群青と童夢
猫屋夜犬
第1話 群青と童夢
僕はこの街が嫌いだった。
だから逃げ出すように、高校を卒業してすぐに都会の大学へと進学した。
もう一生ここには戻らない、と思っていた僕が今こうしてこの街の地面を踏みしめているのは、「彼女」から届いた一通のメールがきっかけだった。
年寄りの多いこの街では、夏になると人影が一切なくなる。
怠さを誘う絡みつく熱と鬱陶しい蝉の鳴き声が相まって、この街には僕以外誰もいないんじゃないか、と思わせる不気味さがあった。
そんな時、僕が決まって行く場所があった。裏山にある神社の境内だ。
涼しくて、街を一望できるそこは、なんだか寂しさを和らげてくれた。
僕と彼女が出会ったのも、そこだった。
いつもみたいに俯いて境内へと続く石段を上っていると、女の子の笑い声がした。
普段、僕専用の遊び場には、つばの大きい麦わら帽子と、空色のワンピースに身を包んだ女の子がいた。
「……きみ、だれ?」
「わたし?わたしはハナビ。あなたこそだぁ~れ?」
なるほど、ピッタリな名前だと思った。
こちらに問いかけてくる傾けられた笑顔は、夏の夜空に咲く花火そのものだったから。
「え、ああ……。ぼくは―」
「あっ!みてみて!!カブトムシ!!!おっきいなぁ~」
「……別にそれくらいどこにだっているよ」
自己紹介を遮られたのは癪に障ったけど、彼女の純粋な笑顔は夏も
悪くないかな、と思わせてくれるものだった。
そのあと、彼女について色々と教えてもらった。
こことは違う遠い場所に住んでいること。
夏休みの間だけ、おばあちゃんの家にお母さんと帰ってきていること。
そして、お父さんが病気で亡くなってしまったこと。
そんな辛い事を話すときも、彼女は笑顔を絶やさなかった。
「なんでさっき一人で笑ってたの?」
「ん~……。だってこんないい場所見つけたんだよ!?この街に来てから、なんだか退屈だったけど、来てよかった!私の街にはこんな所ないもの。それに……君にも会えたしねっ!!」
「……え?」
「それじゃ、また明日もここで遊ぼうよ!!約束ねっ!」
そう言い残すと、彼女は、すくっと立ち上がって勢いよく走り出した。
あんなに走って、石段で転ばなきゃいいけど。
鋭く二人を照っていた太陽も、いつの間にか真っ赤に落ち、柔らかな光を放っていた。
それから僕たちは毎日一緒に遊んだ。都会で育ってきた彼女には、僕の街の何もかもが新鮮らしく目を輝かせて喜んでくれるから、一丁前に街のガイドをしている僕が何故か誇らしくなった。
一緒に宿題もした。都会の学校はとても難しい勉強をしているのかなと思っていたけど、大してうちの小学校と変わらなくて安心したのを覚えている。
駄菓子屋でアイスとラムネを食べた。一気に食べ過ぎて頭がキーンとなって、二人で笑いあった。
近くの川で水浴びをした。びしょびしょになった後は、河原に寝転んで一緒に服を乾かした。
彼女とすることなすこと全てが、夏祭りの林檎飴みたいに、甘かった。
大嫌いだったはずのこの街と夏が、僕とハナビを惹き合せていった。
そして、お別れの日。
二人して瞳に涙をためて、お別れした。
「また来年の夏、来るから。来年は今年行けなかった花火、見に行こ?」
「うん、境内で待ってる」
「約束ね?」
「うん、約束」
その約束があったから、秋も冬も春も頑張れた。
子供ながらにおねだりして買ってもらった子ども携帯でハナビとメールのやり取りをしながら過ごした。
会えない時間が、より互いの存在を想わせる。
―いつしか僕は、夏を待つようになった。
けれど、僕が心待ちにするような夏は、二度と来なかった。
春先くらいからメールの返信が来なくなった。
毎日、毎日送っても、返ってこなかった。
夏休みに入ると、毎日、境内で待ったけど、ハナビは姿を現さなかった。
駄菓子屋でアイスとラムネを一人で食べた。頭がキーンと痛んでも、僕は笑わなかった。
川で一人、水浴びをした。びしょびしょのまま、家に帰った。
どうしてハナビは来てくれないんだろう。
膨らんで行く不安と、ちょっとばかしの怒りが幼い僕の心を蝕んでいった。
その日も、夏を凝縮したような日だった。
綿飴みたいな入道雲が青に浮かんでいて、太陽はジリジリと額に汗を浮かばせる。
そんな陽気とは裏腹に、街は閑静としていて無意識に早足で境内から家に向かった。
「ハナビちゃん、亡くなったって……」
母からこぼれ出た嗚咽に交じった声は、確かにそう言った。
「…………え?」
「ハナビちゃんのお父さん、被爆されてたの。白血病だって……」
最後まで聞かずに駆け出してたと思う。サンダルは脱げて足がすりむける。
涙で前が見えない。
うそだ、うそだ、うそだ!だって約束したんだ!!
……一緒に花火を見に行くって。
その日は夜通し、境内ですすり声をあげた。
それからのこの街での暮らしはほとんど覚えていない。
中学に行って、高校を出て、気が付いたら彼女の面影を探して都会に出ていた。
……そうか、僕は、ただ、淋しかったんだ。
君がいなくなってからは、季節を使い捨てているようで、生きた心地がしなかった。
せっかく受かった大学もほとんど行かなくなり、何のために、誰のために生きていけばいいか、見失ってた。
だから、君から一通のメールが届いたときはとても驚いた。
『ごmんね、はなびいtしょにみられnい』
涙があふれた。
文字を通して、君を感じられたから。
夜の空を、色鮮やかに染め上げる君の笑顔を思い出したから。
前に進もう。ハナビのおかげで、そう決心できた。
たった三年ぶりなのに、様変わりしたように感じるのは何故だろう。
少しの間躊躇ったあと、実家の戸を開けた。
そこには、顔に刻まれたしわの増えた母が待ってくれていた。
「……ただいま」
「……おかえり」
それだけで十分だった。それだけで。
「はい、これ。ハナビちゃんの携帯。お母さんから預かったの」
母が僕に手渡したのは、あの夏に見慣れたひとつの携帯だった。
見たこともないマスコットのストラップと、僕とお揃いにした駄菓子のおまけの缶バッジ。女の子らしいピンクのメッキは、所々剥げている。
……間違いなく、ハナビの携帯だ。
「亡くなってから、ずっと保管してたらしいんだけど、最近になって心の整理をつけようって。バッテリー切れだったその携帯を充電してみたら……」
「僕にメールが来た」
おぼつかない手で、長い時間をかけてメールを打ったんだろう。
その結果、送信中にバッテリー切れになってしまったんだ。
僕はハナビの携帯を操作して、メールの受信ボックスを開いた。
溢れてくるメール。毎日毎日僕が送った想いが、一気に解き放たれる。
『どうしたの?用事?』
『早く遊ぼうよ』
『今日アイスの当たり引いたよ」
『夏祭りやってるけど、花火は見ないようにしとくね。お楽しみ』
『夏休み終わっちゃうよ』
『中学って案外楽しくないね』
『そっちの大学に行くことにしたんだ』
…
…
…
…
…
…
…
…
『寂しいよ』
涙を抑えきれなくなった母が崩れ落ちる。僕もつられて涙を流す。
君のせいで、泣き虫になっちゃったじゃないか。
でも、よかった。
届いてたんだ、ちゃんと。
あの頃は平気で上っていたけど、今、こうして下から見上げると中々高さがあることに気づかされる。
かつて二段飛ばしで駆け上がっていた石段を、今度は踏みしめるように一段ずつ足をかけていく。
次第に、あの場所が見えてくる。僕の心の支えであり、君と出会った場所。
世界中どこより、大切な場所。
その奥に、ハナビはいる。
彼女の意向を汲んで、お墓は境内の裏にある墓地に置かれることになったのだ。
「……久しぶり」
勿論、声は返ってこない。彼女はもう眠ってしまっているから。深く、深く。
「境内に来るって約束、守ってくれたんだね。それなのに、僕の方が待たせちゃった。ごめん」
彼女の眠る石に触れる。埃ひとつ無く、清潔に保たれていた。
「……母さんか…」
無意識に顔を俯かせる僕の頬を押し上げるように、夏の匂いを乗せた涼風
が吹き抜ける。
「今度は僕が約束を守りに来たんだ。ほら、これ」
買ってきた線香花火を一本取出し、火をつけた。
パチパチと音を立て、小さな火の玉が八方にその欠片を振り撒く。
君に似合うような鮮やかな打ち上げ花火じゃないけれど、僕はこっちも好きだな。
「こんなところで花火なんかしちゃ、ほかの人まで起きちゃうでしょ?」
うん、そうだね。でも、もう少しだけ。
僕と君との、最後の約束だから。
―っ!?
僕は声のした方を、振り向く。そこには、あの頃と変わらない姿の、君がいた。
「あのころは、私の方が背高かったのに。もうすっかり大人だね」
「え……なんで……?」
「会いたいって思ったのは、君でしょ?」
―だから、会いに来てあげたの。
もう、泣かないって決めたはずなのに。無理だよ、こんなの。
溢れてくる光の粒を、胸の苦しみを抑えられずその場に崩れ落ちてしまう。
「ずっと……!ずっと会いたかったんだ……!我慢しても我慢してもダメだった。
たったひと夏の出会いなのに、君は僕の心に何より大きい引っ掻き傷をつけたんだ……!」
「……君、泣いてばっか…。前言撤回、全然大人になれてないじゃん。
……でも、ごめんね……。私も、もう我慢できないみたい……」
ハナビもその大きな瞳から、真珠みたいな大粒の涙を落とす。
そのあとは二人して、しばらく泣きあった。
「じゃあ、そろそろお別れの時間なので……」
ハナビは後ろに手を組んで、上目遣いで僕を見つめる。
「私がいない世界でも、君がちゃんと生きていけるようにおまじないかけてあげる」
「おまじない……?」
「うん!だから、目を閉じて」
言われるがまま、僕は目を閉じる。
「それじゃ……バイバイ……」
暗闇の中で、頬に柔らかい感触を感じた。
「え……?」
目を開けると、そこにはもう、誰もいなかった。
ふと、目の前が明るくなる。大きな打ち上げ花火だ。
何度も何度も打ち上がる。
―明るく彩られた夏の夜空を、踊るように駆けていく名前も知らない鳥を、
少し、羨ましいと思った。
群青と童夢 猫屋夜犬 @hirasawa1127
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