第3話
今ならあの日、何があったのか理解できる。ダルニスは売られたのだ。貧しい農家を営むあのメルイトから、旅をするタンガスとハンクスのメルイトに。タンガスとハンクスが自分と引き換えに何を差し出したのかは知らない。けれど、そんなに高価な物ではなかっただろうとダルニスは思う。なぜなら、それほどまでにあのメルイトは困窮していただろうと想像できるからだ。断片的にしか記憶にないが、あそこにいた大人たちは皆、やせ細っていた。目には生気がなく、余裕がなかった。ダルニスが不自由なく食事にありつけていたのは子供だったからだろう。
命のあるところには必ず精霊の力が必要となる。それは人間の命も例外ではない。しかし他の生き物と違い、人間は自分たちが望んだ時に精霊の力を受けることができる。逆に言えば、人間は自ら望まない限り子供を授かることはない。
人間が子供を授かるにはドゼル山に登り儀式を行う必要がある。ドゼル山に宿る精霊に言霊を送り、精霊からの許しが得られれば子供を授かることができるのだ。人々は自らのメルイトを繁栄させるために子供を望み、ドゼル山に登る。そうして授かった子供は、十分な食事と衣服が与えられ、大切に育てられる。それはメルイトを繁栄させるためだけではない。子供を大切にしていないと精霊の怒りをかってしまうからだ。自ら望んで授かった命を粗末に扱うことは許されない。しかし子供を望んだ者が皆、子が成長するまで育て上げられるとは限らない。ダルニスのいたメルイトの者たちのように、困窮しているのにも関わらず子を望むメルイトもある。その考えが浅はかだと思う者もいるだろう。しかしあのメルイトの者たちは、ダルニスを授かることがメルイトを存続させる最善の策だと考えたに違いない。おそらく圧倒的に足りない労働力を、少しでも確保するために。しかし上手くいかなかった。だからダルニスは売られた。タンガスもハンクスもそのことを話題にするのを嫌がったから本当のところはよく分からないけれど。
ダルニスは今、ドゼル山にいる。もちろん子を授かるために。昔のことを思い出すのは、これから授かろうとしている命の重みを恐れているからだろうか。いや、そうではない。自分はハンクスのようになりたいのだ。あの日、ダルニスは初めて喜びを感じた。それまでもあのメルイトで大切にされていなかったわけではない。必要な食事は与えられていたし、衣服も比較的清潔なものを与えられていた。けれど、自分の頭を優しく撫でたあの暖かい手。茶色い瞳はまっすぐにダルニスを見据え、口元のほころびには安心感があった。白い肌は透き通るようで、日の光で輝く金色の長い髪は勇ましかった。
むかしむかし おおむかし
光の精霊が生まれました
この物語を初めて聞かせてくれたのもハンクスだった。あの日の夜、タンガスが手際よく張った簡易的な革の屋根の下で。少し離れたところで野営の炎がぱちぱちと鳴いていた。ハンクスはダルニスの胸のあたりをトントンと優しくたたきながら語ってくれた。
光のあるところに水が生まれ
水のあるところに土地ができ
土地のあるところに緑が溢れました
金色の長い髪が、炎の灯りを浴びて橙色に見える。
光の精霊がふうっと息を吐くと
地面から赤い炎が噴き出しました
それが固まると 大きな山になりました
その声はまるで生きているように、ダルニスの体の中を駆け巡った。頭のてっぺんからつま先まで、ハンクスの声にすっぽりと包まれているようだった。
ぱちぱちと炎が爆ぜる音。あの日見た炎と、目の前にある炎が重なる。
「ダルニス、どうかしたか」
心配そうにダルニスの顔を覗き込んでいるのはタンガスだった。顔を上げると、キディアとトーヤも心配そうにこちらを見ている。
「ちょっと考え事をしてた」
ダルニスはそう言って笑った。皆を心配させたくなかったからではない。目の前にいる三人に心配させるほど、昔のことに想いを馳せていた自分がおかしかったからだ。
「俺の肉、食うか?」
そう言ったのはキディアだった。キディアは自分の器の中に入っている燻製肉をつまんでダルニスに渡そうとしている。トーヤはそれを見て自分もと言わんばかりに器を覗いたが、すでに食べてしまっていたらしく、どうしようか考えている様子だ。
「ありがとう。けど、大丈夫だ」
そんなやり取りをしていると、タンガスは大きく深呼吸をした。
「お前が立派に育ってくれて、俺は嬉しいよ」
優しい笑顔をたたえてそう言ったタンガスは、暖かい眼差しでダルニスを見ていた。幼いダルニスを軽々と持ち上げたたくましい腕は健在だが、顔にはあの頃よりも深い皺が刻まれている。
「こうして立派に育ったのは、ハンクスとタンガスのおかげだよ。ありがとう」
「俺はなにもしちゃあいない」
ふっと笑い、タンガスは言う。おそらく照れ隠しだろう。
あの日からこのメルイトは始まった、とダルニスは思う。ダルニスが加わる前のハンクスとタンガスがどうだったのかは知らないが、ダルニスにとってはあの日が特別な始まりの日だった。歩くのが遅い、幼いダルニスをタンガスはいつも抱えてくれた。ダルニスがようやくハンクスとタンガスから遅れずについて行けるようになると、キディアが加わった。ハンクスもタンガスもキディアについての詳しいことを話してくれることはなかったが、おそらく自分と同じように売られた子なのだろうと理解した。タンガスはようやくダルニスを抱えずに済むようになったのに、今度はキディアを抱えて旅をした。キディアから手が離れると、今度はハンクスがトーヤを授かった。トーヤが生まれると、今度はトーヤがタンガスに抱えられる番だった。そうして子供を抱えるタンガスの傍らには、いつもハンクスがいた。後ろをついて歩くダルニスが疲れて遅れだすと、ハンクスはいつも大丈夫かと声をかけてくれた。時には手を引いて歩いてくれたし、タンガスのようにとはいかないが、抱っこしてくれたりもした。ハンクスがいなくなった今、タンガスの次に年長者の自分がハンクスのようにならなければいけない。ダルニスは一つの火を囲む者たちの顔を順々に見つめ、そう思った。
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