虚像を抱いて

坂本治

虚像を抱いて

             


 ――恋することに私はあまりに不器用で、失敗し、愛されないと諦めた時、

 自分で自分を愛そうと決めました。――


 

 庭の木々はあっという間に、清々しい青に変わっていました。いつの間にか蝉が泣き始め、何時いつ頃からか泣き声が幾度か交代を重ねました。世話をしていないのに、毎年生えてくる朝顔の弦が壁を這い、しぶとく屋根の裏まで到達せんとしています。油絵の具のついた筆の手を止め見えない風の吹く方を向きました。

 朝顔と幾本かの庭木に囲まれた小さな家で過ごして何年になるでしょう。

 生まれ育った実家の庭を思い出そうとするけれど、障子の開いたところから簾の網目を越えて入ってくる日差しに目を細める内に、そんなこと思い出さなくてよいと、頭の中に白い靄がかかったようになるのです。


 幼い頃、家族と庭で撮った写真があったのは覚えています。まだ写真はそこまで流行ってはいない当時でした。機械の得意な両親が奮発して、手に入れた大きくて真新しいカメラを向けられても、幼稚園にあがって暫くの私は、いつもレンズを睨んだ顔をしていました。決して常に不機嫌な子どもでも、我儘な子どもであったわけではありません。写真というものが特に苦手であったのです。近所の子どもたちと公会堂で新年会だとか、進級の時期だとか、果てには運動会ならびに学校の行事でも、写真は必ずと言ってよいほど付きものでした。

 こんなものが季節ごとに、毎年、その次の年もとやってくるのです。カメラだって私一人をとらえているわけではないのに、そこに私は写らなければならないのか。写真が後に残って、誰ともわからない誰かの目に触れたらと思うと、ぞッと恐怖します。

 レンズに向かって笑っている過ぎた瞬間など、後世の私しか知らない者には何と思われるか、そう考えると気に病みます。そんな心は幼い私に、じっとレンズの奥を見つめることしか許さなかったのです。だから私の写真は多く残っていません。



 今はここで、誰と住むでも、誰と会うでもなく暮らしています。仕事に油絵を描けるようになったのはつい最近何年かのことです。

 写真は苦手でも、絵を描くのは子どもの頃から好きでした。「好きこそ物の上手なれ」とは言ったもので、実際の物でも、想像のものでも人並み以上に書き上げる腕前を身に着けることができました。美しくも侘しくも、悪しくも儚くも変化させることができるのです。レンズを向けてこちらを見てくれない人物も、微笑んでくれない人物も、歯を見せて笑えない人物も、私の筆では私の思うように描けます。

 幼い頃から笑って写真に写れなかった私が言うのも、可笑しな話だと思うでしょうか。いつの間にか、自分がカメラを構える側の気持ちに立っているのです。しかし私にはモデルがいません。この部屋に被写体の人物を呼ぶこともありません。過去にも、これからも同じです。


 午後が始まったばかりの太陽が、惜しげもなく降り注ぐ箱庭に、縁側へ向かって歩いてくる姿が見えました。この人は被写体ではありません。手に持った薄い冊子を日よけにして額にかざし、陰った顔を暑そうに歪ませて笑いかけました。


「またその人を描いておられますか」とその人、隣の家の初老の男が、回覧板を差し出しながら言うのです。目元の皺に汗が光っていました。彼がこうしてやって来ては縁側に腰を下ろすことに怒りを覚えたことはありません。挨拶を返しながら微笑むが、上手く筋肉が動かずひきつったようになってしまいます。

「はい。もう会うことは叶わない恋人ですから、何度でも描きたいものなのです」穏やかに言ったので、私の下手糞な笑い方はそれほど気にならなかったのでしょう。

「恋人の方ねえ。行方が知れないのでしたか」

「ええ」

「もしかしたら、またどこかでその男性に巡り合える……など、自分に言われたくはないですよね。すみません」

 喋り出しては気まずくなって後頭部の短い髪を片手で触る。その男の仕草を見届けながら、少し間を置いて私が続けました。


「もう会えません。それだけはわかっています」あまりにはっきりと言ったものですから、彼からハッとこちらを伺う視線を感じましたが、気づかないふりをしました。

「それは……一体……」

 言いかけた言葉を男は飲み込んだようでした。私はその人が何を想像したか、何となく読み取りました。肖像画の人物がもうこの世にいないと理解したのなら、それが一番よいでしょう。それ以上、この人に語ることもないのですし、そう思って切り上げることにしました。

「回覧板、ありがとう存じます」カンバスを背にして向いていた方へ頭を下げると、男は用事がなくなっていることに促されて、縁側からよろりよろりと立ち上がります。半分程度巻き上げた簾に気を遣いながら、こちらを向いてまだ何か言いたげな様子でした。私が黙って控えめにそれを見上げていると、

「あのォ、暑いからね。一人暮らしみたいだし体調に気を付けてね。もしよければ自治会の会合にも顔出して。うちの家内は給仕係だから、何かと集まりの際は必ず出てくるからさ、居場所に困ったら頼ればいいよ」

 そう誘ってくれる町内会の集まりも苦手でした。草むしりやら、納涼会、新年会、防災訓練など、家族連れや家長たちの中に一人で入って行く必要もありません。奉仕作業への出不足金なら払います。町内会の者たちだって、結婚もせず、どこから来たとも知れない女を歓迎する義理もないのです。こちらが話す身の上話だって何もないのですから。

「お気遣いありがとうございます。機会がありましたら」

「うん」気を悪くしている風ではないが、これ以上の頑ななこちらの態度に今後どう向かってくるかはわからない。

 私は何をそんなに世間と垣根をつくりたいのでしょう。隣家の男性の後ろ姿を見送ってふと考えを巡らせました。遡る記憶はやはり靄がかかっていましたが、十四五歳の時にはすでに、一人きりで暮らしたい思いを抱いていたのでした。


 幾ばかりか大きくなっても学校という場所は、私にとって終えなくてはならない義務でしかありませんでした。周りの学友たちと上手く付き合うことにも疲れましたし、それが決して器用にできるわけでもなかったことも加わりました。それでも一抹、人と繋がる喜びは知り得ました。他愛もない会話をし、試験の相談や対策をする友人が数名はいたのです。クラブは入っていませんでしたので、放課後の空き教室でグランドのクラブ活動を眺めていました。

 夕方の空が近づいて、オレンジから紫に変わっていく様は私の心に沁みいる濃さでした。教室で囁かれる恋愛話を思い出しても、私には目で追う背中などありませんでした。それなのに、淡く強い刺激に触れてみたいとも思っていました。けれども私が恋を自覚することはなく、人並みに恋に羨望する時代を送りました。


 成人も近づいた頃、自分の中の不自然に気づいたのです。

 誰かに恋してみたいのに、それが叶ったことはありませんでした。向日葵が背を高くしていくのに、咲いてみたらそこに太陽はなかったのです。私は自分の向くべき方向が間違っていたのだと思いました。そして必死に太陽を追いかけて、あっという間に転落しました。平易に言えば、無理な恋をして敗れたのです。

 私を理解できるのは、当時、自分自身だけでした。

 

 働いて貯金ができた後に、私は自分を捨てました。生まれてきた顔を変え、金が間に合う限り、できる範囲の施術を受けたのです。生憎、手術できたのは顔だけでした。しかし私の目的には十分でした。

 生まれたばかりの私の顔を鏡で見た時、それまでとは全く違う人物になった心地でした。美しい曲線の面長の女を、鏡の中に見つけました。微笑むと少しだけ頬が突っ張るけれど、その様子は他人にない、ひそかな陰りを携えているように思えました。施術をしてくれた先生が好意で塗ってくれた紅を唇にのせたなら、帰りがけの商店街の写真店で、写真を一枚写して欲しいくらい上機嫌でした。

 そこから私はその女になって、数少ない過去の自分の写真を絵に描きとり始めたのです。もうこの世にいないその男を、自分はその男を愛していた恋人なのだと言い聞かせながら。筆を動かすと、日に日に意識が刷り込まれていきました。

 男の瞳に色を差すごとに、その瞳を見ながら話をした思い出が出来上がって来るのです。鼻を描き、微笑ませると、供に食事をした景色とその香りが脳内に蓄積されていきます。スーツの袖に時計が覗けば、二人でショーウィンドウの前で盛り上がり、どれが似合うなどと言葉を交わします。一緒に汽車に乗って、宿に泊まった先で大きなカブトムシを捕まえたこと、海を見て、山で蜜柑を摘んだこと。かつての記憶が私の記憶になるのでした。

 男の幼少の頃の記憶は、それに反するように色を失い底の方に沈んでいきました。絵具を洗う油の容器をかき混ぜる度、それが浮かび上がっては、彼の思い出話を聞いたコテージのベンチが記憶に描き込まれました。真実でないものが増え続け、私のカンバスは部屋中、そして何より記憶の中を埋め尽くしていったのです。

「私、愛していますよ。あなたはどうですか、私のこと想ってくれていますかねェ」


 愛している。彼も私を絶対に。

 なぜなら私はあなたなのだから。そこにいない虚像に微笑みかけます。


 カンバスと向き合って眼前の肖像に持たせる花を考える内に、瞼の裏に意識が吸い込まれていきました。夢の中で私と彼は一緒にいて、しっかり手を繋いでいるのです。家に帰って食事をし、会話を弾ませて布団に潜りました。鈴虫や松虫の泣き声、羽音が辺りに響いていました。もうそんな季節に移っていたのかと錯覚しながら、それにしては暑い夜だと思い直しました。

 恋しい気持ちが内側から湧いて、互いのそれを見つけたようにひしと抱き留めるのです。

「また暫く留守にするよ」彼が言うのです。

「一緒には、いられないのね」見合わせた瞳に言葉に返します。何十枚と描いて来た肖像の目がそこにあります。

「一人じゃないよ。現実では一人だけれど、いつも同じ所にいるんだ」

 彼の向かって左肩の首元に額を寄せる。私の肩を抱いた両腕はしっかりとそこにあって体温だって感じるのに、それはどうして夢だとわかってしまうのでしょう。

「夢でしか会えないなんてあんまりよ」

「僕の絵を描いてくれたら、僕は生き続ける。そうする限り君に会いに行けるのだ」

「あなたの目、もう覚えてしまったわ。他の部分だってもう見なくても描けるの。どんな表情だってお手のものだわ」意地を張るように私はまくし立てました。たまにしか帰って来ない恋人を待つ気分にでもなったのでしょうか。私の頬が触って、彼の服の生地につくった皺を見つめていました。毎日洗面台で見る自分の目と同じ、彼の瞳を覗いていることがふと怖くなるからです。

 彼は私の髪を撫でました。住まいや顔を変えてから、ずっと伸ばしている黒い髪を暗闇でゆっくり梳いていました。

「僕は君に生かされている。君が生きている限り、僕もずっとここにいる」

 ほどける腕を追いかけて、彼の両肘を掴もうとして自分だけ布団の底に抜けていくように落ちていきます。



 気が付くとそこは布団の下でもあの世でもなくて、ちゃんとした畳の上でじっとりと汗をかいた私が横たわっておりました。そのままにしたカンバスの絵具は少しばかり表面の色を変えて来ています。庭の日差しも弱まって、蝉は大人しく、烏の声を届かせました。オレンジ色の日光は簾にも纏わりつく朝顔の、取り除かれることもない枯れた花弁を照らしています。呆然とした自分に気づき、はたと思います。私は画家で、一人暮らしをしながら彼を待っているのだと。

 彼は夢の中で何度でも私への愛の言葉を囁いてくれました。私が欲しいだけの言葉と想いを与えてくれて帰るのです。ただ一つ、実際に会いに来てくれることはありませんが。

 今立ててあるカンバスの中の、むっと無表情の彼は何を思うのでしょう。何時いつかの写真のままの顔をあえて再現した肖像を、同じく無表情で見上げています。周りに花瓶か、花束でも持たせたら、幾分か華やかになりそうです。でもそんなものは必要か、もう一度考えます。私が必要なのは彼だけなのです。手土産の花束を受け取ることも、香しい花の匂いを知ることもありません。所詮彼は絵の中なのです。

 そんなことを言っては、あれほど苦手だった写真と同じような絵を、どうして描くのかと聞かれてしまいます。私にとって絵は救いなのです。そこにないものを描くのです。真実を写すレンズにはできないことです。だから、花など飾るのは退屈しのぎで、本当の所は変わらずにまた彼を生かさなくてはならないことです。齢を重ねた私とこれからも共にあるように、齢を重ねた彼を描かねばならないのです。愛する対を生み出した私の責任です。

 見えないあなたよ、どうかここに現れて、私と見つめ合う時間を共有してください。その一心で眼前のカンバスに生み出すのです。自分の恋人として、誰とも向き合うことに屈した自分を癒す存在を、姿を変えてまで手に入れたもう一人の自分の像を。私が眠らせた私を何度も揺り起こしながら、自分を愛する存在でありますようにと。


 サンサンとした太陽が沈んで、私は薄暗くなって来た部屋の一室で筆をとります。その人物が今夜にでも、自分を抱き締めてくれるようにと祈りながら、丹念に向き合っていくのです。愛する恋人の虚像にすがる。直に現れる事のないそれを待ち詫びたかのように、切なく、五月蠅く泣きじゃくる。その場で頭を垂れて、手から滑り落ちた筆が、畳の上に転げて汚しました。かつての自分も今の自分も実像は何処に。「私は、私は誰で……!」丸まる背中が震えています。

「僕が君である限り、必ず愛してあげられる」

 どこからともなく響いた言葉は、自分の中から聞こえたものです。この状況をカメラのレンズはどのように写すのでしょう。きっと一人の憔悴した女しか写しませんが、本当の所は二人ほど人物が写るべきでありましょう。あり得ないものを描き出すのはカンバスの方が有意義かもしれません。それが自分である限り自分は愛される。

 一人の人物から生まれ、互いに縛り合った二つの人影が解かれるのは朝顔の弦と同様に、細く茶色く枯れ落ちて、次第に纏わりついた簾や網から剥がれ落ちるようになるのを待つしかないのです。

 ずっとこんな話をしてきましたが、この人物がしがみつくのはカンバスでも、写真でもありません。弱った心を埋める為に、おぼろな記憶が生み出した、自覚もない虚像を抱いて眠るばかり。その腕に閉じ込める自分以外の肉体などないのです。届かないのは心も体も同じこと。外界社会との接触はなくなって、肉体ひとつの自分のみが居る部屋で、透けた記憶に抱かれ続けているのです。

                           終わり

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虚像を抱いて 坂本治 @skmt1215

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