リリーのすべて

坂本治

リリーのすべて

            

 これは二〇一五年にイギリス、アメリカ合衆国、ドイツで制作された伝記映画『リリーのすべて』をオマージュした作品です。

 原作はデヴィッド・エバーショフ『The Danish Girl』。



 アイナー・ヴィーグナ―……世界で初めて、男から女への性別適合手術に成功した人物。職業画家。後にリリー・エルベへ改名。

 ゲルダ・ヴィーグナ―……アイナーの妻。画家。

 ハンス……疎遠になっていたアイナーの幼馴染。フランス在住の画商。

  





 待ち合わせのカッフェにゲルダが到着した時、もうすでに席をとって腰掛けているハンスの後ろ姿を、店のガラス張りの奥に確認した。フランスで成功をおさめた有能な画商のハンスは、自分の夫であるアイナーと同郷の幼馴染だったという。

「お待たせしまして、ごめんなさい。どうも今日はありがとう」コートを畳みながら近づいていくと彼がこちらを見上げ、会釈をしながら腰を浮かす。彼が引いてくれた椅子に腰掛けながら、こんな風に朝の喫茶店に立ち寄ることは、一体、何時いつぶりだろうかと思いを巡らす。

 このように彼を相談役として頼ったことで、二人は今ここにいる。ゲルダは画家の仕事の為にはるばるフランスにやって来て、夫と共に仮住まいをしている。今朝は同じ家に住まう夫を残して出かけて来たのであり、この面会には気楽でない理由がある。ハンスは昨晩彼らの家を訪ねたが、諸々の都合によって早々に引き上げることとなり、ゲルダが彼にその弁明と再度、意見を求める為に呼び立てたのだ。

 ゲルダが夫のことで悩みを抱えて早幾年か。最後の切り札として、フランスに住まう夫の幼馴染であるハンスを頼った。彼の立派な仕事場を訪れた後、夕食のレストランで話を聞いて貰った時は、鈍く震える心がどんなに軽くなったことか。ハンスと向き合い珈琲を注文し、店の朝の雑踏の中、言葉を交わし始める


「アイナーは来ないんだね」カップを傾けて、自分の幼馴染を心配するようにうかがう。

「ええ。あの人はほとんど外を出歩かないから」

「そうか。仕事でもして一日過ごすのかな」

「いいえ。もうここ何年も絵なんて描いていないわ。ただ家で過ごすだけ」

 女流画家のゲルダとともに、夫のアイナーも画家だった。地元ではかつてアイナーの方が評価の高い気鋭の腕の持ち主だった。


「夫は変わってしまった。私が悪いの。あの絵を描いたから」

 きっかけは一枚の絵だった。踊り子の絵画を描き途中だったゲルダは、仕事場である自宅にいたアイナーにモデルを頼んだ。カンバスの中で片足をあげる白いドレスの娘を見やって、「着ないぞ」と両肩をあげて拒否するアイナーに白いストッキングをはかせた。

「脚の部分だけ。裾のレースを描くの」と言って踊り子の生成りの衣装を、アイナーのシャツとジレ姿の胸に添えた。気まずそうにそれを抱える彼を視線の先に置いて筆を走らせて行く。夫が関節に絵具をこびりつかせた指で、おずおずとドレスの刺繍に指を這わせていくのを眺めながら。



「あの瞬間にアイナーは、アイナーだけでなくなくなってしまった」ゲルダが声を詰まらせるのをハンスは慎重に覗き込む。少し考えてから、

「その子をリリーと言ったね」と確かめた。

 ゆっくりと瞳をあげてハンスの顔を見る。震える唇で告げた。

「モデルを頼んでいる間に、私の友人が来て、彼の姿がとても似合っているわねって名付けたの。その子だって何のつもりもない、ただの冗談のつもりで、『あら。あなたは、リリーね』って」

 カラン カラン 店の扉のベルの音。その震えが鼓膜に届く。

「名前を呼ばれて、アイナーの中のリリーが目を覚ましたのよ」


 しばしの沈黙を彼が破った。

「リリーに、僕も一度会ったことがある」

「……故郷の沼地での話ね?」

 沼地とは彼らの故郷だ。アイナーやハンスが幼い頃に住んでいた沼のある村で、お互いの家をよく行き来して遊んでいたという。ある時ハンスはアイナーの家を訪れ、二人でキッチンの道具を散らかして遊んでいた。

「ふざけて彼のおばあちゃんのエプロンを着たアイナーが、あまりに可愛くて、思わずキスをした」

 首を一度軽く振って、笑う。

「それはリリーだったの?」

「さあ、その時はどう思ったか。彼のお父さんに見つかってひどく怒られたので、それどころではなかった。一時の気の動転を抑えられなくて一方的に殴られもした」

「お気の毒に」覇気のない言葉を紡ぐ。

「だが沼地に住んでいた頃から、アイナーの中にリリーはいた」

「私のせいで生まれたのではなくて?」

 ハンスは困ったように眉をひそめる。それから意を決したように告げる。

「引き金を引いたのは君の絵でも、リリーは子どもの頃から確かにアイナーの中にいた」

「でも私の絵が、あの時の踊り子の絵が……やっぱりきっかけだわ」

「……君の個展に飾ってあった絵を見たよ。あのモデルはリリーだろう。いや、それはアイナーなのだろうが」

 ゲルダは額を両手で覆う。リリーが目覚めた時、アイナーに衣装や帽子、踵の高い靴を見繕ったのはゲルダ自身だった。リリーという皮を被って楽しそうなアイナーの様子がゲルダも嬉しくて、その姿をモデルに絵画を描いた。様々なポーズを艶やかに、積極的にこなしていく姿は輝いていた。画家としても妻としても、アイナーというその対象物に魅せられたといって過言でない。そのリリーを描いた作品群は、今まで泣かず飛ばずであったゲルダの才能を開花させ、リリーの肖像を集めた個展までを手配して貰えることになったのだ。それがフランスへの渡航のわけでもあった。

 だが画家として注目を浴びた喜びの裏で、徐々に心配の種は芽を出していった。アイナーがリリーに変わっていくことに後悔が募る。あの時は、ほんのいたずら心の延長線だったのだ。リリーになるのは一晩だけ、また違う日のほんの一時だけだったのに、何時の間にか後戻りできなくなっていた。リリーはアイナーを浸食して、夢の中でも本当の中でも自分の姿を主張し始めた。

「もう取り返せないのかしら……。アイナーに帰って来て欲しい。愛する夫に会いたいの。妻だと思って語り掛けて欲しいの」

「ゲルダ……。家に帰れば、ちゃんとアイナーがいるだろう」

「違う! あれはリリーだわ! 家にいるだけで絵を描くこともしない。かつてあんなに描いていた、あなたたちの故郷の沼地ももう描かない。飽きずに何枚も何枚も、同じ風景を描き続けて、油の沼地の中に吸い込まれてしまいそうだったのに」

「昨晩のアイナーは……」

「ええ! 見たでしょう? あれがアイナー……、いいえリリーなのよ」

「確かに驚きはしたが……」

 歯切れの悪いハンスに釈然とせず、つい食ってかかってしまう。



 昨晩のことである。

 ハンスに相談を持ち掛けて、幼馴染としての意見を聞いたり、過去の話を教えて貰いながらの食事の後、夫の待つ家へ連れて帰った。

「お帰りなさい。あら、お客さん?」ゲルダの長いスカートの衣装を借りたリリーが部屋に迎え入れた。ゲルダは「やはり」という思いと、少しの敗北感を胸に隠して、彼女にハンスを紹介する。ハンスが遠慮がちに入ってくるのでそれに宣言するように伝える。

「ハンス。こちらリリーよ」

 リリーはハンスを見て驚いたように微笑む。ハンスもかつての幼馴染、アイナーの変わり果てた姿に言葉もない。


「こんばんは。リリーです。私たち初めましてじゃないんですよ」

「あ……、ええっと」戸惑うハンスに、

「ほら、子どもの頃に沼地で。覚えていらっしゃる? いとこのアイナーの家で、一度お会いしているんですのよ」

 突如姿を与えられたリリーをアイナーのいとこと定義づけたのも、以前のアイナーが変装を始めたばかりの時に、弁解するようにゲルダが周囲に説明したものだった。それを今やリリーが自ら説明する。幼い頃、ハンスとリリーが一度会っているなどというのも、アイナーの記憶をリリーが手に入れたものだった。アイナーの記憶なのだから、遊びに来たハンスもその当時のことを思い当たるのだろう。

 そこにいるのはアイナーか、リリーか。部屋の真ん中で佇む、帰宅したばかりの二人をリリーはソファへと促す。

「お酒は飲めますの?」ローテーブルに準備しようとして、せわしなくその辺りを立ち回る。そして勝手に話出すのだ。リリーの動作を見てゲルダを何度も伺いみるハンス。頭も気持ちも、その内たくさんになったゲルダはそれを遮る。「いいのよ。リリー」その声に、ピタリと手を止めこちらを見る彼女の表情にため息が出る。眉間に皺が寄って、呼吸が辛くなる。

「ハンス……。来てもらった所悪いのだけど、体調が優れないから、今夜は帰って頂けない?」

 来客にご機嫌な旧友がかけてくる言葉に何となく返答していた彼を、ゲルダは途端に追い返す。ハンスは帽子をかぶり直して、自分に相談してきた女流画家のあまり穏やかでない様子に気を付けながら戸口へ向かう。「ああ。また今度……」少し躊躇って後を何度か振り返るが、強引に玄関まで促されていく。

「大丈夫。ありがとう」彼女は言葉少なに彼を閉め出して居間に戻り、夫であった人物に向かう。


 リリーは挙動不審に、軽く握った拳を胸の前に掲げている。

「彼、わからなかったかしら。大丈夫よね。こんなに綺麗にお化粧したんだもの」その場で心配そうに、だがドキドキしたといった風のリリーは、ハンスにアイナーだと気づかれないように振舞ったと豪語するのだ。その少女のように無邪気な様子はアイナーではない。もはや昼も夜も彼はリリーなのだ。

「もう、お願い。リリーでなくアイナーに会いたいの」

「……アイナーはここにはいないわ」面白くないことを言われて、頑なにそう主張する。

「お願い……。お願いだからアイナーを出して! アイナーを! 私の夫を返して……!」

「それはできない」

「どうして! どうして……!」名前のない感情が湧き上がる。悲しさも、不安も、悔しさも、怒りも妬ましさもすべて含めた。

「私と結婚した夫に戻って! アイナーに名前を呼ばれたい……。アイナーが絵を描く姿を見たい。評定会であなたが友人に囲まれていたのを羨ましく思ったあの頃が愛おしい。家ではそっと呼び寄せてくれたように、その手を肩にかけて欲しい……!」涙にすべてが吐き出されていく。



「無理だわ」


 リリーは曇った顔で一瞥し、ゲルダの元を去る。その背中に負けじと投げかけて言う。

「もう寝て! そして、すべて忘れて頂戴」

「ええ」短く間をとり「寝るわ」と呟く。吠えて抑えの効かなくなる妻に、リリーは大人しく答える。表情は見えないけれど、遠慮っぽいのにちゃんとした意思で「だけど、ネグリジェを貸して」と訴える。その頼みをゲルダは声ではたき落とす。

「駄目よ! あなたは眠るの。眠って、アイナーを呼び戻すの。あの頃の本当の夫婦に戻るのだから!」

「……それもできないわ」

「なに?」眉根を寄せて、泣きじゃくるゲルダは子どものように尋ねる。

 リリーは肩を縮こませながらゆっくり首だけ振り返る。

「眠ってもアイナーは戻ってこない。覚えておいて頂戴。アイナーが見ている夢はリリーも見ているの」

 途中、強くしっかりとこちらを向いて言いつける。その表情はもはやアイナーではない。泣きべそのゲルダは去った。

 就寝時、少し前までは同じベッドで寝ていたのに、今は場所も変えられないから、リリーとゲルダは間にカーテンを引いて眠る。結婚生活の何年も、夫とともに過ごしてきた寝床がいつの間にか歪み始めた。リリーが目を覚ましかけた時からそれは始まり、仕事でフランスに移住してから、この状況に至るまで様々な過程はあった。どのように向き合ってくるべきだったのか。今後はどうしたらいいのか。

 見失った夫の影を追いながら、眠るシーツは涙で濡れる。もう結婚生活は終わりかもしれない。それが両方の為なのかもしれない。

 しかしあのアイナーを一人にしていいのか葛藤する。気が弱くて、社交性がなくて、やさしい夫。彼が一人、慣れない土地で迷子になり、人から軽蔑されて暮らす夢を見る。初めて出会った時、声をかけてこない彼にゲルダから声をかけると、恥ずかしそうにはにかんだ青年の面。その夢を見ていると目頭が熱くなってどうしようもない。

 それにリリーにアイナーを取られてしまうような気持にもなる。アイナーは私が支えていく。本当にリリーに成り変わるというなら、私がそれを見守り続けて、一番の理解者になろう。そうでなければこの七年以上の結婚生活は虚像であったのか。手放したくない思いが強くなる一方、正常な判断ができている自信もなく、もう一度ハンスの意見に頼ろうと思い直す。そうして夜は明けていくのだ。




「ごめんなさい、ハンス……。私、本当はアイナーのことも、リリーのことだって応援したいの。わかってあげたいし、力になってあげたい」目の前のハンスにそう打ち明ける。

「けれど、リリーはそれを望んでいないわ。私でない人物の方をきっと、支えとしても、今後のパートナーとしても求めている。ねえ、私独りよがりよね。どうしたら一番いいのかしら……」

 ハンスも机に真剣な表情で頬杖をつく。拳で頬を支えて考え込むか、ゲルダを労わる言葉をかけてくれる。彼にできることは少ないが、こうして支えられているゲルダにとっては大きな存在だ。「一緒に支えていくよ。アイナーの友人として、君の友人として」そう言って励ましてくれるのだ。傍らで冷めた珈琲は飲み込む気にはなれなかった。




 ハンスを頼ってから暫くして、ゲルダはアイナーと別れをする決心をした。久しぶりで、もう見ることのない、黒い紳士コートと帽子のアイナーを汽車に見送る。ハンスも駆けつけ、二人で、長い旅に出かけていく彼を見送るのだ。

 アイナーは完全なリリーになる為に、国境を越えた先のドクターの元で成功例のない手術を受ける。性別を適合させる執刀できる者も少ない大手術だ。その医師を探し出せたのはゲルダとハンスに支えられた、アイナーの意思の強さだった。本当の自分を追い求める心が、傷つき、暴れ、他を傷つけて今そこにある。

 善か悪かではない。影を求めるのは誰にでもあること。アイナーの追う影は長いこと眠らされ続けて、しかし確かに自分の中にあった。

「気を付けて」切ない表情のゲルダに見送られて、最後の挨拶。妻と幼馴染を汽車から見下ろし、気弱そうにだが希望に満ちた目が語る。アイナーはゲルダに感謝していた。リリーを目覚めさせてくれたのも、それを自由へと送り出してくれたのも彼女だったから。彷徨ってきたすべてが終わる、と束の間微睡む。まだまだこれは終わらない戦いだと知りながら、まだそれを完全には理解してはいないのだ。


 ゲルダはアイナーを手放して、リリーになった彼を愛し続けることはできないかもしれない。リリーもゲルダを愛することはないかもしれない。ただ、その虚像を追いかけるだけよりも、確かに手で触れられるように、アイナーを助けてやりたいと思ったのだ。命を落とすか、成功したとしても確実に健康に生きられるともわからない道でも、進んで行くのを止めることをゲルダはしない。

 愛した夫の実像が失われる最後の姿を目に焼き付けて、自分だけの額をつけて飾りたい。私が愛したあの日までの夫。私の足首に惚れたのだと、照れ隠しを交えて友人たちに話し、その場を盛り上げた夫。少しずつ見えなくなるアイナー・ヴィーグナ―。それは虚像と変わっていく。

 リリーはあなたなのだ。

 見送る寒空に巻く、汽車の煙が白んで視界を曇らせる。

                            








 アイナー・ヴィーグナ―(一八八二~一九三一年没)

 ……後のリリー・エルベ。睾丸、陰茎の摘出手術、子宮の移植手術を度々重ね、法的に認められたリリー・エルベとしてのパスポートを取得。移植の拒絶反応に何度も見舞われた為体調の悪化は著しく、四八歳にて永眠。

 ゲルダ・ヴィーグナ―(一八八六~一九四〇年没)

 ……アイナーの元妻。婚姻は一九〇四~一九三〇年。最期までリリーを支援し、婚姻無効となった後に再婚。二度目のモロッコでの結婚生活中に描いた作品の中で、リリー・エルベとの婚姻の過去を著す。二度目の短い結婚生活と、離婚を経験した後、故郷のデンマークに戻り数年後に永眠。

              終わり



 あとがき

 お読みいただきありがとうございました。

 『虚像を抱いて』『リリーのすべて』の二作品を同時に作り上げることに、意味があるように思って取り組みました。どちらも人生の内で、魂宿る肉体と、その自身が進んで行く道程にある些細な起伏から生まれる諸事情を、想像して貰える空間を残すことを意識しました。一見普通でなくて、困難に直面しているように思えるものも、決して特異なことではないのだと捉えられるように考えて書いたものです。

 映画『リリーのすべて』(二〇一五年)からは、重要な勉強の機会を与えられました。初めてその映画を見てから四年ほど、いつか自分の文章でその人物たちの思いを著してみたいと思っていました。今回のものは思い切って書き上げましたが、映画としての作品からの影響が強く、また実際のアイナー、リリー、ゲルダの思いに触れることはできていないことを告白して結びとします。

 最後までお付き合いいただきありがとうございました。

                         坂本 治


 

 




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リリーのすべて 坂本治 @skmt1215

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