――3.京平が初対面のレイに向かって言うことには

 駅前の中心街から外れ、大きな看板が少なくなった街の中に、その店はあった。

 灰色のビルの一階は弁当屋だったようだが、今はシャッターが下りている。少し前までは、近所のオフィスに勤める人々の御用達だったのだろう。

 レイはしばらく、地図に示された場所とそのビルを見比べていた。片隅に開いた薄暗い入り口の前に小さな看板を見つけ、意を決してその中に入る。狭い階段を三階まで上がると、至って普通の片開きドアに「カフェ&スナック 燈火」のプレートがかかっていた。

「ごめんくださーい……」

 恐る恐る、ドアノブを掴んで開け、中を覗く――と、意外にもその中は落ち着いた調度品で埋められ、品のいいスナックといった風情の広い空間になっていた。

「はい、いらっしゃい」

 カウンターの中にいる老婦人が早口で言う。髪を紫に染め、サングラスにはチェーンをつけた細身の婦人だった。

「あ、あのう……」

 レイはカウンターに近づき、その老婦人に話しかける。

「逢間さん、っていらっしゃいます?」

 老婦人はじろり、とレイを見たあと、急に声を張り上げる。

「京平ちゃん! お待ち合わせのお客さんだよ!」

 その声に身体をびくっ、とさせつつ、レイは老婦人の見た方を振り向いた。と、窓際のソファに座った男が片手をあげ、それに応えているのが見えた。どうやら、他に客はいない。

 レイはその男の方へ近づいていった。白い肌に薄い色の瞳、そして髪の毛。まるで漂白されたようにすべてが薄い、という印象の優男だ。身長はレイと同じくらいか。男は近づいてくるレイを見もせずに、目の前に置かれたパフェをスプーンでつついている。

「……座ったら?」

 不意に、男が言った。

「あ、うん……」

 レイは男の向かい側に腰かける。

「逢間さん……でいいんだよね?」

 レイが声をかけると、その男――逢間京平は顔を上げ、レイを見た。

「響谷レイ、だっけ。九岡さんから話は聞いてるよ」

 そう言って京平は、ローテーブルに置かれたメニューを手に取り、レイに向けて広げて見せた。

「なににする?」

「あ、えっと」

 スナックかサロンのような店内の雰囲気とは裏腹に、メニューには隅から隅まで、思いつく限りのスイーツの名前が並べられていた。レイはそれと、京平の食べているパフェを見比べ――そして、メニューを閉じる。

「コーヒーだけでいい」

 ――と、パフェをつつく京平の手が止まった。

「食べないの? ここのスイーツどれも美味しいよ?」

「あ、いや……」

 京平はじっとレイの顔を見た。

「……もし本当に食べたくないならそれでも構わないけど……そうでもないでしょ?」

「どういうこと?」

 レイは眉間に皴を寄せた。

「……わたしが女だから?」

 九岡が信頼を寄せて仕事を任せる「ハッカー」だと聞いていたから、どんな男が出てくるかと思ったが――そんな軽薄な男なら少々がっかりだ。

 しかし、京平はスプーンを持った手を横に振った。

「逆かな……女なのに、とあなたは思ってる」

「……え?」

「どうもあなたは、なにかのイメージに捉われているらしい……ジャボーがそう言っている」

「ジャボー……?」

 京平はレイのその疑問には答えず、パフェをひと口、食べた。

「自己イメージかな……スイーツみたいな可愛いものは、自分には似合わないと思ってるんじゃない?」

 レイは鼻白んだ。それはレイ自身でも気が付いていないことだったのだが――いわゆるスイーツが嫌いなわけではない。しかし、レイは確かに、自分には女らしいもの、可愛らしいものが似合わないと思っており、特に初対面の人間の前でそういう素振りを見せることを無意識に避けていたのだ。

「……糖分は取り過ぎないようにしてるから……」

 動揺したレイがやっとそう言うと、京平はレイの顔をじっと見返した。

「健康のため……または体型維持のため? 欲望を抑えることを美徳とする方向?」

 レイが答えられないでいると、京平はスプーンを掲げながら言葉を続けた。

「甘いものを我慢しようなんてのは間違っても『理性』なんかじゃない。どちらかと言えば、欲望の節制こそをよしとする社会という、巨大な悪魔に流された狂気の領域だよ。魔女狩りと同じだ」

「はあ……」

「いいからなんか頼みなよ。さっきから唾液が分泌されてる匂いがしてるんだから」

「……っ!?」

 そう言ってまたパフェを食べ始めた京平を、レイは呆気に取られて見つめる。そして、テーブルに置かれたメニューを再び、広げて見た。

「……それじゃ、このストロベリー・ブランマンジェを……」

 京平はそれを聞くと、手をあげて老婦人を呼び、注文を伝えた。

「……それがあなたの『超能力』ってこと?」

 運ばれてきた冷たい水のグラスを少し、口に含んでからレイが言った。

「それってどれ?」

「さっきの。唾液が分泌する匂いとかって」

「ああ」

 京平はスプーンを置き、紅茶のカップを手に取る。

「別に超能力でも魔法でもないよ。たまたま人より感覚が鋭くて……それが色で見えるってだけ」

「色で?」

「さっきはあなたの顔に、食べたいと思ってるけど我慢してるっていう感じの色が見えた。あと、なにかに捉われて視野が狭くなってる感じのも」

「……そんなことまでわかるの?」

「どうしてわかるのかはわからない。生まれつきだからね。だけど、普通の人だって顔色を読むとか、空気を読むとかやってるでしょ?」

 そう言われると、それはまあ、たしかにそうかもしれない。「空気を読む」というのはつまり、会話の微妙な間や声のトーン、わずかな表情といった微細な情報をやり取りしているということだ。非言語ノンバーバルコミュニケーションなどを研究する学問分野でも、それはよく言及される。人間というのは案外、こうした無意識な無形情報を普段から読み取りあっているものなのだ。その感覚がより鋭いという人間はたしかにいる。

 レイはふん、と鼻を鳴らし、別の質問をする。

「それで、その……ジャボーっていうのは?」

「……悪魔」

「はい?」

 訝るレイに、京平はスプーンで自分の頭を指してみせた。

「俺の頭の中に棲みついてる悪魔だよ。今はあなたの隣に座ってる」

「え……!?」

 そう言ってレイは自分の周りを見回すが、そこにはなにもない。

「俺にしか見えないんだ。なにしろ俺の頭の中に棲んでるから」

 レイは京平を見た。一体、この男はなにを言っているんだろう。もしかして、頭がおかしいのだろうか――だが、その佇まいもその目も、狂気に曇っているようには見えない。涼し気な目元には、確かな理知の光が湛えられているように思われた。言葉は理路整然としているが、その奥に込められた意味の解釈を聞き手に要求する――まるで、優れた芸術家と芸術論を交わしているような感覚だ。

「ここに、悪魔が……」

 京平の様子からすると、どうやらそのジャボーという悪魔はレイの右隣にいるということになるらしい。

「……悪魔って、会ったことないからわからないんだけど……」

 レイは少し考えて、口を開いた。

「挨拶とかした方がいい?」

 京平はそれを聞くと一瞬、きょとんとした顔でレイを見返し――そして次の瞬間、声をあげて笑い出した。

「あんた面白いね。ジャボーに挨拶しようとした人は初めてだ」

 京平は笑うのをやめ、レイの顔を覗き込んだ。

「大丈夫、ジャボーはそういう人間の作法は気にしないから」

 ストロベリー・ブランマンジェとコーヒーが運ばれてきた。レイは老婦人に軽く頭を下げ、スプーンを手に取る。滑らかな白いブランマンジェの意外な弾力に驚きながら、苺と一緒にスプーンに乗せ、口に運ぶ。

「……美味しい」

 アーモンドの香ばしい香りと甘酸っぱい味わいが口の中に広がり、豊かなその風味にいつまでも浸っていたくなるような、そんな体験だった。次々口に入れたいような、一気に食べてしまうのが勿体ないような、そんな官能的なもどかしささえこみ上げてくる。

「出会って、食べたいと思ったときに食べるのが最高の体験なんだ。今、食べてよかったでしょ?」

「……うん」

 レイは素直にそう答え、もうひと口、食べてからコーヒーを啜った。口の中に閉じ込められた幸福感が、鼻の先に抜けていくようだった。

「……それで?」

「え?」

「俺に用があって来たんじゃないの?」

「……そうだった」

 レイはコーヒーのカップをテーブルに置き、京平に向き直ってスマートフォンを取り出した。

「……これを見て」

 「殺されスミス」の動画を再生してみせる。野上あす香の実名と顔写真が晒されているものだ。

 京平はそれをじっと見ていた。動画の再生が終わり、レイはスマートフォンを降ろして口を開く。

「この動画で容疑者とされている野上あす香のことを、あなたも追っているって聞いた」

「そうだね、その通り。俺は九岡さんから、このアスカっていう風俗嬢と、それが最近ハマってたっていうビジネスサロンについて調査する仕事を受けている」

 京平は身体を起こし、背もたれに身体を預けた。

「この事件で警察が重要参考人として、アスカのことを追ってるのは知ってる。事件後に現場近くで血まみれの女が目撃されたって話もね」

「それじゃ」

 レイは京平の話に口を挟んだ。

「被害者の身元がまったくわからないって話も知ってるのね」

「まあね。この動画で言うように、何度も殺されてるってのは知らなかったけど」

「そう、問題はそこなの」

 レイは身を乗り出した。

「……同じ人間が何度も死ぬ・・・・・・・・・・なんてことが、現実にあると思う?」

 京平はすぐにはその問いに答えなかった。パフェの底に残ったクリームをスプーンでつつき、レイの顔を見つめる。

「……レイさん、でいいんだよね? それよりも先に聞いておきたいんだけど」

 京平はスプーンを置いて言った。

「……あなたの方は、この件をどうしたいの? 警察よりも先にアスカを捕まえたいとかじゃないでしょう?」

 京平は先ほどよりも鋭く、レイのことを見た。色素の薄いその目に、レイは吸い込まれるような錯覚を覚える。

「今、あなたの後ろに浮かんでいる色が、どうもわからないんだ。あんたはこの件にまったく利害関係を持っていないし、強い感情があるわけでもないはずなのに」

「……わたしは……」

 レイは口ごもり、自分の中に言葉を探した。

「わたしはこの件を、ただの都市伝説に戻したい」

「……戻す?」

 問い返す京平に、レイは言葉を継ぐ。

「現実に生きてる人間に紐づいたことで、歪んだ物語が語られてしまった。アスカさんは人を殺してしまったかもしれないけど……だけどこのままじゃ、この物語は『呪い』となって末代まで人を苦しめるかもしれない。私は研究者として、伝承の語り部として……目の前でそれを見過ごすことができない」

 レイはひとつ、大きく息を吸って「それに」と付け加えた。

「もしその歪んだ物語が嘘じゃない・・・・・のなら……それも見過ごせない」

 京平はまだ黙っていた。レイはコーヒーをひと口、飲んだ。カップをテーブルに置き、もう一度口を開く。

「人が物語を語るのは、過去の供養なの。忘れることのできない、忘れるわけにいかないことや、人や……そうしたものを未来の中に位置づけて受け入れる。もし、歪んだ形で位置づけられてしまったら、それはきっと未来に牙を剥く……だから、正しく位置づけ直して、それを語りなおす必要があるの」

 レイは悟郎が言った「怪談は無責任な娯楽でなくちゃいけない」という言葉を、心の中で思い出していた。

「……ジャボーがあんたのことを気に入ったみたいだ」

 京平は顔を上げ、口を開いた。

「ジャボーさんが……?」

「さんはつけなくていいよ。どうやらジャボーの求めるものと、あんたの求めるものは一致してるみたいだ」

 そう言って京平はパフェの器の底に残ったクリームをすくい、口に入れる。

「食べ終わったら行こうか」

「え……行くってどこへ?」

「死者との対話だ」

 京平はスプーンを置き、紅茶のカップを手に取ってひと口、啜った。

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