第7話 自分の趣味にお金をかけ過ぎる夫に、天誅を



私の名前はノゾミ。二十八歳の主婦だ。

夫のトシアキと、生まれたばかりの娘カオリとの三人で、ごく普通の暮らしをしている――ように、周りからは見えているだろう。


妊娠を機に産休に入り、そのまま育休も三年取るつもりだった。

しかし、結局は一年で復職。土下座せんばかりの勢いで実家の母に頭を下げ、娘を預かってもらっている。

理由は、恥ずかしながら借金だ。とても、私の収入なしでは家計が回らない。


実に嘆かわしい話だが、嘆いても始まらない。

娘の将来のためにも、稼げるうちに少しでも稼がなければ。

それだというのに、肝心の夫には、まったく危機感というものがない。


借金も、元はと言えば夫が作ったものだ。

まあ、ギャンブルで作った借金ではないだけ、マシなのかもしれないが。

夫の趣味は、車。

はっきり言って、私は車にまったく興味がないのでよく分からないが、とにかく彼は車に異常なほどお金をかける。車のローン自体も残っているのに、改造費やらパーツ代やらで、湯水のように金をつぎ込んでいるのだ。


「ねえ、あなた。娘も生まれたのよ。もういい加減、車にお金を使うのはやめて。車が好きならせめて、あのスポーツカーはやめて、ファミリータイプの車に買い替えましょうよ」

お互いの趣味に口出しはしたくない。だが、それにも限度がある。

(今日こそ、父親になった自覚を持ってもらわないと)


「はぁ? うるせえな。お互いの趣味に口出ししないって約束だろうが」

「その趣味のせいで、うちの家計がどうなってるか分かって言ってるの!?」

「あぁ!? 俺が稼いだ金で何をしようが、俺の勝手だろうが!」

「あなたの稼ぎだけじゃない! 私の給料からも、あなたの借金を返済してるのよ! 分かってるの!?」

「なんだと……? それは、俺の稼ぎが少ないって言いたいのか! 馬鹿にするな!」

「ちょっと、そんなことは言ってないじゃない!」


(実際、私の収入の方が多いのだが)

どうやら夫は、それが気に入らないらしい。時々こうして、絡んでくるのだ。


「別に、あなたの稼ぎがどうとか、そういう問題じゃないの。趣味にかけるお金を、生活に無理のない範囲にしてほしい。ただ、それだけよ」

家族の生活のため、私は淡々と説得を試みる。

だが、夫は不機嫌そうに私を睨みつけると、


「うるせえな! 俺に口答えするな!」

バシンッ!


……え?

なに? 今……私、頬を叩かれた?


「ちょっと、何するのよ! 殴ることないでしょ!」

「はぁ? 殴ってねえだろ。ちょっと叩いただけじゃねえか。大騒ぎするんじゃねえよ」

「何が『叩いただけ』よ! 立派なDVでしょ!」


私が睨みつけると、夫は「ちっ」と舌打ちし、そっぽを向いて部屋に戻ろうとする。


「ちょっと、まだ話は終わってないわよ!」

「もういいだろ。疲れてるんだよ」


そう言って、夫は話をうやむやにしてしまった。

そして、その日からだった。トシアキの態度が、豹変したのは。

一度手を上げたことで、歯止めが利かなくなったのだろう。何か気に入らないことがあると、ためらいなく私に手を上げるようになった。


それでも、何度か私は夫を諫めようと試みた。

まだ、やり直せる。

(私が我慢すれば、彼もいつか分かってくれるはず)

そう、信じていた。


---


「おい、十万、出してくれ」

顔を合わせるなり、夫が言った。

面倒くさがりな夫は、家計の管理を一切私に丸投げしている。


「十万って……何に使うのよ。そんな余裕、ないんだけど」

「はぁ? いいパーツが、オークションに出てるんだよ。十万ありゃ、落とせる。余ったら返すから、よこせ」


また車か。

そう思った、私のうんざりした顔が、気に入らなかったのだろう。

何の予告もなく、腹を蹴り飛ばされた。

床にうずくまり、追撃から身を守る。夫はそんな私を無視し、私のバッグから財布を抜き取った。


「おい、あるじゃねえか」

「やめて……! そのお金は、明日振り込まないと、まずいの……!」

「なんの金か知らねえが、他から借りるなりして、上手くやっとけ。分かったな」


そう言い切ると、夫は私の返事も聞かずに、また車の動画を見始めた。

「……はい」

小さく返事をしたが、夫の耳には届いていないだろう。

その後ろ姿を、今の私はただ見ていることしかできない。

悔しくて、涙がこぼれた。


――もう、ダメだ。


娘のカオリには父親が必要だと、いずれは変わってくれるはずだと、二年もの間、我慢してきた。

だが、借金は一向に減らず、夫は、まったく変わらない。

もう、離婚するしかない。


でも、素直に別れてくれるだろうか。弁護士を雇うお金なんて、どこにもない。

……申し訳ないけれど、実家の母に頼るしかない。

次の休みに、相談しよう。そう、決めた。


---


離婚を決意してからの私の行動は、信じられないほど、迅速だった。

まず母に相談すると、DVの話を聞いた母は、いつでも実家に戻ってきなさいと、泣きながら言ってくれた。

逃げ場所が確保できた途端、私は不思議なほど冷静になれた。


離婚を有利に進めるために、まずは証拠を集めよう。

DVの際の音声記録、浪費の明細。

そして、できることなら、あの男に地獄を見せてやろう。そう思うまでになっていた。

(もちろん、夫の暴力が娘にまで及んだら、その瞬間に逃げ出す)

それまでは、耐え抜くと決めた。


母に決意を伝えてから、三年が過ぎた。カオリも五歳になり、来年には小学生になる。

以前と違って、私が夫にまったく逆らわなくなったので、直接的な暴力は減った。

だが、夫の金遣いの荒さは変わらず、借金は増える一方だ。言われるがままに新たなローンを組んでいるのだから、当たり前だ。


そしてついに、待ち望んでいた〝その時〟が来た。


---


夫がツーリングに出かけていた、ある休日の昼下がり。

今日は私も休日。夫がいないこの時間だけが、私の唯一安らげる時だ。

リビングでカオリとアニメを見ていた時、突然スマホが鳴った。画面には「トシアキ」の文字。

……嫌な予感はしたが、すぐに出ないとまた面倒なことになる。


「はい、もしもし」

「ああ……ちょっと困ったことになってな。車に積んでなかったんだが、保険屋の連絡先を教えてくれないか」

「え……どうしたの? 事故でも起こしたの?」

「ああ、ちょっとな。曲がりきれずに、ガードレールに突っ込んじまって。怪我はないし、大した事故じゃないんだが」

「そうなの。車は、動くの?」

「いや、動きそうにないな。廃車にはならないだろうが、かなり修理代がかかりそうだ。これならいっそ全損扱いで、保険で新しい車に買い替えた方がマシだったな。……なあ、俺の保険、修理代も出たよな?」


「……じゃあ、迎えが必要ね」

「ああ、そうだな。それより早く、保険屋の連絡先を教えてくれ。迎えは保険屋が手配してくれるだろうしな」

「確かにそうね。……ところでトシア-キさん。突然ですが、離婚してください」


電話の向こうで、夫が息を呑むのが分かった。

「は……? こんな時に、何を言い出してるんだ、お前。ふざけるなよ」

「いいえ、ふざけていません。あなたからのDVの証拠は、十分に集まりました。浪費の証拠も、です。財産は借金しかないので、財産分与は諦めます。慰謝料と養育費は、きっちり請求させていただきますね」

「おい……本気で言ってるのか。……帰ったら、ただじゃ済まさないからな!」

「あなたに、いくつかお伝えしておかなければならないことがあります。少し、落ち着いて聞いていただけますか? 保険のことです」

「……ああ、なんだ」

「三年前に、私を蹴り飛ばして財布から十万円を奪っていった時のこと、覚えていますか?」

「いや……そういえば、なんとなく……」

「あの時支払うはずだったのが、自動車保険の更新料だったんです。ですが、お金がなかったので、保険は解約になりました。つまり――あなたの車は、三年前から無保険です」

「……え?」

電話の向こうが、静まり返る。

「ふざけるな……! 無保険だと!? ガードレールの賠償金が、いくらかかると思ってるんだ!」

「さあ? 私には関係のないことなので、存じません」

「……っ!」

「では、私とカオリは実家に帰りますので。離婚届は、私の署名捺印を済ませてテーブルに置いておきます。あとは、よしなにお願いしますね」

「許さないぞ……! 絶対に、離婚なんかしてやらないからな!」


まあ、そう言うだろう。すべて、想定内だ。


「そうでしょうね。私の収入がなくなれば、あなた一人ではローンを返していくのも大変でしょう。ギリギリ、生きていけるかどうか、というところでしょうか」

「……」

「それに加えて、車の修理費、ガードレールの賠償金、そして、私への慰謝料と、カオリの養育費……」


私は、ありったけの憎悪を込めて、最後の言葉を叩きつけた。


「――地獄に落ちろ、クズ野郎」


そう言って、通話を切り、スマホの電源を落とした。

隣では、カオリが目を丸くして私を見ている。


「ごめんね、カオリ。大きな声出しちゃって、びっくりしたね。……これから、おばあちゃんのお家に行くから、準備しようね」


自然と、涙がこぼれ落ちてくる。

この日のために、今まで耐えてきたのだ。

この瞬間のために、あいつの借金が増えるのを、ただ見過ごした。

保険が切れても、黙って更新しなかった。

今の夫に、金の無心ができる親戚も友人もいない。

この瞬間のために、私は五年も待ったのだ。


これからは、あの男を法的に、社会的に、じわじわと追い詰めてやる。

絶対に、手は抜かない。

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