演奏が、ネズミたちにすばらしい効能をもたらすことを知ります。コンサートの出来不出来を超えた、いいお話ですね。
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幾多のラノベが、主人公の“承認欲求”を描いています。
しかし主人公がその先の“自己実現”にまで至る作品は、少ないのでは?
主人公が困難を乗り越え、戦って勝つ。
そこで終わってしまうパターンが多いのかもしれません。
しかしその先に何が見えるのか。
“自己実現”のステージに到達した主人公は、何に出会い、何を残すのか。
そこが物語を終わらせる、最も肝心な要素ではないでしょうか。
ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』(1872-73)というお話があります。
英国の独身資産家フォッグ氏が金持ちクラブの仲間と賭けをして、八十日間で世界を一周してやる! ……と冒険旅行に出かける話です。
八十日とは呑気な亀さん旅行ですが、日本なら明治時代初期の出来事ですから。
これ、好きですね。
まず、珍しくも女性が途中からレギュラー出演すること。
フォッグ氏はインドで騎士道精神を発揮、妙齢の美女を命の危機から救いまして、以後彼女は旅の同伴者に加わります。
ヴェルヌ作品はSFにせよ冒険譚にせよ女性が滅多に登場せず、『十五少年漂流記』なんか、十五人もいて女性ゼロという、いささか異様な構成比の世界。21世紀なら『十五美少年漂流記』でボーイズラブにされてしまいそうです。それもいいか。
それはともかく『八十日間世界一周』のおススメは、読後感がいいんですね。
主人公のフォッグ氏が世界一周に挑む動機は、自分が所属するクラブの紳士仲間に対する“承認欲求”です。
八十日で世界一周するプランをみんなにバカにされたので、そんなら見とれ! と大見得切って出発するフォッグ氏。周囲に認められて名声を得ようとする、まさに“承認欲求”そのものと思われます。
で、その結果……
旅行の正確な所要時間は八十日をわずかに超えてしまい、フォッグ氏の“承認欲求”は破れてしまいます。
掛け金はほぼ全財産だったので、本日をもってボンビー転落になるのだと、貧しい生活を覚悟するフォッグ氏。
そこへ、旅を共にした彼女から真摯な告白が。
これからもずっと、生涯一緒に人生の旅をしたいということですね。
謹んでお受けするフォッグ氏、財産を全部失っても、ここに、かけがえのない幸福を得たわけです。
これ、“自己実現”ですね。彼の人生の望みが本当の意味でかなえられた瞬間です。
このあと、教会に出掛けた執事がさらなる吉報を持って帰るわけですが……
『八十日間世界一周』、これ、日本なら明治の昔に書かれた作品でして、当時の作家が当時の旅行事情をもとに書いているので、史料価値も相当なもの。それにしても傑作だなアと思うのは、フォッグ氏が賭けに勝てるかどうか、最後までハラハラさせる“承認欲求”の結末だけでなく、じつは、その上位概念である“自己実現”をその旅がもたらしてくれたのだ……という、ブレイクスルーの爽快さです。
散々苦労して事件が続出して、やっと帰りついたら全てがおじゃん……。しかし、もっと大切なコレが得られた! という展開の妙、すごくいい感じのどんでん返し、なのです。
1956年に映画化され、アカデミー賞の五部門をさらったのも、なるほどです。
映画の出来も超弩級、ただし超絶ののんびり道中ですよ。未見の方はぜひ。
これが男ばかりの物語で、ただ賭けの勝ち負けだけで終わるお話だったとしたら、ヴェルヌ自身の他の膨大な作品群に埋もれて、名作の評価を得られなかったかもしれませんね。
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で、要するに……
作品の主人公は“承認欲求”を動機として行動し、戦いますが、それだけで終わったら、やはり物足りないということです。
何とかして、“自己実現”に至っていただきたいし、そこまで描きたいものだなあ……と、今になってつくづくと自覚する次第です。
勝った! で終わるよりも……
勝っても負けても、その戦いには、本当は、こんな意味があったのだ……と結べるお話ですね。
それが、読み手にとって、本当の心の癒しとなるのでは、と。
一方で、主人公にとって、本当の敵といえるのは……
主人公と対戦する表面上の敵ではなく、そのずっと後方に隠れて、世の中の人々に“ニセモノの承認欲求”を強制し、猿山のように囲われた領域で互いに争わせ、その果実だけを摘み取ってほくそ笑む、黒幕の親玉……が想定されるでしょう。
そのような敵から、真の意味での“自己実現”を取り戻すことが、主人公の使命なのですね、たぶん。
どこか、ミヒャエル・エンデの『モモ』に似た設定の敵役ですね。
あるいはSFの傑作、TVシリーズの『プリズナー№6』(1967-68)に登場する黒幕のトップ、“№1”でしょうか。
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そういったこと、たかがラノベですが、心しておきたいなあ、と思うのです。
それでは、シンジ君が再び、幸せにチェロを奏でる日が来ることを願いつつ……
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